悔恨と償い
一部界隈では、怒涛の一週間だった。
公開魔術実験での魔力暴走。一人の魔術師が死亡し、残る十一名も負傷。にも関わらず、召喚自体は一応成功という異常事態。
全てが解決したとは言い難いが、ひとまず、あの事故による混乱は落ち着きを取り戻しつつある。事故直後に敷かれた箝口令のおかげで、あの場にいた貴族や魔術師以外には詳しい事情は行き渡っていない。それが逆に疑念や風説を煽っている向きもある。が、最も重要な事実――異世界から少女が召喚されたことについて知る者は、ほんの一握りに収まっている。
だが、そこで老魔術師がちょっとした問題を起こしかけた。
箝口令に逆らい、実験は成功したと公言しようとしたのだ。
寸前で阻まれたのは、彼にとっても幸運だったろう。国王の命に背けば、断頭台行きは避けられないからな。少女の件を隠すためにも、老魔術師の問題行動はなかったことにされた。
いずれ少女の存在は明らかになる。いくら国王が命じたと言っても人の口を完全に閉ざすことは難しいし、そもそも永遠に隠すつもりもない。
しかし、見た目は限りなく人間に近い――否、人間そのものだ――彼女のことを何と説明するつもりか。さすがに、あの華奢な見た目で悪魔だと言い張るのは無理がある。
ゆえの箝口令、時間稼ぎ。
人々の目が事故に向いている間に、少女の正体や能力、性格などを精査する。その結果、人ならざるものであれば実験成功、人となんら変わりなければ失敗だったと公表する。
最悪の場合を考えて、老魔術師には黙っていてもらわなければならない。現在は大人しいようだが、一体どんな風に脅されたのやら。
現在、少女は城の奥深くの一室に匿われて――悪い言い方をすれば閉じ込められて――いる。毎日毎日、尋問官が繰り返し訪れては質問をしているが、どうやら難航しているようだ。部屋から出てきた尋問官を掴まえて話を聞いたところ、少女は酷く怯えており、まともに話もできないのだそうだ。
他にも、言葉は通じるが読み書きはできないとか、身体能力は平均以下だとか、魔力がないだとか、散々な結果が愚痴を混じえて返ってくる。
本来は口を噤んでいなければならない内容だが、酒を勧めたおかげで色々と喋ってくれた。ままならない状況に、尋問する側のストレスも溜まっているらしい。無理もない。少女の能力如何で自分たちの評価が変わるのだから。と言っても、話を聞く限り、既に結果は出ている気もする。彼女を悪魔と見るのは、どう足掻いたって無理だろう。
まあ、俺にしてみれば実験の成否などどうでもいいことだ。
そして、さらに数週間が経ち、今度は暴走事故による被害者たちの訴えが問題となっていた。
あの時、被害が広がる前に施した防御魔術は、観覧者たちの身を確実に守った。
ところが、混乱し逃げ惑う中で過密状態となり、階段から落ちたり転んだりして負傷する者が多数出たのだ。中には腰の骨を折るなど、重症を負った者もいるらしい。
その被害者たちが一致団結して、実験チームに対し訴訟を起こした。あの場にいたのはほとんどが貴族だ。有望な魔術師も見学に来ていた上、優秀で若い者はどこかの家の嫡子であることも多い。訴額はかなりの金額に上っただろう。ただ、今現在、その訴訟は止められている。実験を主宰した老魔術師が、暴走の責任は例の魔術師にあると発言したためだ。
――事故は魔術師アランの魔力操作ミスによって引き起こされたものであり、我々もまた事故の被害者と言える。よって責任はアラン・ホーマット一人が負うべきである。
死亡した魔術師に全ての責任を擦り付けたのだ。
非情なやり方だが、地位と実力を持つ魔術師なら許されるという妙な風潮がこの国にはある。無論あまりに道理に反していれば別だが、事故が一人の魔術師の操作ミスをきっかけに引き起こされたのは間違いのないこともあって、老魔術師の主張はあっさりと受け入れられた。
実験に参加した他の魔術師たちは、当然老魔術師に靡く。その血縁者たちも。
こうなると、悔しいのはアラン・ホーマットの一族だ。数で勝てる見込みがない。
彼らとて、若く優秀な嫡男を失ったのだ。これまでアラン・ホーマットを育てるために掛かった費用、これから彼が得たであろう富と名声。それらを一挙に失った遺族の怒りと恨みは、鶴の一声でも消えなかった。
――この頃には、王の箝口令も解かれていた。異世界から誤って召喚された彼女のことは、今では民間にまで噂の形で伝わっている。この世界の住人ではなく、間違いなく異世界からの来訪者であり、悪魔などではなく、ただの魔力なしの人間であることも。
アラン・ホーマットの遺族は、怒りの矛先を彼女に向けることにした。
曰く、先日の事故は、極めて複雑な魔術紋に魔力なしが紛れ込んだことによる人災である。よって、責任は魔力なしに負わせるべきである、と。
完全に八つ当たり。酷い屁理屈だ。
彼女は無理やりこの世界に喚び出されただけであって、アラン・ホーマットには悪いが一番の被害者だ。人を死なせる意図などあったはずもない。
しかし、ここは実力主義、血統主義の魔術大国ベルフォード。この国、いやこの世界に、魔力もなく、血縁もない彼女を庇う人間はいなかった。
* * *
「…………」
