ゲルマン人の……
――ギギィィ。
体重を乗せて重い扉を手前に引くと――べたべた肌に張り付く湿気が気持ち悪い。嫌な空気が体にぶつかってくる。
頭上の“非常口”の灯りが廊下を照らしている。この廊下、夜になると病棟だ。さっきまでコケシの並んでいた廊下も、人影もなくなり暗くなると薄気味悪いもんだ。毎度見る光景でも慣れない。なんだか変な寒気すら感じる――オバケさん、頼むから出てこないでください!
ドアのすりガラスから光が漏れ出ているあそこは……トイレか。あそこに近くなったら素早く通り過ぎないと、明かりでバレるな。
「ふーっ」
……またここを行かなきゃならんのか。
そのまま後ろに戻れば涼しいんだけどな。行かなきゃいけないんだよな。
「尾坂くん、早くそこ閉めてください。暑い空気が入ってきてるんで」
ああ、そうだ。鈴木先輩の機嫌を損ねてもいけない。
そろそろ鉄平先輩の部屋まで行かないと――鉄平先輩にドヤされるのだけは勘弁だ。
そのまま暑い空気に身体を包み込み、涙ながらに天国を捨てた。
――暑い。
人がいない分マシだが、腹が立つくらい暑い。
一歩、一歩。新しく踏む床、足の裏がつめたい。つるつるの感触も相まって気持ちいい。
1年生の誰かが隅々を拭き掃除までしてくれるおかげだ。なるほど、雑用というのは使う側からするとこんなにいいものなのか。先輩たちが何から何までオレらを使う気持ちもわかる。
足裏のつめたさに感覚を集中すれば、からだの暑さもまぎれる。
「本当にあの人、何でも知ってるからな」
足裏がべた付かないようにとくれた靴下。厚手だから滑りやすいし、これで本当に廊下でスケートできるようになった。
スイスイ滑って、気分も乗って――これは鉄平先輩の部屋まであっという間だ!
順調に進んでいくと、明かりのついたトイレが近づいて来た。
ずっとつきっぱなしの電気。さっきから誰もトイレに入った様子はないし、今も人影は見えない。
耳を澄ませてみても……特に音はしない。
最後の人が電気を消し忘れただけか。
それとも、肛門で検問に引っかかったブツが渋滞起こしたせいでウンコマンがうずくまっている可能性もある。気張り過ぎて失神したか。
いずれにせよ、外についているこのトイレの照明スイッチを今ここから消してやりたい衝動に駆られるが……我慢、我慢。余計なリスクを負う必要はない。
ここも早く行こう。誰がここを通るかわからない。
抜き足、差し足、忍び足――といきたいところだが、しかし履いているのはこの厚手の靴下。この中腰だと踏ん張りもきかないし、なにより滑る。でも尻もちこすっていくのも嫌だ。よし、スリ足で行こう。
腰を屈めたまま、影が外を通ったことが中からわからないよう過ぎ去る。
スリスリ、スリスリ――
――ここまで来れば光に当たることもない。
オレもまた暗闇にまぎれただろう。
「もうすぐ階段だ」
調に第一関門をクリアし、階段で下に行くまでもう少し。
直立に立ち直ろうかとしていたとき。
ガチャッ!――ギギィ――
「――!!」
誰か、部屋から出て来た!
ッシャッ、ッシャッ、ッシャッ――!
足音が進んでいる方向は……こっちだ!
――ガチャンッ!
ピリリ、身体を走る緊張感。
汗腺が刺激され汗が噴き出る。
恐る恐る、そっとそちらを見やると――緑の灯りを背に、ひとつの人影が腕を揺らしている。
暗くて顔までは分からない。けど、天井付近までタッパがあって、肩幅も広い。あの体格は――
いや、もしあれがハズレ上級生だったら……監督にチクられて、オレも一巻の終わりだ! 二巻目からプー太郎編に堕ちて連載打ち切りだろうがな!
ッシャッ、ッシャッ、ッシャッ――!
一歩一歩、オレの学生生活を刈り獲る影が大きくなる。
勘付かれても終わりだ。中腰のまま、動けない。
喉が張り付く。心動が弾む。鼻息が荒くなる。
クソッ、ここで万事休す……わけがないだろう!
