異界の呼び声
その日は、王城の魔術師たちにとって特別な一日だった。
とある高名な魔術師が発案した、大規模魔術実験が行われる日だ。もしこれに成功すれば、一年後には全世界がベルフォード王国の傘下に入っているだろうとさえ言われている。
実際のところはともかくとして、強大な武力の確保はどこの国も望んでいることだ。
他国を従わせる強い国。
他国に侵略されない強い国。
弱みを見せれば、あっという間に食い尽くされるこの世界。
己が主権を守るためには、軍事においても経済においても他国より先を行く必要がある。その考えは、魔術大国と呼ばれるベルフォード王国においても変わらない。
今回の大規模魔術実験は、王国の基盤である魔術をより強固にするべく、絶対に成功させなければならなかった。
そのため、魔術師だけでなく多数の王侯貴族や軍部までもが実験に注目している。研究自体は秘密裏に行われていたが、広い場所と優秀な魔術師を集める必要があった結果、異例の公開実験となった。
場所は、かつて軍事研究が行われていた施設を潰して建てられた屋外劇場。演劇狂いで知られる百三代国王が造らせ、死ぬ間際まで観劇を楽しんだという曰く付きの場所だ。
派手な魔術やダンスも披露されていたため、広い円形のステージが設けられている。そこから扇状に観覧席が広がり、外周へ行くほど段差が高くなっていく造りだ。今はそのだだっ広い観覧席に、実験を見物に来た者たちがいくつかの固まりに分かれて座っている。
今回の実験の後見人である貴族や、別の研究グループに身を置く魔術界の重鎮。軍部のお偉方。
そして、当代国王、つまり俺の父親。
そういったお歴々がたった一人で物見遊山に来るわけもなく、彼らを中心として派閥のようなものが形成されている。
気の弱い人間であれば、ステージに立っただけで失神しかねない大舞台だ。
だが、同時にまたとないチャンスでもある。実験に成功したあかつきには、魔術師として最高の名声と富が舞い込んでくるのだから。その名誉は、史上最高などと称される大魔術師すらも超えるだろう。
まあ、"大"魔術師――つまり俺のこと――なんてのは、次期国王におもねりたい連中が勝手に載せた冠なんだがな。甘い蜜を吸おうと小虫がひっきりなしに寄ってくるのが鬱陶しくて仕方がなく、それが嫌で閉ざされた塔に移り住んだものの、派閥形成を黙認していると思われるのも難があるので放っておくこともできない。
一番面倒なのは母親だ。あの人は俺に何を期待して――いや、そんなこと今はどうでもいいか。
目の前の実験に集中しないと。
と言っても、俺は観覧席で高みの見物だ。実験の参加を要請されたものの、辞退した。
今回選抜された魔術師は、二十代から六十代と幅広い年代が集まっている。主宰者である老魔術師を含めて、十二人。彼らの全員が、実力を認められての選抜だ。
同じく観覧席にいる者の中には、なぜ俺が参加していないのかと首を傾げているのも多い。
いちいち説明してやる義理はないので黙っているが、物言いたげな視線は後を絶たない。いい加減苛立ってきた俺は、不機嫌な表情を隠さずに腕と足を組んでふんぞり返った。するとその途端、纏わりついていた視線が一気に霧散した。
「ふん……」
円形ステージでは、大規模魔術の準備が着々と進められているところだった。
ステージの外周に沿って灯された無数の蝋燭は、境界だ。内と外とを明確に区切ることで、無駄な因子が紛れ込まないようにしている。こういった大規模な魔術には必要な措置だ。崖や森、山など特徴的な場所で行う場合は地形自体が境界となるので必要ないが、今回は王城の敷地内ということで念入りに準備したのだろう。
