ルーチン
「先輩、その箱、何ですか? すごく上質なもんでしょう」
「……」
デニムのような質感の面。美しい意匠を施した銀の留め具。
一目見ればわかる高級感。あんなの持ってたんだ。楽しみにしていたのってあれか。
箱を見つめてニヤニヤしている……すごく満足そうな笑顔。
先輩がお気に入りなのも納得できる。オレも興味を惹かれるくらいの質感だ。
先輩は、そのまま左回りに自分の勉強机――載っているのは教科書じゃなくて貴重な蒐集品ばかりだが――の方へ向かうと、静かに箱を置く。箱を置く位置や角度、埃が付いていないかなど細かに見ている。
「うっし……」
確認が済んで、机から一歩下がる。
――パンッ、パンッ!
「え、えぇ……」
その箱を自分の机に置くところまでは理解できた。
でも挙句になんで拍手して拝んでるんだ? 先輩はまさかイスラム教徒じゃないだろうから、無難に日本人なら神道の仕方で祈るのか。眉間が力を入れているのを見ると、これまた並々ならぬ祈りなのだろう。
こういうときは、とにかく話しかけちゃいけない。邪魔しちゃいけない。
不思議な緊張感が部屋に張り詰める。
……まだ祈り続けそうだ。
先輩の独特な雰囲気といい、エキゾチックな蒐集品といい、この異様な感じを引き立てている。
――あ、祈り終わった。なんだ、意外と早かった。
すると、そのまま椅子を引いて座り、机に向かう先輩。
壁に取り付けられたデスクスタンドの照明を、右側と左側の両方とも点ける。そんな白熱灯だと熱くなりそうだけど、あれ点けたということは、やっぱり先輩が鑑賞モードに入った証だ。声を漏らしたり邪魔したら、ボコられてしまうぞ。もう息も自由にできない。
暖かい光に照らされる上質な箱――留め具がきらりと光る。
一息つくと、慣れた手つきで箱側面の留め具をガタガタと外す。
先輩の顔が、さらに引き締まる。
そして箱をゆっくりと開け始めた。
中から現れたのは――
「おおっ――!」
まぶしくて直視できない。明かりを照り返す強烈な金色が目に刺さる。
まぶしさから逃げようとしても、両側から光を照らされて多角的に反射しているんだろう、どこまでもまぶしい。
――目を細めて箱のなかをよく見ると、四角いものが隙間なく詰めこんであるようだ。深みのある金色。不思議と嫌な感じがしない。
もしかして、あれが金の延べ棒なのか!? あれが、本物の金の光なのか! すごい、初めて見た!
あまりモノの価値とか分かるわけじゃないが、わくわくしてくる。
……ああ、すみません、声が漏れてたからってそんなに睨まないでください。
でも、そんな貴重なもの、なんで寮なんかに持ってきてるんだ?
ひとつ、金塊の頭を丁寧につまみ、真っすぐ上に取り出す先輩。
厚みもあっていい感じ。でも、それ素手で触っていいんだ。
金塊の下半分には……黒で文字が書いてある。上半分は綺麗に金色だけなのに……ってあれ、透明な太文字でバツが浅く掘ってあるのか! 直でだいぶ色々と書いちゃってるみたいだけど、大丈夫か?価値、落ちないのか?
すると、先輩が――ああ、危ない!
つまみ上げた頭を放り上げると、すかさずバシッと左手で横から掴み直した。
びっくりした。先輩、ちょっと扱いが雑じゃないですかね。それ、仮にも金でしょうよ。
そして、ガッシリと掴んだその金塊を、ぐっと見つめはじめる先輩。
眼球は動いていないし、文字を読んでいるわけでもなさそう。
……そんなにじっと見続けて、なにか面白いことでも書いてあるのか?
なになに……エ……ン……ケル? “エンケル”って書いてあるのか!
……でも、なんだエンケルって? 暗号? どこかで聞いたことある気もするが――
すると、そろり、右手が動き出し……再び、頭をつまむ。
――パコッ!
「えっ!」
壊しちゃってるじゃんか! 親指だけで金塊をぶっ壊すなんて、怪力が過ぎますって。
でも、あの軽い音――もしかして、金塊の中身って空っぽだったのか?
金属なんだし、普通ぎっしり詰まってるもんだと思っていたが。そんなことあるのか?
