第2話 本屋の話
『いつかかならず、世界を変える一冊になりますよ』
店主が入荷したとある本にまつわる小噺
ワトスン博士にはずいぶんとご贔屓にしていただいていますがね、実のところうちへ最初に来たのはその博士ではなかったのですよ。まあワトスン博士の名前を出しておいて彼でないとするならばあとおひとりしかおらんのですが、もうしばらくもったいぶって話をしましょうかね。
ベイカー・ストリート駅の道向かいに店を開いたのは私の祖父でした。彼はもともとセシル・コートで小さな古書店をやっていたのですが、印刷技術がめざましく発展してゆくのを見てもっと新旧さまざまな本を取り扱おうと店の拡大に乗り出したのです。ちょうどそのときランドマーク・ホテルに勤めていた祖母と結婚しましてね、仕事場に近いほうが良いだろうということでメアリルボーンの外れに店ごと引っ越してきたんです。祖父の目はたしかでしたがなにぶん時代が早すぎた。経営はひどく苦労したと聞いていますよ。父が複数の新聞社や出版社と提携して積極的に広告活動することでなんとか店は持ち直し、比較的経営の安定した状態で私へと引き継がれました。おかげでこれまで苦労せずにやれていますよ。しかもありがたいことに、父の死後も記者だとか編集者だとか、馴染みだった方々が結構うちを気にかけてくださるのです。
そういえば、ワトスン博士の書籍を置き始めたのも亡き父の縁からでしたね。ある寒い夜にウォード・ロック社の編集者が訪ねてきて私にこう言ったのです。
「どうしても平積みしてほしい雑誌がありましてね。中にとある小説が載っています。今回の売れ行きはよくないでしょう。だが、いつかかならず、世界を変える一冊になりますよ」
そこまで言われちゃあ、とりあえずは並べてみるしかないでしょう。編集者の勘というのは当たると言いますからね。タイトルはたしか『ビートンのクリスマス年鑑』でしたっけね。私は半信半疑で入荷して、彼の言葉どおり店頭のいちばん目立つ棚に並べました。その週の売り上げは捨ててやろうというつもりでね。
それでほら、最初に戻るわけですよ。
真冬と呼ぶには気の早い季節でしたが、その日の朝は底冷えしてだいぶ寒かったと思います。私は編集者と交わした約束のとおり、くだんの雑誌を夜のあいだに棚に並べて店を開けました。
朝の八時だ。人通りこそ多かれどのんきに本を買いに来る人間なんておりません。それなりに名の知れた雑誌ですから一冊も売れないなどということはないでしょうが、今日の売れ行き次第でははてさてどう報告したものか。なんて考えながら軒先の掃除をしていたときです。
突然目の前に辻馬車が止まり、中から若い男がぴょんと飛び降りてきました。ひょろりと背が高く、痩せぎすで、トップハットをかぶり真っ黒いコートに身を包んだ男でした。銀と黒を混ぜたような鋭い目が印象的でね。鋭いくせにやたら左右に泳がせているものだから、もっと印象に残ってしまいました。
青年はホウキを持つ私のすがたを認めると、がしがしと絆創膏だらけの指で首のあたりを引っかきました。まさか店主が店の前にかまえているとは予想外だったとでも言いたげな顔です。こちらの存在に気付いていながら挨拶さえも渋るその男に私はひどく憤慨しました。まだ客かどうかもわからんですからね。もしかしたら盗みに入ろうとしたが早々に店主に見つかり戸惑っているのかもしれません。そうだとしたら間抜けな盗人ですがね。夜にまた来いとアドバイスしてやりたくなるほどに。
「あー、おはよう、店主」
たっぷり一分、間を置いて青年はボソッとつぶやきました。あまりに小さな声だったので私は二度も聞き返し、特に中身のなかった台詞を彼に二度も言わせてしまいました。
「いらっしゃい。なにかお探しですか、旦那」
私は迷っている客によくやる投げかけをしました。相変わらずの無愛想ではあったものの、あっちから声をかけてきたことで盗人の可能性は低くなっていました。
青年はもごもごと口ごもり、数秒ためらいを見せたあと「探している雑誌がある」と言いました。赤い表紙で、男がハシゴに登って火を灯そうとしていて、タイトルは『ビートンのクリスマス年鑑』だと言うのです。
私はにっこり笑いました。即座にどうしたらこの内気な青年のプライドを傷つけないでいられるだろうかと考えましたが、土台無理な話だったので諦めました。私は一歩身体を引いて青年の視線を目の前にある棚へと誘導しました。平積みされた赤い表紙を見た彼は、青白い頬と耳をかあっと赤く染め上げました。
「な、あ、なぜこんな、目立つ、ところに」青年はそう口走ったあと、首をひねった私の視線に気付きパッと自身の口を手で覆いました。「と、ともかく、一部頼むよ」
青年は会計を終えると脱兎のごとく逃げ出して、停めていた馬車に飛び乗りました。ガタガタと車輪が子気味よくまわり、あっという間に霧の向こうへと消えてゆきました。
店はまたいつもの閑古鳥へと逆戻り。夢でも見ていたのかと思うほど一瞬の出来事でしたね。
朝の一件があってから、私は無性にくだんの中身が気になりました。なんの因果か先祖代々こんな職業についていますので、衣食住のすぐ隣に読書の習慣が染みついております。あの一冊が売れた以外、昼をすぎても在庫はたっぷりありました。なので私は一冊手に取って、自分のものとしてペラペラめくってみることにしたのです。あの編集者ときたら『とある小説』とかいう曖昧な表現だけしておいて、肝心のタイトルを教えてくれようとしなかったのですよ。興味を引くためか。はたまた、ついでに一冊まるほど読ませてやろうという魂胆だったのか。別にどちらでもかまいませんが、彼の作戦はまんまと大成功でした。
