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第1章:冷酷なる現実

# 第1章:冷酷なる現実


最初に死んだのは、「音」だった。


*ピッ……ピッ……ピッ……*


無機質な電子音。東京の無菌室で20年間、俺の生存証明として鳴り響いていた心電図のモニター音が、ノイズへと変わっていく。


次に訪れたのは、冷たさだ。


それはICU(集中治療室)の管理された空調のような、礼儀正しい冷たさではない。骨の髄まで染み込んでくるような、湿った、暴力的な寒気だ。

匂いも違う。消毒液やラテックスの匂いではない。もっと生々しい


鉄。血。汗。そして、獣脂を燃やしたような鼻をつく油煙の匂い。


「奥様、いきんでください! もう頭が見えています!」


野太い声。切迫している。


俺は目を開けようとしたが、まぶたが重い。粘着質の液体で張り付いているようだ。

状況を確認しようと口を開く。「バイタルが低下しているのか? 手術は失敗したのか?」と問いかけようとしたが、喉から漏れたのは湿った唸り声だけだった。


*(なんだ? 麻酔が切れたのか? それとも心停止したのか?)*


恐怖が走る。それは、二つの異なる人生を「死との闘い」に費やした男の、鋭利な生存本能だった。


一度目の人生。俺は**ミナト**だった。

欠陥品の心臓と、濡れたティッシュのような肺を持って生まれた俺は、青春のすべてを病室の窓から外を眺めて過ごした。漫画を読み、走ることを夢見、戦うことを夢見、ただ痛みなく「在る」ことだけを願って、弱者として死んだ。


二度目の人生。俺は**『武林ムリム』**に放り込まれた。

神からのギフトだと思った。物語で読んだような、愉快な異世界冒険が待っていると思ったのだ。


だが、間違いだった。


武林は屠殺場だった。

生き残るために、俺は人間性を捨てた。泥水をすすり、ドブネズミのように這い上がり、ついには**『天魔』** 天魔神教の絶対的支配者へと登り詰めた。

数千人を殺した。正派の偽善者どもを焼き尽くした。二度と誰にも見下されないよう、俺は怪物になった。


世界の頂点に立ったはずだった。


それなのに、今はどうだ?


「出ました! 肩が抜けましたぞ!」


ゴツゴツとした巨大な手が俺を掴み上げる。それは日本の外科医の繊細な手袋の感触ではない。分厚く、タコだらけで、生温かい体液で滑る手だ。


*パァン!*


尻に走る鋭い痛み。


「オギャアアア!」


抑え込む間もなく、叫び声が漏れた。

屈辱だ。即座に理解した。十大門派や少林の達人たちを瞬きもせずに鏖殺おうさつしてきたこの俺が……生まれたての子豚のように悲鳴を上げているだと?


*(誰だ? 俺を叩いたのは)*


身体が痙攣する中でも、俺の思考は冷徹に、そして殺意を込めて回転していた。


*(今の打撃角度……掌底か。殺意は低いが、侮辱の度合いは極めて高い。この手の感触、覚えておくぞ。後で必ずへし折ってやる)*


「男の子ですぞ、男爵様! 元気な男の子です!」


ようやく視界がクリアになり、ぼやけていた影が形を結ぶ。


そこは病院ではなかった。天魔峰の瞑想室でもない。


粗削りな石と、黒ずんだ木材で組まれた部屋だ。明かりは獣脂の臭いがする蝋燭の炎だけで、湿った壁に長い影を落としている。


ベッドには一人の女が横たわっていた。顔は青白く、汗で髪が額に張り付いている。ボロボロに疲れ果て、荒い息をついているが、その顔立ちは儚くも美しかった。明らかに栄養失調だが。


その傍らに立つ男。

彼は革鎧を着ていた。物語に出てくるようなピカピカの儀礼用ではない。傷だらけで、艶の消えた、本職の「殺し」に使う防具だ。錆止め油と、乾いたゴブリンの血の匂いがする。


男はすぐには笑わなかった。まず女の胸を見て、呼吸があることを確認し、女が小さく頷くのを見て初めて、俺の方を向いた。


「静かだな……」


男は疲労の滲む声で呟いた。


「もう泣き止んだのか」


助産師 歯の欠けた、汚れたエプロンをした老婆が、紙やすりのような布で俺の体を乱暴に拭いている。彼女の視線は、ベッド脇のテーブルに置かれた銀貨に釘付けだ。強欲な目だ。


