銀杏並木
季節が移り変わるときは一瞬だ。
ほんの数週間前までは半袖を着ていても暑くて体が耐えきれないと大量の汗を流していたというのに、今は素肌を風が撫でると芯から冷えてくる。
日も高くなってきた午後、薄い秋色のカーディガンに薄黄色のワンピースというお気に入りの服を着て買い物に出たけれど、歩いていても肌が粟立ってくるのを感じてもう少し厚着すれば良かったと若干後悔した。
一人分の食料を入れたビニール袋を片手に大きな表通りをゆっくりと歩く。
二車線ある道だが車など殆ど通らない片田舎だ。
そしてこの時期は石畳で出来た道が黄色に染まっていて絵画を見ていいるような美しさがある。
歩道の両脇にイチョウの木が一定の間隔をおいて植えられている。
その間隔は人工的なものだからこそ人間が美しいと思える並びになっているのだろう。
これほど美しい光景だと言うのに、地元の人々はこの時期表通りを嫌い裏の迷路のような細い道を使う。
それというのも、先が見えないほどのイチョウ並木だ落ちてきた銀杏のにおいも強烈なものがある。
いくら美しいとは言え地元の人は見慣れたものだ、なんなら家の中からでも見ることができる。
わざわざ鼻を摘みながら歩く必要はないというわけだ。
それに加え平日の昼間では走り回る子供たちの姿さえなく、がらんどうな並木道が逆に情緒を醸し出している。
足元に落ちている銀杏から得も言われぬにおいが漂ってきて、ふと遠い日の幼い頃を思い出した。
父と私は銀杏料理が好きで、この辺りにある銀杏を持って帰っては母に怒られたものだ。
それでも懲りずに持ち帰ったのは、怒っていても料理には使ってくれるからだ。
味が好きではないだのにおいが嫌だのと言いながらも、食べ物を粗末にできない母は銀杏を使った料理を作ってくれた。
なにより私と父が美味しそうに食べる姿を見た母は半ば諦め半ば喜んでいたように思える。
思い出に耽りながら足元に落ちている無数の銀杏を見ると幼いあの日々のように拾って持って帰ろうかと考えた。
還暦も過ぎたいい大人がするには少し恥ずかしいが、幸いなことに見ている人は誰もいない。
もしかしたら窓から見ているかもしれないという思いもあったが、久しぶりの銀杏拾いに心躍ってしまい三つ拾って手の中で転がした。
思わず笑みが溢れながら歩いていると家に帰るための曲道に差し掛かった。
イチョウ並木はまだ続いていてまだ歩いていたいが、この先の道から曲がっても家に辿り着く裏道はなく結局戻ってこなければならなくなるため断念し素直に道を曲がった。
裏通りは昔ながらの細い道で、軽自動車一台入り込むと人一人通れるか通れないかくらいの隙間しかなくなってしまう。
私が結婚して子供が生まれたくらいの頃に、家を改築し駐車場付きの一軒家に換えた人が多く、木造からコンクリートへ、そして車がたくさん通るようになって自分の子供達が事故に遭わないかいつも心配していた。
しかし心配はいい意味で裏切られ、事故もなく元気に育って結婚して今は家を出ている。
そんな家庭がこの辺りには多く存在していて、高齢化が進み車を乗る人も減り駐車場だった場所は物置へと変化していった。
使わなくなった物たちが捨てられることなく積み上げられているのを横目に、曲がり角をもう一度曲がって奥へ進んだ場所に昔ながらの木造住宅が姿を表した。
付近の家々が改築していく前はコンクリートの新しい家が目立っていたが、今となっては我が家の木造一軒家のほうが異質なものへと時代は進んでしまった。
だがたった一人で暮らしている今わざわざ改築する必要もなく、夫と子供たちと一緒に暮らしているときも不便を感じたことがなかったので、家族の間で改築するか否かなどという話も出なかった。
施錠すらしていない門を開けて、玄関の扉に鍵を差し込み引き戸を開ける。
外とは違う家独特のにおいと手で転がしている銀杏のにおいが混じり合う。
買ってきたものを片付けるために台所へ向かいながら、手の中の実を何に使おうかと考える。
拾うつもりのなかったものなのであまり材料はない、たくさん買っても一人で食べきれなくて勿体無いし、歳のせいか食が細くなっているのもあって凝ったものを作ることもなくなった。
迷った末、やはりお吸い物に入れるのが一番だと思い鍋の準備をし始めた。
ピンポーン
普段沈黙したままの玄関チャイムが鳴った。
普段は郵便なども全くないのに誰だろう。
鍋に火をかけるのは諦め玄関へと向かう。
「はーい、どなたですか。」