何より目を引くのは、床に描かれた複雑な魔術紋だ。広いステージの半分以上を埋める規模の大きさが、これから行われる大魔術の難易度を物語っている。俺を含めた観覧席にいる魔術師たち全てが、術紋から目が離せないでいるのはそのせいだ。とにかく、巨大なのである。
「これを十二人でやろうというのか……」
魔力を注ぐ魔術師が多ければ多いほど、制御は難しくなり事故が起きやすくなる。反対に、少なすぎると個人にかかる負担が増大し、やはり事故が起きやすくなる。丁度いい塩梅を探すことが、主宰者の使命でもあるのだ。
個々の能力が高ければ、その分リスクは減る。彼らは確かに実力者だろうが、この魔術を確実にこなせるかと問われれば、ギリギリだろうというのが俺の見解だ。
最も良いのは、一人でこなすことなんだがな……それができれば苦労はしない。
不安は募る。が、実験を止める権限は俺にはない。
描かれた魔術紋には木や石、大地や海といった自然物が多い一方、火や雷、大風や大渦など、天災を示す図像も目立つ。その数と種類の多さと言ったら、目眩がするほどだ。主宰者である老魔術師の正気を疑わずにはいられない。
だが、それも魔術の目的を考えれば無理もないことなのだろう。
「異世界召喚、か」
俺は思わず掌を額に押し当て、唸るように呟いていた。
正式名称は、異世間対象物移動式魔術。通称、異世界召喚。
一言で説明すると、異なる世界から神や悪魔を喚び出そう、というものである。他国の人間が聞いたら、胡散臭いことこの上ないと白い目で見る案件だ。
しかしたちの悪いことに、異界から召喚した悪魔を使役して神敵を滅ぼしたという伝承が、ベルフォードには残っているのだ。
現代の感覚で言うと、「悪魔と神の敵は別物なのか?」と疑問に思うところだが、古代のベルフォードでは悪魔は決して絶対悪の存在ではなかった。人間の負の感情を糧にする、つまり食べて取り除いてくれるということで、身内に不幸があったり災害に見舞われたりした時には、悪魔に祈り悲しみを消し、神に祈り再びの繁栄を願うという儀式さえあった。
悪魔召喚の伝承が真実だとすれば、虐げられた民の嘆きを代償に、悪魔に仇を討ってもらったといったところだろうか。
伝承を研究していた老魔術師によれば、悪魔を喚び出したのは当時の魔術師たちだったらしい。
その際使用された魔術紋は、あまりにも危険という理由で破棄された。しかし、当時の魔術師の子孫を奇跡的に見つけ出して聞き取りを行った結果、代々受け継がれた貴重な資料を託され、このたび異世界召喚を復活させることができた――というような話を、最後の準備を終えた老魔術師が観覧席――特に国王――に向けて自慢気に語った。最も時間を割いたのは、いかに自分が苦労して資料の解析を行ったかとか、どんな苦難を乗り越えてきたかという苦労話だったが、たぶんそこが一番不要だ。
とは言え、彼も魔術師としては間違いなく一流。複雑な魔術紋にこれといった不備は見当たらない。魔力の収斂を上手くやれば、少なくとも発動はするだろう。
だが、その後どうなるかは分からない。成功するか、失敗するか。成功したとして、それが彼らの期待する結果となるか……。
万が一伝承が正しく、悪魔を呼び出せたとしよう。神の敵を滅ぼせるほどの力を持つ相手を、どうやって制御する? 悪魔が人々に牙を剥かないとも限らない。仮にそうなった時、対処する術を彼らは用意しているのか。
もしもの時は、悪魔を滅ぼさなければならない。
俺がここにいるのは、単なる見物ではない。万が一に備えるためなのだ。
――老魔術師の長い話が終わり、いよいよ実験の開始となった。
魔術師たちは、既に所定の位置についている。話を終えた老魔術師が、満足気な顔で自分の場所――時計に見立てた場合の、十二時の位置――に歩いていく。彼らはみな揃いの黒ローブを着込んでいるため、遠目では誰が誰だか分からない。老魔術師がフードを目深に下ろし、いよいよ儀式が始まりを告げる。
