老人と剣〜飢饉で自ら姥捨山に向かった元農奴の爺、齢60にして武の才能に目覚める〜
「サンチャゴ。長年の働きを認め、お前を農奴から解放する」
ハバニアル王国マノーリア辺境領の名もなき開拓村。
早朝、村の入り口では一人の老人と村長が向かい合っていた。
「おおっ! 儂が農奴じゃなくなるなんて夢のようじゃ!」
「いまよりお前は自由だ。どこへなりと行くがいい」
「ありがとうございます、村長」
頭を上げた老人——サンチャゴ——はにこにこと笑顔だ。
一方で、いまの主人であった開拓村の村長は顔をしかめている。
「…………すまぬ」
「何を言いますか! これより儂は自由の身! 夢だった王都にでも行ってきますわい」
「ならば、餞別にこれを持っていってくれ」
「この杖は、先々代村長が使っていた……ありがとうございます!」
村長に、胸ほどまである太めの杖を渡されたサンチャゴは笑顔を見せる。
すぐにサンチャゴは開拓村に背を向けた。
農奴から解放されたサンチャゴは、まっすぐ村の外に歩き出す。
残された村長は、祖父——先々代村長の頃から世話になった農奴の旅立ちに、こらえきれぬ嗚咽を漏らしていた。
サンチャゴは餞別の杖をついて村を出る。
王都まで行く。
そう言いながら、サンチャゴは荷袋一つ持っていない。
50年の農作業で鍛えられた足腰は、ふらつくことなく老人の体を運んでいく。
振り返ることなく歩いていく。
ただ杖を持ち、獣道をたどって、山へ。
人の領域から、モンスターの領域へ。
□ ■ □ ■ □ ■ □ ■ □ ■ □ ■ □
王国暦682年。
ハバニアル王国は、冷夏による数十年ぶりの不作に見舞われていた。
とうぜん、マノーリア辺境領も例外ではない。
むしろ辺境の農村こそ飢饉に喘いでいた。
収穫は例年から激減した。
生きていくのに必要な分を買って賄おうとしても資金がない。
そもそも売りに来る商人がいない。
木の実にキノコ、果実、山菜も量が減り、同じように飢えた獣やモンスターに食い荒らされる。
このままでは何人が冬を越せないか。
いや。
何人が春まで生き残れるか。
老人——サンチャゴ——が暮らす開拓村では、誰もがそんな暗い未来を思い浮かべていた。
「ほっほっほ。坊は立派な村長になったのう!」
けれど、獣道を歩く老人は笑っていた。
口減らしのために、「農奴からの解放」という名目で村を追い出されたにもかかわらず。
「若者が死ぬより、子供が売られるより、爺が出ていって永らえるならなによりじゃ!」
もし主人が何も言わなければ、サンチャゴは数日のうちに村を出るつもりだった。
それほどまでに、開拓村の食料事情は悪化していたのだ。
村の状況を鑑みて、村長として決断する。
放り出されたのは自分なのに、サンチャゴはこの仕打ちに満足していた。
生まれてからずっと見守ってきて、主人と村長という立場を継いだ元少年の成長に。
□ ■ □ ■ □ ■ □ ■ □ ■ □ ■ □
「さて。山を越えるには少しでも食料を確保せねばな!」
まだ日も明けぬ早朝から歩き出して、太陽がすっかり顔を出す頃。
サンチャゴは獣道を外れ、うっそうと茂る森の中にいた。
「ククリコ茸もリオン草もなし、シーラの実はわずかばかり」
サンチャゴは、森を見渡してぽつりと呟く。
「獣も鳥も飢えておる、か。どこも大変だのう」
飢饉にならずとも、サンチャゴは毎日腹一杯食べられたわけではない。
山菜や木の実、キノコ。
飢えをしのぐため、50年の農奴暮らしで山の恵みの知識は蓄えてきた。自然と溜まってきた。