声をかけながら引き戸を開けると、全く見知らぬ男女が立っていた。
二人共年の頃は二十代前半…否、若く見える容姿なのでもしかしたら半ばくらいだろう。
男性のほうがチャイムを鳴らしたのか前にいて、後ろの女性はパンツスーツに腰のあたりまで伸びる黒髪、ビジネスバッグを両手で持っているくらいしかわからない。
男性は線の細い整った顔立ちで縁無し眼鏡をかけてこちらもスーツを着こなして片手にビジネスバッグを持っている、そのためか真面目で勤勉な印象を受けた。
予想だにしない訪問者に驚いていると、男性が笑顔で胸ポケットから何かを出してきた。
「はじめまして木ノ下さん、私はこういうものです。」
言いながら出してきたものは名刺だった。
おずおずと受け取り書かれている文字を見て更に驚いた。
「逢坂探偵事務所、所長…藤堂誠、さん?」
「はい、そしてこちらが私の助手です。」
言いながら藤堂は少しだけ場所をずらして、後ろの女性が会釈をした。
「七瀬静香です。」
彼女は表情を全く崩さないが、はっきりしていることがある、それは息を呑むほどの美人であるということ。
長く真っ直ぐな黒髪は耳に近い部分だけ短く切りそろえられていて、着物でお茶でも立てていたらとても映えるであろう。
そして形の良い唇から発された声は凛としていて耳に心地よい。
藤堂もよほど端正な顔立ちをしているが、一度七瀬を見ると彼女にしか目が行かなくなってしまう。
女の自分から見てもそうなのだから男性なら尚更だろうと思う。
七瀬から目が離せないでいると、私と彼女の間に藤堂が割って入った。
「それで木ノ下さん、少しお伺いしたいことがあるのですが。」
「は、はい。何でしょう…。」
声をかけられ我に返る。そうだ、探偵がくるなんてただ事じゃない。
想像にあるのは事件や事故など悪い事象ばかりだ。
不安に思っていると、藤堂がこちらの不安をかき消すようににこやかに微笑んだ。
「そんなに身構えないでください、私共は噂の真相を確かめに来ただけなのです。」
「噂、ですか…?」
探偵が気にするような噂がこの辺りに流れていただろうかと首をひねる。
藤堂は我が家をぐるりと見渡して、勿体ぶるように口を開いた。
「この家、幽霊が出る、そうなんです。」
お吸い物を作る予定だった鍋を横にどけてヤカンで湯を沸かす。
用意した急須に緑茶の茶葉を入れながら居間を横目で見ると、藤堂は薄い笑みを浮かべながら座って庭を眺めており、七瀬は無表情のままじっと正座している。
仕事中だから喋らないのか、元々会話の少ない二人なのかはわからないが綺麗な顔立ちの二人が沈黙して和式の部屋に座っていると、精巧に作られた人形のように思えた。
これがスーツではなく着物なら完全に日本人形と見紛うほどだろうなと思いながら、熱々に沸いた湯を急須に注いだ。
湯呑にも湯を注いですぐに捨てる。そして盆の上に急須と湯呑を三つ置いて居間に向かった。
「お待たせしました。」
あまり高級でない緑茶はすぐに色や味が出るため、長く置くと無駄な苦味が出てきてしまって美味しくなくなることは長年の経験で立証済みだ。
それぞれの湯呑に茶を淹れて二人に差し出した。
「ありがとうございます。」
にこにこと言う藤堂とは真逆に七瀬は軽く頭を下げた。
藤堂は湯呑に口をつけて少しだけ飲んだ後、ほっとしたと言わんばかりに息をついてもう一度庭を向いた。
「良いお庭ですね、こじんまりとしていますが奥ゆかしさがあって。」
「ええ、気に入っております。」
「あまり凝った手を加えていない分季節らしさがでていますし、そういえば木ノ下さんの洋服も秋らしくて良いですね。」
「はい、カーディガンもワンピースもお気に入りなんです。あの…それでご用件なのですが…。」
どうも藤堂は世間話をするのが好きな性質らしく、このままでは訪ねてきた理由を話し出しそうにないのでこちらからそれとなく切り出してみる。
七瀬も横目で藤堂に目配せするような仕草をし、藤堂はおっとと大仰に仰いでみせた。
「これは失礼しました。」
少し眉を下げて謝罪の言葉を口にするが、藤堂自身も少し悩んでいるような様子だ。
「うーん…噂をご存知ないとすると、どこからお話しましょうか。」
「それでは…噂はどこから流れているのでしょうか?」
幽霊が出る、などと寝耳に水な話だ。
生まれたときからこの家に住んでいるが、そんなものに出会ったこともなければ父母や夫も子供達からも聞いたことがない。まずは噂の出処が気になっている。
「どこから、と問われたら返答に困るのですが…近所の方々が噂しているのですよ。」