老魔術師が徐に両手を床へと翳した。召喚術紋を囲むように立っている他の魔術師たちも、それに倣い手を翳す。
「――輪廻、輪光、輪舞、輪廻。万物は流転し、流転は万物す」
嗄れた声が、厳かに呪文を唱え始める。続いて、魔術師たちも同じ文言を唱和する。
最初はばらつきのあったそれは徐々に調和を成してゆき、やがて、寄せては返す小波のように統制のとれた一連の歌となった。
「――輪廻、輪光、輪舞、輪廻。万物は流転し、流転は万物す」
「立ちはだかるは普遍の壁。難く気高く物言わぬ。然あらば越えよう。間越えよう。我らには必然の事由あり」
「かくて西空に赤き大輪の花は咲き、滅びは再生の礎となる――」
彼らは魔術師であって詩人ではない。観客に聞かせるような、耳に心地よい声ではない。にもかかわらず、歌に聞き入る見物人が多いのは、大規模魔術の儀式的な雰囲気が作り出す熱狂に呑まれているせいだろう。
魔術に、本来呪文は必要ない。必要なのは魔力と魔術紋。細かく言えばもっと挙げられるが、大きく分ければこの二つ。
呪文が必要となるのは、複数の魔術師が同じ術を行使する場合か、術者の心の平静が保てない場合。今回は前者だ。
個々がもつ魔力は、それぞれ違った波長をもつ。決して混ざり合うことがないゆえに、同じ術を何人かで行使する場合は、複数人であること自体が弊害となる。
しかも、相性の悪い魔力は、時に反発し拒絶反応を引き起こす。他人に魔力を譲渡したり、逆に奪ったりという行為が厳しく禁止されているのはそのためだ。呪文を使った魔力同調は、実は禁止事項スレスレに当たる。ただ今回のはあくまで実験であるため、見過ごされたのだろう。
「かくて西空に」
「輪廻、輪光、輪舞、輪廻」
「我らには必然の」
「事由あり」
今や小波を越えて大渦となった詩を聞きながら、俺は組んだ二の腕をトントンと叩いていた。
十二人の術者から立ち上る魔力は風のように渦を巻き、召喚術紋の真ん中空中で収斂している。そこから細く少しずつ魔力を引き出し、術紋全体へと行き渡らせるのが老魔術師の役目だ。終始気の抜けない作業は、老境の差し掛かった彼には辛い仕事だろう。
だがその甲斐あってか、見物人には好評らしい。
「おお、なんと素晴らしい光景だ」
「あれが神を呼ぶ光か」
「やはりベルフォードは魔力に愛された地。これほど尊い国が他にあろうか?」
観覧席のそこらかしこから、感嘆の声が聞こえる。
苛立ちが、俺の感情を支配する。
なぜ、この実験を止めることができないのか。できなかったのか。
異世界召喚など、穏便に失敗すればいい。
成功して悪魔が出てきて、よしんば制御できたとて。
それが一体何になる?
どこかに破壊をもたらすだけじゃないか?
その"どこか"がベルフォードでなくても同じこと。
"どこか"で"誰か"が魔術で傷つく。
俺はそれが我慢ならない。単なる可能性であったとしても。
魔術を破壊に使うなど……。俺が何のために国を覆う防御結界を築いたと思っているんだ。
幼い頃、俺は戦争で破壊しつくされた町を見た。
フォルディア城から放たれた長距離火炎魔術によって燃やされた、隣国の町を。
あの時の民の顔が忘れられない。
悲しみを越えた末の、絶望に染まった死人のような顔が。
魔術は、人々の助けとなるものだ。戦争の道具であってはならない。魔術によって生み出されるのが"終わり"であってはならないんだ。
なぜ、俺より長く生きていながらそのことに気付かない?
なぜ……。
――その時、俺の耳に、小さな小さな破裂音が響いた。
パリン、と。
世界がひび割れた音だった。