こんなこともあろうかと、磨き上げて来た奥義――!
「(起死回生、トルァンスゥゥ!!フォォーーームッ!!)」
瞬時に壁に寄ると、その人影の方向にしっかり背を向ける。そしてすかさず腹まわりのシャツの裾をたぐり寄せると、ぐっと前に引っ張り、しゃがみこんで膝を折り曲げると同時に、膝小僧からつま先まで覆い隠しながら体育座りで座り込む。仕上げに右腕そして左腕、両腕を袖から抜いてダルマになったら、シャツのなかから手を使い首を襟周りから抜き込めば、あっという間に黒い塊の完成だ!
ここまで、体感10秒余り。
見よ、この無駄のない機能美。我ながらなんと美しい擬態――!!
そう、この擬態のためにダボダボ黒シャツを着てきたのだ。
暗闇にあって、たとえサイズは大きかろうと、真っ黒の塊となったオレが気づかれるはずもない。
人事は尽くした。あとは天命を待つだけ!
頼む、そのままトイレに入ってくれ!
トイレにいっトイレ!
シャタッ、シャタッ、シャタッ――
スー…フーッ…スー…フーッ――
足音が近づいている。鼻息もだいぶ荒い。
これは……もしかするとインパクト寸前――ってことは、このままトイレに入るぞ!!
――ガチャ!!――
扉が開いた!
尻を軸に素早く180度回転し、目元まで服から頭を出してトイレの方を確認する。
ドン!!――
「(ビンゴ!!)」
大きな安堵と共に出来る心の中のガッツポーズ。
目で確認できたコンマ数秒のあと、トイレのドアが閉まった。
シルエットの正体が誰かは確認できなかったが、足音の目的地はやっぱりトイレだった。
ふぅ、これでひと安心。
オレも延命された。
でもここは速やかに戦線離脱だ。早く行こう。
間を置かずトランスフォームを解除すると、ふたたび道を急ぎ、階段を下りた。
ドン――ドン――
誰も見てない……よな?
しゃがみだまま、高い音が響かないよう掌底でゆっくりとドアを叩く。
……開かない。
はやく、はやく開けて――!!
こういう待ち時間、とにかく長くてじれったい。
ガチャ――
ああ、やっと開いた。
スッ――
ドアノブが下がり、そのままドアが開く。このドアは軋まないんだな――と思ったとき。
「うっ」
――中が見えたかと思ったら、強烈な光が顔に当たる。
暗がりに目が慣れていたあとで目がチカチカする。
こんな出迎えをしてくれるのは……鉄平先輩しかいない。
「先輩、こっちに向けないでくださいよ!」
光を避けようと顔をずらしても追いかけてくる。
「ちょっと、何がしたいんですか!」
――やっと消してくれた。
青や黄色の光が瞼の裏にこびりついている。
「やめんか、おめぇ声デカいっぺよ。そんな本気になるな、遊びでねぇか。はよ入るべ」
しばらく目をしばたいて回復し、やっとのことで前を見ると――ニヤついて見ている先輩。
ドアの隙間いっぱいの顔、迫力がすごい。
その部屋から漏れ出る風が涼しい。
もちろん、漏れなく先輩の“漢らしい香り”も来るが。
「なにやってるんですか先輩。そこどいてくれないと入れないです」
「ん? ……ああ、んだべな」
もぞもぞと足もとを見ながらドアを押し開けてくれる。
オレもさっと部屋に入った。
ふとオーラを感じて左を見ると、天井まで届くサイズの世界のホームラン王ワン=テイジのポスター。その下の机には、誰が書いたかサインボールが2つ、手前の広い部分には雑な山積みの教科書――これは鉄平先輩の机だろう。鈴木先輩の骨董品ばかりみているからか、高校球児らしい机を見ると、とても若く見える。
――トトンッ。
静かにドアを閉める先輩。
そのまま再び懐中電灯をつけると、ドアのすぐ横の棚に、壁に光を向けて置く。
なるほど、そうすれば明かりも和らいで、部屋に広く光が届いて見えるようになる。
はぁ、やっと落ち着いた。