それもご存知ありませんか?と問われ私は首を横に振った。
最近近所付き合いもあまりしていないが全く話さないわけではない。
なのに一言もそんな話を聞いたことがないのは近所の人達が私に隠しているとしか思えないが、隠す理由も特に見当たらない。私に話したところで笑い話で終わることだ。
だとしたら逆に目の前の二人が怪しく思えてくる。
ありもしないうわさ話を出して探偵などと名乗って何かを企んでいるのではないかと。
とはいえ騙し取るようなものもなければ資産家というわけではない。
訝しんで思案していると七瀬が藤堂からこちらに視線を移した。
黒曜石のような瞳に見つめられると心の奥底まで見透かされているような気がして落ち着かない。
だからだろうか、お帰りくださいとは言えず気になっていることが口から出た。
「あの、普段からこんなお仕事を…?」
幽霊が本当にいるか否かなど探偵がやる仕事なのだろうかと疑問に思った。
藤堂は私の質問に首を横に振った。
「いやいや、さすがに幽霊探しは初めてですよ。」
「では普段はどんな…やはり事件の捜査とかですか?」
「残念ながらそれもありません。」
藤堂は一つ咳払いをして続けた。
「皆様、探偵というと殺人事件の解決や密室トリックの謎の解明、強盗団のアジトを突き止めたり警察と共に悪の組織を追ったりと色々想像逞しいようですが実際はもっと地味で単純なものばかりですよ。」
唄うように言う藤堂に気の抜けた相槌しか打てない。
そんな私を置いて藤堂は、そうですね例えば…と続ける。
「大半は浮気調査、ついで多いのが料金トラブルとか…あと失せ物探しから迷い犬の捜索までやっておりますよ。」
「なんというか、何でも屋みたいですね。」
思ったことを口にすると藤堂は手を叩いて喜んだ。
「まさにその通りです。他の探偵事務所のことは存じ上げませんが私共のやっていることはまさに何でも屋です。」
言い終えると藤堂は残っている緑茶に口をつけた。
七瀬も思い出したかのように初めて一口だけ飲んでいた。
藤堂の言う通り何でも屋のようなものだとしたら幽霊探しのしごとを受けたとしてもおかしくはないだろう。
だが噂自体家主である私が知らないというのに、そんな眉唾なもの一体誰が調べるように依頼したのか…。
思案していると七瀬がゆっくりと口を開いた。
「すみません。」
「えっ…。」
「騒がしい人でしょう。」
この人、と言って藤堂を見やる。
藤堂はそんなことないだろうと大仰に両手を開いてみせるが、七瀬は溜息を一つついてすぐに視線を私に戻した。
「突然の訪問の上、騒がしくて申し訳ありません。」
「い、いいえ、大丈夫ですよ。」
日本人形が動いているような美人に頭を下げられると逆にこちらが萎縮してしまう。
どうにか話題を変えようと先程考えていたことを口に出した。
「それよりその…幽霊探しはどなたからかの依頼なのでしょうか?」
聞くと藤堂は七瀬に向いていた体をこちらに向き直した。
「ええ勿論、ですが誰からの依頼火というのはお答えできかねますのでご了承ください。」
守秘義務というやつだろう。
誰がというのも気にならないわけではないが、どのみち眉唾な話だ聞いたところで仕方ない。
藤堂は話し終えると眉をひそめて困り果てたように肩をすくめた。
「しかし家主が噂自体を全くしらないとは、どうしたものか。」
困っているのはこちらも同じで、しばらく三人共沈黙し考え込む。
唐突に藤堂が顔を上げた。
「そうだ、家の中を見せて頂いても?」
「えっ…。」
唐突な提案に驚いていると、藤堂はそれが良いと指を鳴らした。
「もしかしたら家主では気づかないことがあるかもしれません。」
「は、はぁ…ですが…。」
家宅操作でもないのに全く初対面の人に家を歩き回られるのは抵抗がある。
見られて困るものも特にはないが、還暦を越えたとしても一応女の一人暮らしだ、七瀬はともかく藤堂に色々見られるのは気持ちのいいものではない。
しかし二人もろくに調べもせず収穫がなかったでは仕事にならないのかもしれない。
どうしようかと悩んでいると七瀬が口を開いた。
「申し訳ありません、無茶を申し上げているとは重々承知なのですが木ノ下さんがご案内してくださる場所だけで結構ですので見せて頂けませんか。」
相変わらず無表情ではあるが懇願するように言ってきて彼女の提案を断るとこちらが悪いことをしてしまう気持ちにもなり、七瀬の言う通り案内できる範囲ならばということになった。
