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儚き東京の星たちよ

作者: 伊村とう子

真っ暗な部屋の中、缶ビールを飲み干して、等閑にテーブルに置く。

上手く着地出来なかった缶は、とろとろ転がって、少しの中身をまき散らしながら落下した。

そんなことはまるで気にせず、美咲はベッドへダイブする。

枕に顔をうずめて、声にならない声をひとしきりあげてから、やがて少し泣いた。


「お前はさ、いつもそうだよ。おれの言うことをはいはい聞いて、まるで自分がない」


先ほど居酒屋で津谷に言われたことを反芻する。


「もう、うんざりなんだ。結局おれのことなんてどうでもいいから、そんな風に出来るんだよ。お前の無関心は、おれを傷つける。」


今日はやけに飲むスピードがゆっくりだなと思っていた。

本当は浴びるほど飲みたいお酒を我慢して、津谷に合わせているのはもどかしかった。それに、彼は今日いつもより静かだった。仕事で何かあったのかと、美咲は訝しんでいた。


「惰性で付き合われても迷惑だ。お前は、おれじゃなくてもいいだろ?」


そんなことはない、とすぐに言えば良かった。

美咲が言いよどんでいるのを見て、津谷はため息をついた。言葉にしなくてもわかる。『やっぱりな』。


「今までありがとう。お前といるのは楽しかったけど、お前といるときのおれはなんだか可哀想だった。そう思ったら、なんだかもう、たまらないんだ」



津谷はそう言って立ち上がり、一万円札をおいて出て行った。

美咲は、腕時計をみた。


「飲み放題の時間、まだ30分もある」


とっくに時間は過ぎていると思っていた。そろそろ、店員が会計を打診してくる頃ではないかと冷や冷やしていた。しかし店員はだれもこちらを気にとめないし、周りもどんちゃん騒ぎで楽しそうだった。


「すみません、ジンジャーハイひとつ」


頼んで1分で出てきたハイボールを3秒で飲み干した。

美咲はスマートフォンを見た。


『なんで追いかけてこないの』


と、津谷からLINEがきていた。

美咲は既読をつけなかった。


「私、あの人とどうして今まで一緒にいたんだろう」


カーテンの隙間から差し込む街頭の光を見つめる。

何も浮かばない。

居酒屋で見せた津谷の顔は、よく覚えている。

悲しそうな、悔しそうな、しんどそうな表情をしていた。

でも、それ以外の顔が思い出せない。


美咲は再びLINEを見た。


『おれのこと、ブロックしてくれていいから』


急に、胸のあたりがむかむかした。かきむしってもかきむしっても足りないくらい、いやな感じだった。

そしてまた枕に顔をうずめる。

自分のこの気持ちをどう表現したらいいのか分からない。

けれども、少なくとも津谷との別れが寂しいわけではなかった。



「あのさ、おれ今日変だと思わない?」


いつか、大須に買い物に行ったときのことだと思う。

美咲が「何が?」と返すと、津谷は明らかに不機嫌になった。


「ほらここ、腫れてるだろ。試合でやらかしちゃったんだよ。気付かなかった?」


気がつかなかった。確かに、顔の輪郭が少しいびつになっていた。

美咲は謝って、なんとか津谷の機嫌をとる。

津谷は最初はむすっとしているが、やがて何ごとも無かったかのように戻ってはしゃぐ。

そうしてやっと美咲は息をつくことが出来るのだ。


こんなことが、デートの度にあった。


何を思い出そうとしても、それだけが美咲に思い出される津谷のすべてだった。



「津谷くんって、ほんとに美咲のこと好きだよね」


玲香はどこへいってもアイスコーヒーを飲む女だ。

夏は勿論、どれだけ寒気の厳しい冬でもそれは変わらなかった。

その日も行き交う人々がこれでもかというくらい着込んでいるような寒さだった気がする。


「たまに可哀想になる。美咲が、そんなんだと」


最後の一口を飲む前に、彼女はこの話をよくした。

ストローで一周中身を混ぜて、氷がカランと鳴る。


「別れてあげた方がいいんじゃないの?」


津谷くんのこと好きじゃないんだし、と続けたいのが分かった。

友人からのアドバイスを装ったこれは、美咲のことを思いやってとか、そんなたいそうなものではないと知っていた。


美咲は一度も玲香に自分から津谷の話をしたことはない。聞かれたことを答えるだけ。それなのに彼女は勝手に決めつける。『美咲は津谷を好きではない』と。


うるさいな、と思う。知ったように語りだすその口が忌々しく、何度顔面に拳を飛ばしそうになったか分からない。けれど、自分は大人である。その自覚がある。だから、しない。嫌味で返すことも子供っぽい。だからしない。美咲はただ静かに聞くだけだ。そうなのかなぁ、と白々しい返事をするだけだ。


