第25話 口を開く家
集会所の席をずらした翌朝、北山さんから短い連絡が来た。
「母が、話したいって」
それだけだったが、十分だった。
昨日まで黙っていた家が、先に声を出してきた。
あやかに場所を確認すると、その家は集落の少し奥、古い空き家の並びにあった。
外から見れば、どれも似たような家だ。
けれど、玄関の前に置かれた鉢の数や、郵便受けの手入れの具合で、どこが今も動いているかは分かる。
通された座敷には、北山さんの母親と、白髪の多い女がいた。
昨日の会合ではほとんど口を開かなかった人だという。
「昨日は、よく聞こえなかったのよ」
白髪の女がそう言った。
「大滝さんのことを悪く言うつもりはないの。でも、草刈りの写真と会計のこと、前から変だとは思ってた」
北山さんの母親が、茶を運びながら小さくうなずく。
「うちは、昔から大滝さんの家に世話になってきたから、表立っては何も言えなかった。でも、困るのは困るのよ。畑も、冷凍庫も、雨のあとも」
菜々さんは、急かさずにうなずいた。
「昨日の席順で、話しやすくなったなら、それでいいです」
白髪の女は、少しだけ笑った。
「話しやすくなる席って、あるのね」
その一言で、僕は前の会合の意味を改めて理解した。
変えるべきは、最初から意見そのものではない。
意見が出る前の空気だ。
女は、押し入れの奥から一冊のノートを出してきた。
そこには、草刈りの手伝いが必要な日、集会所の照明が切れた日、空き家の雨漏りがひどかった日が、月ごとに記されている。
「会計とは別に、うちで控えてたの」
「何のためにですか」
僕が聞くと、女は肩をすくめた。
「誰も本気で見てくれないからよ。見えないものを見えないままにすると、あとで全部こっちに来るでしょう」
菜々さんが、ノートの最初のページを丁寧に写した。
草刈りの日付と、雨漏りの修繕、冷凍庫の故障。
「これ、電源の話にもつながりますね」
「つながるわよ」
北山さんの母親が、少し強い口調で言った。
「去年、停電で会計が止まったとき、大滝さんのところがすぐ手を回した。でも、それって恩じゃないでしょう。村の仕事が止まらないようにしただけ。なのに、恩みたいに言われるのが、ずっと嫌だった」
その言葉は、昨日の会合では出なかった種類のものだった。
村の仕組みは、恩と仕事をわざと混ぜている。
あやかが、ノートの脇に小さくメモを入れた。
「空き家の雨漏りも、電源も、草刈りも、会計も、同じ家で見てる」
「そう。だから、誰か一軒が倒れたら終わりになるのよ」
女は、そこで少しだけ声を落とした。
「でもね、もう一軒あるの。昔の炭鉱の頃からの家。あそこがまだ残ってるうちは、村の控えの全部は途切れない」
「そこ、行けますか」
菜々さんがすぐに聞いた。
「行けるけど、向こうは向こうで、口を開く理由がいる」
あやかが、女の顔を見てうなずく。
「理由なら作れるよ。今度は、空き家の修繕と非常時電源の話を持っていく」
その場で、次の線がつながった。
席順を変えたことで、一つの家が話し始めた。
ノートには、生活の不具合が並んでいる。
それは、そのまま村の支配の穴でもあった。
僕は、白髪の女が閉じたノートの角を見た。
ページの端には、まだ書き足せる余白がある。
余白があるうちは、村もまだ動く。
帰り際、北山さんがぼそりと言った。
「こういうの、うちの母が言うなら、他の家も聞くかもしれない」
「聞くよ」
あやかは即答した。
「一軒が話し始めると、次の一軒が気づく。村って、そういうふうに広がるから」
その言葉どおりなら、次に必要なのは説得じゃない。
話せる場所を、もう少し増やすことだ。




