常識
生魚が猛毒扱い。
それは寿司職人であるトラジにとっては死活問題となる常識。
異常とも思えるその当たり前に立ち向かう。
生魚が毒? ちょっと待て。どういうことだ。
いやいや。聞いてないぞ。
この世界で寿司を握ることが調和となるって、女神シャウザ・ニークが言っていたじゃないか。
「生魚の毒成分は強い熱を加えないと分解しないの! しかもあんまり美味しくないって言われているわ。分かったの星流人さん!」
エレノールの強い非難の口調とフィリナの怯えるような目線。
ミンミが唸るような鳴き声を発する。
(まさか、猫でさえ食べたがらないなんてな……)
包丁で魚を捌こうとする手が止まる。
俺はグリューンを見た。奴は大きくウィンクしてサムズアップ。
(分かったよ。お前を……そしてこの神の包丁を信じるよ!)
意識を手元に集中する。
ほのかな焔に包まれる刃先。
それは信じて欲しいという言葉を自らが発しているようだ。
覚悟を決めた。
「元いた世界ではこうやって魚を捌いて生で食べていた。そうだよ、もしも毒という常識が間違っていたとしたらどうだ!」
不思議だったのは初めて見る種類の魚なのに、どこか知っているかのような、馴染みのあるようなそんな感覚を感じた事だ。
3枚に下ろす。
手慣れたものだが、まさか初めて触れる魚を的確に処理できるとは正直思わなかった。
包丁が鈍い炎を放ち……ジュッという炙るような音を立てる。
脂が弾け、その炙りの匂いが洞窟いっぱいに広がった。
お腹が早く食べさせろと盛大に主張し始めた。
その時、俺の頭の中に浮かんだ言葉。
遠き元いた世界の異国の言葉が自分の中の意識と融合し、自然と口から紡がれる。
『品質保持』
目の前の魚の切り身――刺身が小さな光を帯び、語り始めたかのようだ。
ずっと孤独に咲いていた花を愛でるかのように、自分の指がしなやかに動く。
(これでいい。そう、これでいいはずなんだ)
強い確信が心の中を駆け巡った。
生だと寄生虫や食中毒が怖い。
劣化を防ぎ、美味しさを長持ちさせたいと願った魔法の言葉。
「相棒。包丁をだんだんと使いこなせてきているな。いい傾向だぜぃ。そうさ! 言葉は包丁を通じて現実になり、願いを叶える力として発動するんだ」
ノリノリで腰を振るようにくねくねダンスをするグリューン。
「なんて魔力を練るの……包丁から放たれている膨大な力。そして紡ぎ出された言葉から感じられるトラジの魂の本流。大好物よ! やっばいんだけど!」
「これが神機の力……」
フィリナやエレノールが俺の一挙手一刀足に注がれている。
俺は大きく口を開ける。
自分の作った刺身を口に放り込んだ。
一気に広がる魚本来の甘い香り。
舌を包む、とろけるような滑らかさ。
口の中で踊るように感じる繊細な魚の繊維の感覚。そして甘い香りの後に感じるのは、舌の上に残る微かな塩味。
「う、旨い! これは旨いぞ!」
思わず口に出してそう叫んでいた。まさか、異世界に来てすぐに刺身に出会えるとは正直思ってもいなかった。
「おいトラジずるいじゃないか! オイラにも食わせろ!」
刺身をグリューンの口の前に持っていく。器用にグリューンは口の中に刺身を滑り込ませて美味しそうに飲み込んだ。
「うんうん! かなり旨いじゃない!」
左肩の上で小躍りするグリューン。
そんな幸せそうな笑顔をして小躍りするほど喜んでくれたのは嬉しい。
「そんな! 生魚が毒じゃないなんて。食べられるっていうの!?」
エレノールが大きく目を剥く。
「ーー食べさせてトラジ。本当に毒じゃないかどうか知りたいの」
俺を見つめていたフィリナが小さくつぶやく。それは自分の中の常識という怪物と戦う勇敢な戦士を彷彿とさせた。
彼女の手のひらの上に刺身をのせる。
フィリナは自分の手の中にあるそれをじっと見ながら、小刻みに体を震わす。
「やめな! フィリナ!」
エレノールが細く短く警告の声を飛ばしているが、瞳が震え若干の迷いが混じり始めている。
「俺やグリューンが美味しく食べれているんだ。フィリナが食べれない訳がない。そして、この魚の美味しさは保証する」
そっと彼女の肩に手を置き、諭すように、やさしい眼差しで見つめた。
フィリナは大きく何度も息を吸い、荒く吐き出す。
グリューン、エレノール。そして最後に俺に目を移す。
「毒じゃない。毒じゃない……トラジは食べているんだ」
「そうだ。これは俺の住んでいた世界の料理で刺身って言うんだ。俺もグリューンも死んでないだろ」
フィリナは手の中にある刺身を整った鼻に近づける。小さく匂いを吸い込む。
「……いい匂いがする」
喉がごくりとなる音。
(わたしはなんで彼のことを信じようと思っているんだろう。自分でもわからない。御師様とは違う。あたたかな焔に灯されているよう)
その述懐は誰の耳にも届かないもの。
神の包丁と女神シャウザ・ニークの顕現。
トラジという、この世界のものではない異分子の言葉。
それが、彼女の凍てつく心を少しずつ溶かしていることを。
フィリナは両目をつぶり、一気に刺身を口の中に放り込んだ!
ゆっくりと口の中で噛みしめながら味を確かめる。
最初は不安げだったフィリナの表情が、刺身を口に入れてから大きく変化するのを俺は見逃さなかった。瞳が大きく開き、口元から驚きの声が漏れた。
「……お、美味しい!」
噛む度に瞳は輝きを増し、最後には満面の笑顔になる!
「それだよ、その表情だよ。そうさ。旨いだろ!」
これは刺身だけど、それはそれ。
自分の寿司を食べて幸せな表情を浮かべている人たちを見るのが好きだった。それは寿司を握っていて心底良かったと思った瞬間。
俺はこの時、この世界で何をしなければならないのかを、本能的に感じ取ったのかもしれない。
師匠に言われたから? 確かにそれもあるとは思うのだけど。
それは自分の中の魂の琴線に触れること。
いつかこの世界でも寿司を握りたい。笑顔を見たい。
寿司を握ることで誰かを幸せにしたい。
誰かの心を美味しいものを食べることで震わせることができたら!
ただそれだけの為に、自分はこの世界に辿り着いたのかもしれない。