けれど、いま得られたのはわずかな木の実だけだ。
「豊かなら村に知らせようと思っておったが……」
ひび割れてふしくれだった手の中におさまる程度の木の実があったところで、飢えた村人たちを満たすことはできない。
みな生き延びられるといいのじゃが、などと呟きながら、サンチャゴは森を進んで。
ふと、立ち止まった。
「かすかな呼吸音。獣か、モンスターか。さて」
気配を感じたのだ。
サンチャゴは杖を手に、静かに森を進んでいく。
「あれは……狼? まだ子供なのかの」
草をかき分けて視線を通すと、木の根本に横たわる子狼が目に入った。
毛皮は薄汚れた灰色で、か細い息を吐いて、胸はかすかに上下している。
サンチャゴが近づくと、子狼はかすかに目を開けた。
ぐったりとして力はない。
「ケガはしておらぬ。ならば飢えか」
そっと触れた子狼の体は、毛皮を通してさえ骨の感触がある。
「飢えた群れから放り出されたかのう。難儀なことじゃ」
目を細めたサンチャゴはそう言うと、痩せ細った子狼を抱きかかえた。
子狼は抵抗するように噛み付くが、ボロボロながらも丈夫な服を破ることさえできない。
サンチャゴは、子狼の気力に微笑みを浮かべて、森を歩いていった。
「ほれ。食べるとええ」
河原の石に腰掛けて、サンチャゴが子狼の口に手を近づける。
最初は口を開かなかった子狼だが、すんすんと匂いを嗅ぐと、はぐっと噛み付いた。
サンチャゴの手の上にあった、すりつぶしたシーラの実を。
なくなってはまたすりつぶして、サンチャゴは惜しげもなくシーラの実を与えていく。
それは飢えの苦しさを知るゆえの優しさか、似たような境遇への同情か。
わずかな木の実を食べ、川の水を飲んだ子狼は目を開けた。
ふらつきながらも立ち上がり、サンチャゴの手をぺろっと舐める。
「どうした、行っていいんじゃぞ」
サンチャゴが促しても、子狼は老人のそばを離れない。
行き倒れたところを救われて、寄る辺もない小さな狼はサンチャゴに懐いたのだろう。
「狼なぞ家畜を食らう害獣じゃと思っておったが……こうして見ると可愛いのう」
膝に乗せてきた子狼の頭をそっと撫でる。
わずかな食料を子狼に分け与えて、サンチャゴが食べる分はない。
サンチャゴはもう何日も、ろくに食べていない。
「うーん、王都まで行くのは無理そうじゃな!」
王都まで行く。
それは、サンチャゴがお世話になってきた村長の、生まれた時から見守ってきた青年の、心を軽くするための優しい嘘だ。
サンチャゴ自身、それがほぼ不可能なことはわかっていた。
荷物もなく、水袋ひとつなく、空腹状態で、路銀もなしでたどり着けるものではない。
ゆるゆると子狼を撫でながら、サンチャゴは混濁する意識に身を任せる。
寒村に生まれて、10歳の頃、不作で売られた。
農奴として買われ、以来50年、開拓村で農作業に勤しんできた。
生活は厳しかったが、最初の主人もさきの主人も、農奴であってもきちんと扱ってくれた。
主人が小さい頃、自分が覚えるついでに文字を教えてくれて、農奴なのに読み書きできるのがサンチャゴの自慢だ。
ただ真面目に、ひたむきに生きてきた人生。
「儂が死んだら、この子の一部になるのかのう」
ならば悪くない。
膝の上の温もりを、小さな狼を生き延びさせて。
子狼がやがて成長し、野を駆け、森で暮らし、自由に駆けまわるなら。
「上出来じゃ」
サンチャゴの顔には、微笑みが浮かんでいた。
と、がさごそと葉のざわめきが聞こえてくる。
ぼんやりしていた意識を引き留める。
茂みを割って何者かが河原に出てくる。
現れたのは、モンスター。
