赤き大輪の花は咲く
異変に気付いたのは俺だけではなかった。観覧者の中にもステージ上から目を離し、不思議そうな顔で辺りをキョロキョロ見回している者が何人かいる。全員魔術師だ。だが、彼らも何が起きているのかは分かっていない様子だった。
これはまずい。
魔術の行使中に発生する異常音は、意図しない動作をしている場合に聞こえることが多い。原因は大まかに分けて三種類あり、一つは魔術紋が不完全である場合。二つ目は、魔力の制御に失敗した場合。三つ目は、外部から干渉された場合。
今回の場合、三つ目は除外していいだろう。ステージ外から誰かが干渉すれば、俺や他の魔術師がすぐに気付く。魔術紋も俺が見る限り問題はなかった。とすると、残るは二番目のケース――十二人のうち誰かがミスをしたのだ。
その誰かはすぐに分かった。
「お、おい。何かおかしくないか?」
「あの魔術師、震えてるぞ」
「大丈夫なのか」
ざわざわと、観覧席が揺れ始める。
魔術紋の二時の方向にいる術者が異常事態にあるのは、遠目にも明らかだ。震えながら寒がるように背筋を丸め、床に下ろした手も照準が定まらないのか、ぶるぶるとままならない様子。
それでも呪文を唱え続けているが、却って調和を乱すことしかしていない。
このように、外部から見れば足並みが乱れているのは明らかにもかかわらず、トランス状態にあるステージ上の魔術師たちは、仲間の異変に全く気が付いていなかった。
観覧席の動揺は収まる気配がない。
これはもう、誤魔化せる雰囲気ではなさそうだ。
俺は組んでいた腕を解くと、さっと一振りし、防御の魔術を放った。
その瞬間、青い籠目模様の幕が、ステージを囲う檻のように出現する。同時に、観覧席では種類の違うどよめきが沸き立った。
さすがは父親、国王陛下は瞬時に息子の仕業と察知したようだ。鋭い眼差しでこちらを振り返る国王に、俺は頑然と首を横に振る。国王は俺を睨んだまましばし思案していたが、やがて心を決めたか颯爽と立ち上がった。
実験を止めよと命じるつもりだろう。
――しかし、全ては遅いのだ。
ガッと、何か強い力で引き上げられたかのように、例の術者が目を見開き天を仰ぐ。
「かくて西空にあか、か、あか、カかア、あがアああアアア――ッ!!」
空が、真っ赤に染まった。
ステージ上に溜められていた魔力が、暴走した魔力に煽られて竜巻のように渦を巻いて上昇する。
絶え間ない強風による轟音が劇場を揺るがし、観覧席では盛大に悲鳴が上がった。
ようやく異常事態に気付いた術者たちが、暴走をなんとか鎮めようと藻掻きだす。特に主宰者で責任者でもある老魔術師は、皺だらけの顔を必死な形相に変えて抵抗する。
だが、それにも限界があった。
元々老魔術師は、細かな魔力操作には長けているものの、派手な使い方をする人ではない。悪い言い方をすれば、ここぞという時に度胸がない。激しくのたうち回る魔力渦を相手にどう立ち回ればいいか分からない様子で、例えるなら分かれ道を前に右往左往しているような状態だ。
暴走した術者は頭をもたげて首を掻き毟り、なおも狂い叫んでいる。もはや正気ではないのだろう。
荒れ狂う力の奔流と化した魔力の渦は、非情にも、魔術紋の上で動けないでいる術者たちを薙ぎ払った。
呪文が途切れ、悲鳴が飛び交い、混乱が伝播する。
竜巻と化した魔力が宙をうねり、防御魔術に衝突すると炸裂し、紫色の火花が散った。
恐怖した観覧者が悲鳴をあげて席を立つ。それを見た別の者たちも、我先にと出口へ向かって駆け出した。
俺の魔術結界があるから、こちらに災禍は及ばない。そんなこと、魔術大国の中枢にいる人間なら分かるはず。だが、明らかな異常を前にすると、人は正常な判断を下せなくなるらしい。
混乱は混乱を呼び、静粛を叫ぶ宰相の声も、悲鳴と怒号の中に掻き消えた。中には席に着いたまま、冷静に事態を見守ろうとする賢明な者もいたが、そんな彼らの頬にも、冷や汗だか脂汗だかが浮かんでいる。
「殿下! どうにか、どうにかならぬのですか!?」
「無理だ。これ程までに暴走した魔術に手を出せば、逆にこっちが喰われる」
人の濁流を掻き分けて来た宰相が、俺に掴みかからんばかりに質す。彼の焦りは痛いほどよく分かる。無念だが、俺は頭を振らざるを得なかった。
暴走した魔力は、通常の魔力とは桁外れに圧が強い。しかも今回の場合、たった一人の暴走によって十二人分の魔力が荒ぶっている。たとえ俺でも、鎮圧させるのは不可能だ。
「自然に鎮まるのを待つしかないだろうな」
「そ、そんな……」
魔力暴走は、規模が大きいほど短時間で収束する傾向にあるのが、救いと言えば救いか。
その分破壊力は高いが、観覧席は俺が守っているから問題ない。
しかし、ステージ上の魔術師たちは……。
幾人かは魔力を制御下に収めようとなおも苦心し、幾人かは放心したのかその場にへたり込んでいる。そして、暴走を起こした魔術師は力なく床に横たわり、もはや光を映していない目で天空を見上げている。
事前に十分考えられた事態だ。
前代未聞の異世界召喚魔術。その危険性を期待と功名心とで上塗りし、最悪の可能性から目を逸らした罪は老魔術師にある。他の参加者たちも自分の意志を示した以上、巻き込まれたとは言い難い。だが、才能ある魔術師たちが揃っても失敗したという事実は、彼らの罪を贖うに十分な程だろう。この先いくら名声を稼ごうとも、今回の失敗はついて回るに違いないのだから。
当初の荒々しさはやや鳴りを潜めたものの、結界内には依然として強風が吹き荒れている。台風のように逆巻く赤い魔力渦の下で、巨大魔術紋はさながら凪いだ海のように静かに白く明滅していた。
まるで、晴空と雨空を同時に見ているような。
――いや、待て。
光っている?
