心を変えるためにできること
食堂内は幸せの温度が最高潮に達していた。
グツグツと煮える鍋から立ち上る、鼻をくすぐるような新鮮味ある匂い。
厨房内で大きな炎が、ボウッと音を立てて熱を周囲に伝わらせる。
ほとばしる汗。手際よい包丁捌き。
俺は笑顔で、厨房内を風のように駆け巡る。
リールライが神の包丁から生まれる焔で焼かれる様は、まるで神話の1シーン。
兵士たちの感嘆の声。
厨房内のおねぇ様たちの黄色い声援。
フィリナとエレノールは食堂の一番前のカウンターに座り、身を乗り出すようにして出来上がりを待っている。
グリューンとミンミが飛び跳ねるようにしての応援組へ徹する。
特にエレノールの表情がくるくると変わるのが印象的。
尖った耳をどうやっているのかパタパタと犬のように器用に動かし、まさに待て状態。
自分の口から大量の涎が垂れてきているのを、全く気付いていないのか気にしていないのか。フィリナが仕方なく拭いている始末。
エルフの神秘的なイメージどこやった。
「よし完成だ。なんとか満足のいく仕上がりになったな」
アンネさんたちに頼み、食堂に口コミで集まってくる兵士たちの食事分を次々と取り分けてもらう。
カウンターで待つ二人と二匹には先に味見役として提供。
エレノールは出された瞬間に、生きてから初めて食事をしたかのような勢いで詰め込み始める。ミンミの呆れ顔に笑ってしまう。
フィリナは丁寧に女神シャウザ・ニークに対して祈ってから食べ始める。
口に含んだ瞬間の彼女の目の輝きが、俺の心を躍らせた。
「……なんて美味しいの。火を通すことでまた味わいが変化してる! 刺身もいいけどわたしはこっちが好みかも。この絶妙な塩加減が煮込んだ野菜と相まってなんとも言えないわ」
「うぐ……もぐ……魚がこんなに美味しいものだったなんて。トラジ! まだ釣ってこれるんでしょ。どんどん持ってきなさい!」
そんな美味しそうに食べている美女軍団二人を見ていたら、周囲も止まらない。
確かに食堂内に集まった兵士たちは、初めは用心深くなかなか口に入れようとはしなかった。しかし食堂内に充満する凍り付いた風を温め直すような、食欲を刺激する匂いに負け、ひとりひとりと食べ始める。
「旨い! 火を通した魚がこんなに旨いなんて!」
「くぅ……これは止まらない。俺達、腹減ってたんだな」
「すっかり忘れていたよ。暖かい食べ物で腹いっぱいにさせる心地良さを……」
兵士たちの満足げな笑顔を厨房内から確かめる。
胸に沸き起こる満足感。
包丁が春風のような音を立てて笑みを称えているよう。
「あんた、トラジっていうのか。悪かったな。さっきはあんなこと言って」
「俺もだ。謝らせて欲しい。しかし素晴らしい料理の腕だ! 神の包丁の使い手というからもう少し近寄りにくいのかと思っていたが」
「おばちゃんも嬉しいよ。本当に久しぶりに食堂内に活気が戻ったねぇ」
兵士たちのねぎらいの声。
食堂のアンネさんたちの涙ぐむ声。
創元師匠の元で修行をしていた時から、口酸っぱく教えられていた。
『心を見ろ、トラジ。答えは自分の中よりも、目の前に座った客の中にある』
そんな師匠の声が聞こえた気がして、どきりと包丁に目を向けた。
焔刃はただ、穏やかに光る。
その時だ。食堂内の穏やか空気が一変した。
それは大きく、切り裂くような風を巻き込むようにして、よく見知った男が入ってきたからだ。
全身を覆う白い体毛が特徴的。野太い声がどこか野生の狼を彷彿させるその姿。
狼獣人ベルガ。
兵士たちに緊張が走る。
「ベルガ隊長! ザイール・ファルナート!!」
一斉に唱和する兵士たち数人。
わなわなと体を震わせ、ギロリと弓で一点に狙いを定めるような目つき。
食堂内を瞬時に見渡すと、大声を上げた。
「トラジ。これはどうしたことだ! 毒魚を貴重な兵士たちに食べさせるだと……ふざけた真似を!」
射抜くような目の中には、まるで親を魚に食い殺されてでもいるかのような敵意が露わに感じられる。
いや。違うな。
視線に漂う、彷徨うような畏れの気配。
フィリナがカウンターの席から立ち上がり、ベルガに詰め寄った。
「毒魚は言い過ぎです、ベルガさん。元々火を通せば魚が食べられるのは皆知っていること。それを美味しく調理したのはトラジの腕です」
エレノールが意味ありげに視線を外す。ミンミが彼女の肩に乗り、身を寄せる。
グリューンが胸を張った。
「へい、ベルガさんよ。兵士たちも旨そうに食べていたぜ。なんの問題があるっていうんでぃ!」
しかしその非難の声はベルガには届かない。
遥か遠くにいて、こちらがいくら叫んでも耳には何も聞こえていないかのようだ。
厨房から出てくると、俺は静かにベルガの前に立つ。
ビクッと小さくベルガが体を震わせる。
「聞き捨てならないな。そこまで言うなら食べてみろベルガ。それともそれすらできないような臆病者だっていうのか」
ベルガの顔が怒りで真っ赤に染まる。
知り合ったばかりの年下のよく分からぬ若造に、面と向かって切り捨てられたんだ。肩が津波のように震え、その眼差しでアイスウルフくらいなら余裕で追い返せそうだ。
それでも違和感が強くなる。
腰の包丁がわずかに震える。
「神の包丁の使い手だからと丁重に扱えば付け上がりよって……今後こういった勝手な振る舞いは一切禁止だ。このラベルク戦線の指揮官はワシだ! それは覚えておいて貰おう」
兵士たちの何か言いたげな顔。
それが逆に分かってしまうからこそ、余計に感情がエスカレートしているのは確かだ。
しかし、どこか狂ったピースが嵌らないかのような違和感がそこにあった。
(相棒、おかしいな。あまりにも畏れが強すぎる)
耳元でグリューンが呟く。
バタン!! という大きな音を立てて食堂の扉が閉められた。
それはあたためられた空気が、急激に冷やされるような感覚。
俺はフィリナと目を合わせて、小さく頷いた。