「オーク。こんなところに」
豚や猪のような顔で二足歩行するモンスター、オークだった。
2メートル近い身長だが、通常はでっぷりとした肉付きが痩せ細っている。
「これも飢饉の影響かのう」
オークは雑食だ。
とうぜん、人も獣も食べる。
「ほら、お逃げ。この子の食べる分が残るといいんじゃが」
サンチャゴは、いまだに膝の上にいた子狼をそっと持ち上げて、背後に放した。
自身は逃げる気力がない。体力がない。
「お前が、儂の死か」
獲物に逃げる体力がないことを理解しているのだろう。
オークは悠然と近づいてくる。
死を確信したサンチャゴは、抵抗することなくオークを見つめていた。
だが。
「がうっ!!!」
迫るオークの前に、子狼が立ちはだかった。
痩せこけた体で、股の間に尻尾を挟んで震えながら、けれどぐるると歯を剥き出してうなり、勇ましく。
驚きからか一瞬立ち止まったオークがニヤリと嗤う。
「逃げろと言うたのに」
困ったように呟くと。
サンチャゴは、杖を支えに立ち上がった。
「爺が、子供より先に死ぬわけにはいかんからの」
ゆっくりと歩き、灰色の子狼の前に立つ。
「さあ、逃げなさい」
人と狼、言葉など通じるはずもないのに。
サンチャゴの決意を感じ取ったのか、子狼はささっと下がっていった。
けれど、離れた場所で立ち止まって振り返る。
サンチャゴの最期を「見届ける」とばかりに。
「戦った経験などないじゃがのう……」
オークがのっそりと近づいてくるなか、ぼそっと呟く。
サンチャゴは、手にした杖を天高く掲げた。
大上段の構えのように。
いや。
まるで、鍬を構えるかのように。
「フゴーッ!」
雑魚が抵抗する気か、とばかりに、悠然と歩いていたオークが突進をはじめた。
2メートル近い巨体のオークと、ひょろりと痩せ細ったサンチャゴの距離が近づく。
オークの伸ばした腕がサンチャゴに届く、その寸前。
「フッ」
呼気とともに、杖が振り落とされた。
サンチャゴに戦闘の経験はない。
けれど。
荒れた土地に、硬い地表に、鍬を振り下ろしてきた経験ならある。
何千回、何万回、何百万回。
50年、一日も休まずに。
「ゴアッ!?」
何百万回も繰り返され、鍛え抜かれた、一切の無駄のない、己と重力のすべてを使った振り下ろしは。
頑丈なオークの頭を打ち据えて杖が壊れた。
脳を揺さぶられたオークはたたらを踏む。
頭を振ってオークが視界を取り戻した時には。
ふたたび、天高く杖を構えるサンチャゴの姿があった。
けれど、杖は杖ではなく。
外装が壊れた杖は、鈍い黒の剣身があらわになっていた。
先々代村長の置き土産は、仕込み杖であったらしい。
そして。
「せいっ!」
今度は、剣が振り下ろされた。
断末魔の悲鳴さえなくオークが両断される。
ふたつに分かたれたオークの巨体がどうっと地に転がる。
サンチャゴに戦闘の経験はない。
農奴ゆえ、木の枝を振りまわす騎士ごっこの経験もない。
狩りに出ることもなく、幸いなことに対モンスターや戦争に伴う徴兵もなかった。
ゆえに、誰も。
本人さえも、気づかなかった。
「…………儂、ひょっとして天才じゃった?」
サンチャゴに、稀代の「武の才能」があったことを。
サンチャゴはぼんやりと、手元に残った杖の残骸を見る。
いや。
外装が砕けて、露になった剣を見る。
「先々代……仕込み杖じゃったのか……坊も知るまいに」
知っていたら売れば幾ばくかの金になったろうに。
呟くサンチャゴの足下に子狼が駆け寄る。
「がう、がうがう、がうっ!」
すごい、すごい、とばかりにはしゃぎまわる。