すると、中から取り出したのは、小さな瓶――ええ⁉ 金塊の中って瓶が入るのか⁉
……いや、そんなわけないだろう。冷静になろう。空洞の金塊はあっても、さすがに中に瓶が入っている金塊なんてあるわけがない。
――なるほど、あれは金塊じゃなくて箱だったのか! 騙された!
そして、瓶の見た目は……栄養ドリンク。わざわざドリンク1本のために金色の箱に入れてあるのな。金色でえらく高級感があるが、高いやつなんだろう。
なるほど、いつもは蒐集品の鑑賞につかうデスクスタンド照明を使うということは、それと同じくらいの思い入れで栄養ドリンクを見ているのか。アスリートらしい先輩の意識の高さだったんだ。
そのまま瓶の頭をパキパキとひねり取ってしまうと、静かに、それを金の箱の近くに置く先輩。
次の瞬間、オレの背筋にぞわっと衝撃が走る。
――ポッポッポッポッ、ジョボジョボッ!!
おいおい、そんなことやっていいのか!?
なんと、小瓶の天地をひっくり返し、机の壁側の盆に飾ってある抹茶茶碗に注ぎ込んだのだ。
「先輩、いいんですか? その茶碗って安土桃山時代のやつなんでしょう?」
う……すみません。もう声出しません。
毎晩それ磨き上げながらウンチク語るくらい気に入ってたやつなはずなのに……先輩のものにどうこう口を出すのもなんだが、どうも気が確かじゃないようにも見える。
「ッフ」
頬が緩み、息を漏らす先輩――ああ、そういうことか。
高級茶碗に初めて注ぐのが、まさかの栄養ドリンクという鬼畜の所業。逆に満足が行ったんだろう。いわば、誰もが羨む美女の初キスを奪うような――もちろん経験したことなんてないけど――そういう優越感に浸っているんだ。
しかし、すぐにムッと口の緩みを締め直すと、瓶、金の箱、蓋を机の奥に退ける先輩。
そして、茶碗と茶筅の載ったその盆を手前までゆっくり寄せる。
静かに目を閉じて茶碗を持ち上げると、おでこに寄せて再びじっと祈り始める先輩。
なんだなんだ、まだ続くのか。
「……し……なっ……く……さい。……しっこに……て……ださい」
んん、なにやらボソボソ唱え始めた。
何て言っているんだ――?
「おしっこになってください。おしっこになってください。ありがとう、ありがとう……」
――え、おしっこ!? 鈴木先輩が、おしっこって言ってるのか⁉
おしっこはちょっと……先輩、もしかしてヤバめの人だったのか?
オレが同じ部屋にいるってことわかってるんだよな?
茶筅を右手に取り、左手で茶碗を押さえる先輩。
ま、まさか……
――シャカシャカシャカシャカッッ!!
……こういうのは考えたやつの負けだ。
スナップを利かせ、器のなかを夢中で掻き混ぜ始める先輩。
目に一層の力が入りながら、息を深く吐く。
先輩の頭の中は、宇宙なんだ。わからないことのなかにロマンがある……まあ、わかろうとも思わないが。
――充分に点てたのだろう、ヌルりと茶筅を器の縁に沿わせ、最後にトンと叩いて泡を落とす。
茶筅を盆の上で立てると、茶碗を大切に両手で包み、額まで持ち上げる先輩。
鼻を近づけ、ひとつ、深く吸い込み、口から吐く。
お茶ならわかるけど、どうですか、栄養ドリンク点てて、それっていい香りするんですかね。もはやオレもその領域を少しでも分かってみたい錯覚に陥る。
――すると突然、勢いよく茶碗の縁を口へ付けると、同時に一気に上へ傾ける。
その中身が体に入っていくのだろう、ゴクゴクと喉仏を上下させる。
目を閉じ、感じ入る先輩。
「ッハー」
息継ぎも忘れて飲み干した。
満足そうに息を吐きながら口から離すと、再びじっと茶碗を見つめる……やっぱりその空の茶碗のなかに何かいるんですかね。
――うわぁ、こっち見んな!その顔で急に見られると怖い。
「1日1本、エンケル!」
――完全にキまった。
言葉は無くとも、完遂したんだとわかる。
なるほど、これがまたひとつ今日から増えるルーティンなのな。