魔術紋が?
「これは……魔術が発動している、のか?」
魔術が正しく発動すると、魔術紋が光を帯びる。明滅は怪しいところだが、一概に失敗とは言えない。
魔力の暴走は魔術の失敗と同義だ。魔力暴走は魔術の発動前に起こるものなので、自然とそうなる。暴走してなお行使を続けられる者など、そうはいない。できたとしても奇跡だろう。大抵は、先程の術者のように発狂状態に陥るのだ。死に至るのは言うまでもなく最悪のケースだが。
魔術が発動していると分かった瞬間には、俺は観覧席を飛び出して階段状の通路を駆け下りていた。混乱した人々は出口で押し合いへし合いしているらしく、中央付近にはもう人影がない。
背後で俺の名を呼ぶ声がしたが、無視して突き進む。
俺の目にはもはや召喚術紋しか見えていない。いや、垂れ幕のようにステージを囲う防御魔術が邪魔だ。暴走もほぼ収束している。もういいだろうと、俺はさっと右手を振って術を消した。
明滅は次第にゆっくりとなっていき、今では光っていない時間の方が多くなっていた。
俺の足は速くなる。
二段飛ばしで階段を駆け抜け、ついにステージとの水平距離がほぼゼロになった。観覧席の方が高い位置にあるので、手すりから身を乗り出せば、ステージ全体がよく見えた。
薄っすらと赤く色づいた魔力の残滓が、ステージ上に霞のように漂っている。点々と打ち捨てられたローブ姿の魔術師たちが、ここであった惨劇を物語るかのようだ。
巨大な魔術紋。
その中央に、人が倒れている。
俺は一瞬、黒ローブの数を数え間違ったかと首を傾げた。なぜなら、その人物も真っ黒な衣服を身に纏っていたからだった。
「悪魔……?」
てっきり、現れるのは異形の化け物だと思っていた。
だが、魔術紋の中央に、今まさに喚び出されたかのように横たわる姿は、どう見ても人間だ。
それも、華奢な少女。
意識がないのか、ぐったりしている。その様子が死を連想させ、不安に見舞われた。
助けなければ――ごく自然にそう考えた俺は、手すりに足を掛けると躊躇なく乗り越えてる。ステージに続く入り口はあるが、非常事態だ。遠回りなどしていられない。
少女のもとに辿り着いた俺は、息を整える暇もなくその傍らに膝をついた。ふっくらとした唇に触れないよう掌を翳すと、湿り気のある息が指の付け根をくすぐる。
「生きている」
俺は安堵のあまり、ぴくりとも動かない少女の頬を指の腹でさらりと撫でた。
なんと幼い。まだ十四か十五くらいではないか? ほっそりしているが、痩せているわけではなく血色もよい。きっと大事に育てられたのだろう。肌にも傷一つない。
髪色は艶のある黒だ。花柄の髪留めは小さいのに精巧で、見たことのない材質で出来ている。よく見れば、着ているものもこの国の布とはだいぶ違っていた。
「異界の人間……」
まだ少し信じられない。
この少女がいるということは、本当に異界が存在するということだ。同じ世界の別の国という可能性もあることにはあるが、おそらく違うだろう。顔立ちや、身に纏っている衣服、小物に靴。すべて知識にはないもので、海の向こうから来たのだと言われても首を傾げてしまう。それほど異質だ。
そしてこれが一番重要なことだが、まかり間違っても、この少女に神敵を滅ぼす力があるようには見えない。
かつての悪魔とは別の次元からやってきたということか?
異界は一つではない?
「おお、それが悪魔か!! 我々はついに悪魔を手に入れたのだな!」
俺の疑念は、歓喜に満ちた声に邪魔をされた。
肩越しに振り返れば、老魔術師が片足を引き摺りながらこちらへやってくる。その奥の階段からは、国王と宰相、数人の近衛が、急ぎ足で降りてくるところだった。
老魔術師の様子は、傍目にも異常だった。右足があらぬ方向に折れ曲がり、衣服はボロボロで額からもおびただしい量の血を流している。にもかかわらず、顔は愉悦に歪み、己の状態を意識する素振りもない。極度の興奮状態がそうさせるのだろうが、その原因がどこにあるのか察した俺には、ただただ不吉な兆候でしかない。
明らかに周りが見えていない老人に、俺は顔を顰めて言う。
「貴様、何を見ている? これのどこが悪魔だと言うんだ」
「どこがだと? すべてが指し示しているではないか! それは術紋から現れた! 私が復活させた術紋から現れたのだ!! お前たちも見ていただろう! 誤魔化しは許されんぞ! これは私の手柄、間違いはない!」
老魔術師の口からは泡が飛び、目は血走っている。もはや何を言っても通じまい。そう悟った俺は口を噤み、そっと頭を振った。
「悪魔だ、悪魔にしか見えぬ! ついにやったのだ、成し遂げたのだー!!」
背後からは狂人の高笑い。動揺する人々の声。壇上には倒れ伏す魔術師たち。そして目の前には、固く目を閉じ動かない少女。その長い睫毛に縁取られた瞳が開くのを、俺はただじっと待っていた。