「肺は丈夫そうです。ご覧ください、男爵様。この目を。混乱した子犬のようにキョロキョロしておりません。じっと……何かを見据えています」


ああ、見ているとも。

戦術的状況分析を行っている最中だ。


*(石造りの壁。文明レベルは低い。男の腰にはロングソード。使い込まれており、鍔元に刃こぼれがある。女は衰弱状態。助産師は注意散漫かつ身体能力低。脅威レベル:低。全裸であることの懸念レベル:高)*


俺は気を練ろうとした。丹田へその下にあるエネルギーの源泉を探る。


*(……無い?)*


さらに強く意識を集中する。前世では山をも飲み込むほどの魔気が渦巻いていた俺の丹田が、干上がっている。砂漠だ。


だが、それ以上に深刻な異常があった。

世界の「自然エネルギー」が、俺の中に入ってこないのだ。


*(待て。毛穴は開いている。経絡も存在している。なぜ気が流れない?)*


巨人たちを無視し、大気に意識を向ける。


ここにはエネルギーがある。だが、それは「気」ではない。

もっと荒々しく、混沌として、振動している。俺の感覚神経を逆撫でするような不快な波動。


**『マナ』だ。**


そして、俺の肉体はそれを完全に拒絶していた。まるで水中で呼吸しようとするかのように、俺の全細胞がマナに対して門を閉ざしている。


「コアを確認しましょう」


男爵と呼ばれた男が、タコだらけの指を伸ばしてきた。


指先に、頼りない青白い光が灯る。酷いエネルギー制御だ。ブレブレで、力が四散している。だが、それは明らかに魔法だった。

彼はその指を、俺の小さな胸に押し当てた。


一瞬の沈黙。窓を打つ雨音さえ止まったように感じた。


青い光は明滅し、俺の皮膚に入り込もうとし、そして……霧散した。

まるで水を弾く油のように、俺の体は何一つ受け入れなかった。


男爵の表情が凍りついた。目に宿っていた希望の光が消え、重く、押し潰されるような絶望に変わる。彼は火傷でもしたかのように手を引っ込めた。


「アーサー……?」


ベッドの女が弱々しく呼ぶ。


「あの子は……?」


男爵は背を向け、窓へと歩み寄った。暗く、重苦しい森を見つめるその背中は、世界のすべてを背負ったかのように丸まっていた。


「反応がない」


男爵の声は平坦だった。感情を殺した声だ。


「コアが無い。火種さえ感じられない。……『マナ・ヴォイド(魔力欠乏症)』だ」


助産師が固まった。俺を見下ろし、それからテーブルの銀貨を見て、唇を歪めた。


この世界において、マナを持たない貴族など農民以下だ。欠陥品。壊れた道具。彼女の目はそう語っていた。


「マナ・ヴォイド……」


母親の目に涙が溢れる。


「ああ、可哀想な私の赤ちゃん……。どうやって生きていけばいいの? 呪われているなんて……」


俺は彼らを見上げた。


母親の目には、深い憐れみ。

父親の沈黙には、押しつぶされそうな失望。

助産師の目には、腐った果実を見るような隠しきれない嫌悪。


*(俺を「壊れている」と思っているのか)*


俺の歯のない口元が、誰にも気づかれないほど微かに歪んだ。冷笑だ。


こいつらは分かっていない。


マナなど、場所を取るだけの不純物だ。血管を詰まらせ、肉体を外界に依存させる松葉杖だ。世界から力を借りなければ生きられないのなら、それは世界の奴隷に過ぎない。


だが、俺の体は?

空っぽだ。

純粋だ。

この世界の汚らわしい「マナ」による汚染が、一切ない完全なキャンバスだ。


武林では、これを**『天魔の肉体(原初の器)』**と呼ぶ。


千年に一度現れるかどうかの奇跡。海を丸ごと飲み込めるほどの虚無。自然から力を借りるのではなく、自然そのものを「捕食」するための器。


*(いいだろう。憐れむがいい。無視するがいい。お前たちがくだらない魔法遊びに興じている間に……俺はこの完璧なキャンバスに、最強の**『天魔神功』**を描き込んでやる)*


俺は深く息を吸い込んだ。

赤子だけが持つ、世界に汚染される前のわずかな「先天の精気」。消え入りそうなその糸を、俺は干上がった丹田へと引き込んだ。


三度目の人生が始まった。

そして今回、俺の手札は「白紙」だ。最高じゃないか。


*(さて、最初にするべき仕事だが……)*


急激な眠気が襲ってくる中、俺はまぶたを閉じた。


*(寝よう。そして起きたら、あの助産師を解雇する計画を立てる。汚れた布で俺の顔を拭きやがった。万死に値する。来週の火曜日までには追放してやる)*

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