私が疎いと勘違いすれば、玲香が調子に乗るのは分かっていた。


「絶対そうだよ。第一に美咲はね」


何もかも分かったように美咲の“いけないところ”を語り出す。そして、気付けばそれは玲香の彼氏の話になっている。自分たちがどれほど愛し合っているか、自分が彼にどのようにどれだけ尽くしているか、うんざりするほど丁寧に説明してくれる。この女と会うときに、いつも迷う。耳栓を持って行った方がいいだろうかと。


美咲の職場の女はこんなやつらばかりだった。マウントをとって優越感に浸りたい。自分がいかに優れているかを知らしめたい。競争心の塊。俗物。


息苦しかった。中途半端に良い会社に入ったのは間違いだったのかもしれない。

向上心を持たない自分と同じく、なんとなく“ただれた”人が集まると思っていた。

しかし実際はあと一歩で大企業にたどり着けずコンプレックスを抱えた人間の巣窟だった。



「クソみてえだな」



美咲は玲香と別れた後、会社の非常階段で一服するのが常の流れだった。

このあたりはいわばオフィス街で、ビルがひしめき合っている。その中にあるから、非常階段はいい具合にいつも日陰で、それが美咲を落ち着かせた。




煙草を吸い始めたのは二十歳に成り立ての頃だったと思う。

最初は煙草を吸うとお酒のまわりが良いことに感動して、そのような席だけで嗜む程度だった。


でもいつからか、何かをする合間に吸わないとだめになってしまった。

絶対にニコチンなどには依存しない、自分は制御できると考えていた頃が懐かしい。

大学生とは実にお気楽な身分だった。あの頃はノリと勢いでなんとかなっていたことが、歳を重ねるごとにどうにも上手くいかなくなる。



煙草を深く吸って、ゆっくり煙を吐き出す。

美咲の肺から出たそれは、自由になって空気の中へ消えていく。のんきでいいな、とぼんやり思いながら突然肌寒さを感じた。急激に我に返ると、先ほどまでベットにいたはずだが、今は窓を開けて煙草を吸っていた。


非常階段を思い出して無意識にニコチンを求めていたのかもしれない。

だいぶ暖かくなってきたが、まだ夜は冷える。


「末期だな」


意識のないところで火をつけられるようになった自分に感心する。今度から、自己紹介で言う特技にするべきだ。くだらないジョークを、頭の中の自分がピエロのように言った。



肘をついて煙草を吸いながら、再びLINEを見た。


『やっぱり、美咲がいないとだめだ。』

『おれが悪かった』



思わず美咲は噴き出した。

深夜窓を開けているのにもお構いなしに、声を上げて笑った。



その間にだいぶ短くなってしまった煙草を一度すりつぶし、次の一本を箱から出す。


「もう遅いよ」


そう呟いて、カチっと大きな火をつける。

空を見れば、雲一つ無い夜空だった。けれどそれは地元の空とは似ても似つかぬ一面暗黒で、まるでここら一帯に蓋をされているような平らさだった。東京はいつも起きている。たまには眠って、みんなで星空でも眺めればいい。けれど、ここはそれが出来ない人の集合体だった。



大学生の時に付き合っていた彼が、星空を見るのが好きだと話していたのを思い出した。



「高校の時自転車通学だったんだけどさ。途中に河川敷があって、よくそこに寝転がって星を見てから帰ってたんだよね」


一時期はクラブ通いをしていたような人だったから、付き合いたての頃はまわりに心配された。すぐに泣かされてこないでよ、と友人に言われることも度々あった。実際、美咲はたびたび振り回されていたし、それによって深く沈んでしまうことが多かった。しかし、たまにこのようなことを言う。


今思えば、彼のことが一番好きだった。彼は年上だったから、先に社会人になって、その環境の変化に美咲たちの関係が耐え切れなくなった。


今彼はどうしているだろうか、願わくば津谷ではなくて、彼から連絡がこればいいのに。

でも、それはありえない。連絡先は当時とはまるで変わってしまっているし、第一に今の美咲は東京だ。




あのときに帰りたい。

けれど、帰ったとしてもやり直す気力がもう彼女にはなかった。


煙草を灰皿にたてかけて、ベッドから降りる。

冷蔵庫から取り出した缶ビールは、キンキンに冷えていた。


立ったままそれを開けて、一気に飲み干す。

気分は良かった。

自分をとりまくむなしさすべてを愛していける気がした。


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