私はぱらぱらとページをめくってみて、アタリがつかないのならばとりあえず一ページ目からとまた最初に戻りました。著者はジョン・H・ワトスン、さっぱり知らない名前です。タイトルは『緋色の研究』と言うそうで、彼の執筆する人生最初にして最高の一本と謳われていました。
「新人にしてはやたら誇大広告だな」
あれを初めて手に取った人間の感想なんて私と似たり寄ったりのものだったでしょう。あのときにもすでに「探偵小説」の傑作はいくつも存在していましたし、ここ数十年のあいだで興り流行り始めたばかりのジャンルとあって似通った三文小説が現れては消えていました。私も知人の推薦と朝の奇妙な出来事がなければこうも前向きな気持ちで手には取らなかったでしょう。さてはて、いったいどんなものかね。私の心情は概ねこのような感じでした。
『緋色の研究』の内容をあらためて私が語ることはありますまい。その面白さも重々承知のことでしょう。私は夢中で読みふけりました。平日ということもあってか幸運なことに、いや店にとっては不運なことですが、その日は開店休業も同然の客入りでしてね。私はあの奇妙でグロテスクで不可解で、なによりわくわくするような冒険にいたく没頭できたのですよ。ただ、別の本を買いに来た客には何度か聞かれましたね。
「店主、いったいなにを読んでるんだ?」
私はそのたびに読書を途中で止められたことを心底残念がるような顔をして立ち上がり、客を棚の前まで連れて行って、それはもう身振り手振りの熱心な口調でどれほどおもしろいものと出会ったかを大声でまくし立ててやりました。四人にひとりは「アンタがそこまで言うなら」と買っていきましたね。おかげさまでほとんど売れましたよ。いえいえ、私が商売上手だったわけじゃあありません。目の肥えている書店の店主さえ魅了した作者の手腕ゆえですよ。
ああ、それと、読んでいてもうひとつ気付いたことがありました。読み始めてすぐのことだったのですがね、私はふと違和感をおぼえて一度読む手を止めたのです。ちょうど主人公たちがベイカー街で暮らし始めたあたりだ。ワトスン博士による同居人の描写―六フィートの痩身。鋭く突き刺すような目。化学薬品にまみれ絆創膏だらけの手―を読みながら「はて? ついさっき同じような男を見たぞ」と思ったわけです。それから、こんこんと考えて、私はついにおかしくなって腹を抱えて笑い出してしまいました。このせんせ、ちょっと格好よく書きすぎじゃないかね。そんなことを思ったものです。
その夜、日もすっかり沈んでそろそろ店を閉めようかと思っていたところです。突然目の前に辻馬車が止まり、中から若い男がぴょんと飛び降りてきました。がっしりした身体つきと唇のうえにちょこんと乗った口ひげ、それから青と緑が半々にまじった温厚そうな目つき。身長は私と同じか、少し高いくらいの身なりの整った男です。青年はホウキを持つ私のすがたを認めると、印象に違わぬほがらかな笑みを浮かべました。
「こんばんは、店主。もう閉めるところかな? 片付けの邪魔をしてしまったら申しわけない」
「いえ、お客さまはいつでも大歓迎ですよ。いらっしゃい。なにかお探しですか」
「探しているといえばそうなんだが、買いたいわけじゃないんだ。あー、その、どう言うべきか」
突然、歯切れの悪くなった紳士は言いました。爪の短く切りそろえられた人さし指が彼の右頬を引っかきます。はて? 私は思いました。どこかで見たことがあるような気がするぞ。今日はやたら同じことを思う日だなどと考えたものです。
たっぷり一分ほど間を置いて、うつむいていた青年は顔を上げました。彼は顔をわずかに赤くしたままふう、と息を吐き出しました。
「実はね、投稿した小説が雑誌に載ったんだ。小説というと語弊があるかな。随筆? 事件録? まあ文章であることは同じか。ぼくにとって人生初の挑戦だよ。ぼくはあくまで医者で、今後の生活がかかっているというわけでもないんだが、それでも、その、投稿したからには気になってしまってね。ハシゴの上で火を灯す男が表紙の雑誌だ。なあ店主、売れ行きはどうかな?」
私はまばたきをしました。何度もです。自身の机に放ってきた赤い表紙を思い返しました。ついさっき読み終えたばかりで、まだ鮮明にこの頭に残っていました。むしろやっとすべて読み終えため、戸締まりでもするかと立ち上がったほどです。
うんともすんとも言わない私へ紳士は不思議そうに首を傾げました。それからぎょっとして目を丸くしました。当然です。至極真っ当な話題を振ったはずなのに店主がやおら口を押えてくすくすと笑い出したのですから。
「売れ行きは知りませんがね」私は目尻に浮かんだ涙を拭って答えました。「いちばんに買って行った客人のことはよくおぼえていますよ。なにせ、今日最初に売れた一冊でしたから。書かれていたとおりの『彼の持つ体格と見た目はどんなに他人に興味のないものであっても、 立ち止まって記憶に残さずにはいられない男』でしたよ」
ジョン・H・ワトスン博士はかあっと顔を赤くして、もごもごもと礼とも言い訳とも悪態ともつかない台詞を吐き、脱兎のごとく走り出してゆきました。霧の向こうでガタガタと辻馬車の車輪が音がかすかにしましたが、それもすぐに静けさのなかへ消えてゆきました。
店はまたいつもの閑古鳥へと逆戻り。しかし、どれもこれも、たしかに夢ではなかったのですよ。
『いつかかならず、世界を変える一冊になりますよ』
ええ、ええ。
きっと、そうなることでしょう。