何の変哲もない扉の前に立ち、ノックもせずに中の気配を窺うこと五分。気になるなら魔術を使って部屋の中を覗き見ればいいのに、それもせず気配などという曖昧な感覚に頼っているのは、俺ともあろう者が迷っているせい。
今や朝晩の食事と清掃以外、訪ねてくる者もないという少女の部屋の周辺は、どことなく重く暗い雰囲気に包まれていた。
持たざる者と判明した彼女は、いつ放逐されてもおかしくない。突然外に放り出されても、身を守る術のない彼女はたちまち悪意の餌食になるだろう。今はこうして王城の隅に捨て置かれているが、この状態だっていつまで保つか。その絶望が、空気を通して伝わってくるかのようだ。
俺はノックしようと右手を持ち上げて、やはり止めた。
そのままドアノブに手を掛け、開け放つ。
瞬間、光の凶器みたいな赤い西日が、俺の瞼を突き刺した。反射的に目を眇め、手で庇を作る。
空気に少し温度を感じた。室内が温かいというよりも、廊下が寒かったせいだろう。
窓にはカーテンがなく、冷たい鉄格子だけが重く光を閉ざしている。部屋にはクローゼットすらなく、見覚えのある黒い衣装が隅の棚に畳まれて置かれている。床には絨毯すらない。これで今の季節を過ごすのは厳しいだろう。俺は舌打ちしたくなるのを堪えて、視線をベッドの上に移した。
そこには、簡素な白の貫頭衣を被った少女が、膝を抱えて座っていた。
ガラス玉のような虚ろな眼差しで。
肌は青白く髪はボサボサで、右目の横に青黒い痣をこさえている。頬も僅かながら腫れているようだ。
いったい、何があったのか。
酷い、なんて言葉では言い表せない。
初めて彼女を目にした時、大切に育てられたことが一目で分かる身なりをしていた。それがこの有様だ。この数週間でどれほどの仕打ちを受けたのだろうと、俺は声もなく立ち尽くしていた。
冷静になってみれば察しはついた。尋問官は、何を聞いても答えない苛立ちを暴力に変えてぶつけたのだ。普通ならそんなことは許されない。しかし少女が何の力も持たず、後ろ盾もいない弱い立場であるために、倫理の壁はないも同然だった。
だが、俺は彼女に同情していい立場だろうか。
彼女からすれば、俺もまた加害者の側だ。実際、彼女のことが気になりながらも、俺は今日まで行動に移すことをしなかった。もっと早く動いていれば、彼女の顔に痣を創ることくらいは防げたかもしれないのに。
俺は罪悪感と後悔から、しばらく口を開けなかった。
サイドテーブルには、木を削って作った食器に、見るからに固そうなパンとスープが残されていた。スープには少量のクズ野菜が浮かび、パンの端が浸っている。パンが少し齧られているものの、匙は綺麗なままだ。しかも、時間から察するにこれは朝食だろう。
「食欲がないのか」
俺の問いかけに、少女は言葉を返すことも首を振ることもなく、淡々と沈黙を続けた。声が聞こえていないかのように振る舞っているが、俺がいることには気付いているはず。扉を開けた瞬間、頭がぴくりと反応したのを俺は見逃さなかった。
だとすると、これはもしや。
「俺が怖いのか?」
肘を掴む指が、わずかに白くなる。
当たり、か。
俺は絶壁に立って思いっきり嘆きたい気持ちに駆られた。
異世界などというものを夢見た老魔術師。
少女を保護するのではなく監禁を選んだ官吏。
年端も行かない娘を殴った尋問官。
理不尽に連れてこられた被害者を声高に批難する遺族。
そして、何もしなかった俺。
誰がこの子を守ろうとした?
味方など一人もいない。だからこの子は、自分の身を自分で守るしかなかった。
こうして膝を抱えて、硬い殻に閉じこもって。
怖いかだと?
怖いに決まっている。
この子にとっては、自分以外の全てが敵なのだから。
「――すまなかった」
俺はベッドの傍らに膝をつき、頭を垂れる。これが正しいのか分からない。誰かに謝るなんて生まれて初めてだ。いずれ王となる者として、決して人に頭を下げてはならないと教えられて育ったから。
だがそんな教え、この子の前では無意味だと知る。たとえ許しが得られなくとも、俺は彼女に謝らなければならない。でなければ、俺はこれから先、彼女の視界に立つことすらできないだろう。
「俺たちは理不尽にも君を拐った。君の生活を、地位を、尊厳を奪った。一方的に役割を押し付けようとした。それが果たせないと知り、今まさに棄てようとしている。愚かで醜い、最低な所業だ。地の底まで謝っても許されることではない」
では、どうする。償うには。この悔恨を少しでも軽くするには。
「俺にできることと言えば、君の後見人となり、ささやかな平穏を捧げるくらいだ。この城の北に、限られた人間以外は入ってこない森がある。その奥の塔が俺の住み処だ。そこならば、君も静かに暮らせるだろう。暴力を振るったり暴言を吐いたりする者もいない。君の安全は約束される。その程度しか保証できないが、間違いなくここにいるよりずっといい。だから……ここを出よう」
この時の俺は、縋るような気持ちだった。救いを必要としているのは、確かに彼女の方であるはずなのに。どうかこの手を取ってくれと、普段は祈らない神にも請いたい心境だった。
それから、短くない時間が過ぎた。
日暮れの気配が色濃くなる頃。
少女は小鳥の頷きよりも小さく首肯した。