プロローグ
とある月夜、とある公園、園内の池に沿った散歩道を黒いコートにニット帽、ズボンも黒の男が通りかかる。そのすぐ側には30代半ばであろう女性がベンチに腰掛けている。何をするわけでもなくぼーっと池を眺めており、男のことなど気にもしていない。それはおろか、気づいてすらいないのかもしれない。しかし男の方は、しっかりとその女性の方を向いている。彼の脳裏に忘れようとしていた記憶が甦る。20年…その月日は、残酷なそれを消し去るにはまだ足りなかった。
男は足音と気配を出来る限り消して女性に近づく。決して知り合いの女性ではない。面識すらない。それでも男の歩みが止まることはない。やがて女性の横にまで足を運ぶ。それでもまだ女性は反応ない。男はその場で深呼吸をした。ゆっくりと息をすい、ゆっくりと吐き出す。深々と腰掛けているその女性は逃げ出せないであろう。それをもう一度確認すると手袋をしっかりとはめ直す。犯罪を犯すために持ってきたわけではない。本当なら今頃家に帰っていたであろう。だが不意に、思い出してしまった。あの頃を…
行動に移るまでは随分かかったが、殺人という行為自体には時間はかからなかった。一気に首を締めて、そのまま体重をかける。女性は突然のことに驚きつつも、首を締められ声も出せずに振り払おうとしたが酸素が足りずに手が動かず、やがて動かなくなった。
女性は死体になった。だが、男はそのことに恐怖を感じつつも同時に感動をも感じていた。静かに死体の横に座る。そしてポケットから簡素なブックカバーに閉じられた本を取り出して開く。
「昔々あるところに…」
夜の静寂の中、男は一人で本を音読し始めた。否、読み聞かせているのだ。息を引き取った横の女性に向けて。