腰章
手野グループは、江戸時代の春雷会や砂賀藩、あるいは金元藩の時代から続く、表彰制度がある。
本来は江戸時代に士族であることを示すために使っていたものが、明治時代に表彰としての標識となったものだ。
江戸時代には6つの階級を5つの枠色で表していた。
階級1つ分色よりも多いのは、はそもそも腰章を使わない人がいたためである。
この使わない人のことを別枠と呼び、別枠に当たるのは、砂賀藩、あるいは手野市の前身にあたる金元藩の藩主、そして将軍である。
もっとも、砂賀藩にしても、金元藩にしても、将軍が来ることはなかったので、このような決まりだけがあったということになっている。
枠色は家格によって分けられており、高い方から金枠、銀枠、銅枠、鉄枠、そして無枠となっていた。
この枠色のうち、無枠以外が現在の表彰制度に繋がっている。
そもそも無枠の家格では、腰章は受け取ることができない。
金枠はおおよそ家老や次期藩主のような人。
銀枠は奉行のような人が、銅枠は奉行の部下のあたりとなり、鉄枠はさらにその下というように分けられていた。
だいたい腰章を受け取ると中堅であり、銀枠以上は上級職となっている。
明治に入りこれらがなくなると各藩主が授ける栄典となる。
藩主は元藩主となったが、その権威はほぼ変わらずに今に受け継がれている。
しかし、ただ枠の名前のみとすると手野家あるいは砂賀家のどちらが授けたかわからなくなるということから、それぞれ別々の称号と記章を授ける形となった。
なお、手野家は金元藩の藩主、砂賀家は砂賀藩の藩主となっており、血筋としては砂賀家から分かれたのが手野家ということとなっている。
が、権威では砂賀家が上であるものの、現実としてグループとなっているのは手野グループであり、手野家の方が権勢は圧倒的に上である。
今でも4つの段階にそれぞれは別けられており、上から金枠相当、銀枠相当、銅枠相当、鉄枠相当となっている。
今も昔も変わらないのは、その腰章の作り方だ。
3寸の直径を持つ、厚さ3分の1寸の鉄でできたメダル状のものだ。
これの上部に穴が開いており、そこにひもを通すことによって腰のベルトや帯に吊り下げることができるようになっている。
枠とは、金、銀、銅のそれぞれの箔を厚みのところに巻き付け、固定させることにより、その課カウや身分を示すこととなっていた。
鉄枠は素材そのものが鉄のため、箔をつけないことになっている。
腰章は表を藩主の家紋、裏を自らの家紋として1つ1つ手作りで作ることになっている。
なお、このため、家紋を持たない者が登用された場合、春雷会という組織によって家紋を作成することとなっている。