「ほっほっほっ。褒めても何も出んぞ……オークを倒したんじゃったな」
ぽん、と手を打って、サンチャゴが目を輝かせる。
すでにあらわになっている内臓を腑分けして、肉を解体して。
子狼は内臓を、サンチャゴもまた火を熾して焼いたレバーを味わった。
久方ぶりの食事をして、ふうっとしばらく休んだのち。
「さて」
サンチャゴがのっそり立ち上がる。
「わふ?」
首を傾げる子狼を尻目に、内臓を抜いて川で冷やしていたオークの両脚を肩に乗せると。
「よっこいせっと」
ひょいっと担いで立ち上がった。
「あ、あおんっ!?」
「ほっほっほ。なーに、いつもと比べたら軽いもんじゃて」
超重量のオークの体を軽々担ぐサンチャゴに、子狼は目を丸くしている。口をあんぐり開けている。
農奴として働いてきた50年は、サンチャゴに強靭な肉体をもたらしたらしい。
だからこそ、オークを一撃で仕留められたのだろう。
「……これだけあれば、誰も死なずに冬を越せるかもしれぬ」
サンチャゴは来た道を戻っていく。
「あおんっ!」
開拓村を出たときは一人で着のみ着のまま、荷物は餞別の杖しかなかった。
帰りは、一人と一匹で、剣を手に、オークを担いで。
それと。
「儂に才能があるやも、か。楽しみじゃの!」
武の才能があるかもしれないという、かすかな自覚を持って。
サンチャゴは獣道を戻っていった。
□ ■ □ ■ □ ■ □ ■ □ ■ □ ■ □
「サンチャゴ! なぜ戻ってき……た……?」
「村長。ちょっとオークを仕留められたのでな、これお土産じゃ」
村の入り口に、サンチャゴがずんっとオークを置く。
「な、仕留め!? 待て待て、お土産、だと!?」
「うむ。干せば保存も利くじゃろ。冬の食料にするとええ」
「この馬鹿者ッ! それがあれば、爺は王都まで行けたろうに! なぜ戻ってきたのだ!」
サンチャゴを農奴から解放した——追放した——村長は爺にしがみつく。
何度も馬鹿者、と繰り返し、涙を流して。
サンチャゴは困ったように頬をかく。
足下の子狼はよくわからないようで、後ろ足で頬をかく。
「ありがとう、爺。これで冬を越せよう。まずはサンチャゴ——英雄の、歓迎の宴を開かねばな」
「いらんいらん。儂は届け物に来ただけじゃからな」
「…………は?」
「村長、知っておるか。オークは群れる生き物じゃ」
「それは、まあ。…………まさか」
「儂は一度死んだ身じゃ。だから」
荷物を置いたサンチャゴは、剣を手に、ふたたび獣道に足を向ける。
とことこと子狼も歩き出す。
「こっちに来ぬように、オークどもに痛い目を見せてくれる」
振り返って笑うサンチャゴの笑みは。
優しく真面目で明るい、農奴の頃の笑顔と違い。
どこか凄みをはらんでいた。
長い付き合いの村長が、思わず後ずさるほどに。
□ ■ □ ■ □ ■ □ ■ □ ■ □ ■ □
ハバニアル王国暦736年。
マノーリア辺境伯家で御流儀となり、騎士や領民にも広く弟子がいる「農武一心流」は、一人の老人が興した流派だという。
農の動作は武に通ずる。
開拓も農業もモンスター対策も欠かせない辺境の民には格好の流派であった。
いまでは、農村や開拓村であっても、ひとたび事が起これば武器を持って戦う村人も多いのだとか。
調子に乗った冒険者や武芸者がただの農民に負けるのも珍しくない。
また、嘘かまことか、流派の祖となった老人は、初陣にてオークキングが率いる群れを単身で殲滅したという伝説を残している。
人はみな、眠れる才能を持っているのかもしれない。
剣を持たずに生きてきた老人のように。
(了)