一階は居間と台所、トイレや洗面所は構わないが風呂場と寝室は藤堂にはご遠慮頂いた。
藤堂もそれで特に問題ないらしく、七瀬と私で見ている間は藤堂は持っていた鞄から本を取り出して読んでいた。
こうやって見て回っていると、もう私のものしか殆どなく、夫との思い出は一体どこへ行ってしまったのかと思うくらいだ。
大半見て回ったあと、二階へ上がるため階段へやってきた。
「二階は使ってないのですが。」
子供達の部屋だったが全員出ていってしまった今は掃除だけはしていた。
物もほとんど置かれていないので藤堂と七瀬もぐるりと見渡すだけだ。
「綺麗に手入れされてますね、ただ随分使っていないようで。」
「ええ、息子達の部屋だったんです。」
藤堂が何も置かれていない机や棚を見て言い、それに答えた。
「ご子息は今は?」
「みんな結婚して別々の場所で暮らしています。」
「ご息女は?」
「おりません、息子は三人おります。」
残念ながら娘には恵まれなかった。
息子が嫌なわけではないけれど、母親としては娘と揃いの服を着られたらと色々夢を見ていたものだ。
私の父や母は昔の考えの人だから、世継ぎが三人もいれば安泰だと喜んでいたが、特に継ぐ家業もなく唯一ある家は皆出ていってしまい、夫にも早くから先立たれ結局私一人になってしまった。
「寂しいですね。」
七瀬が心を読んだように呟く。
長く使われていない様子から誰も帰省すらしてくれていないことは見て取れる。
私は自嘲の笑みを漏らした。
「男の子は、駄目ね…仕事だのなんだのと忙しくて。」
孫の写真すらも送ってくれなくなったことを思い出して少しだけ悲しさが湧き上がる。
目頭が熱くなった途端、風が強く吹いてはめ殺しの窓が音を立てて揺れた。
三人が反射的に窓を見ると、遠くの空からイチョウの葉が舞って家にぶつかっては庭に落ちる。
黄色に染まった葉が舞い上がり、茜色に変わりつつある空と相まって幻想的な風景が視界を埋める。
まるで表通りから私のところまで慰めに来てくれているようだと感じ自然と笑みが溢れた。
しばらく眺めていると藤堂が近づいてきて。
「少し冷えますから、一階に戻りましょう。」
七瀬も藤堂に同意するように一つ頷いて三人で階段を降り居間へと戻った。
廊下から見える庭は案の定イチョウの葉が大量に敷き詰められていて表通りのようになっているが、どのみちあまり手入れしていなかった庭だ、せっかくイチョウの葉が来てくれたのだからこのままにしておこうと思う。
「何もなかったですね。」
困りました、と藤堂が肩をすくめる。
それについては私からはどうしようもできないことで、元より幽霊など誰かが面白半分で言ったことだろうと思う。
私は変な噂がなくなれば良いと思うが、二人はどうするのだろうか。
「依頼はどうするのですか?」
「勿論、ありのままを報告致します。」
「それで、良いのですか?」
仕事をしたことになるのだろうかと訝しんでみると、藤堂はまた大仰に両手を広げた。
「私共はただの探偵、霊能力者でもお坊さまでもましてや陰陽師でもないのです。依頼も噂の真偽を確かめるということですからなんら問題ありません。」
つまり幽霊が本当に出たとしてもそれを報告するだけで除霊をするわけでもなんでもないらしい。
仕事に差し支えがないことに安堵していると、二人はそろそろ御暇しようかと帰り支度を始めた。
久しぶりに家の中で人と話した私は、二人が帰って一人になってしまうのを寂しく感じて。
「もう遅いですし夕飯だけでもいかがですか?今日は銀杏を入れたお吸い物を作ろうと思っていたの。」
と、引き止めた。
しかし藤堂は少し眉を下げて困り顔になった。
「それは美味しそうなのですが、この後も仕事がありますので。」
やんわりと断られてしまい、そうですかと残念に呟いた。
もう帰ろうとしている藤堂と逆に、七瀬は銀杏の置いてある台所を見た。
「銀杏、お好きなんですか?」
「ええ、昔から好物で。表通りから拾ってきてしまったの。」
いたずらが成功した子供のように笑うと七瀬も少しだけ笑った気がした。
「表通りのイチョウ並木見ました、とても綺麗ですね。」
七瀬が言うと外でまた強い風が吹いて褒められたことを喜んでいるように黄色いイチョウの葉が舞った。
三人でそれを綺麗だと呟きながら見て、そのまま二人は帰っていった…。
トントンと書類をコーヒーテーブルで揃えて眼の前の男性に差し出す。
「これが事の顛末です。」
逢坂事務所を入ってすぐのソファに腰掛ける俺…藤堂誠は、目の前に座る依頼主の男性へにこやかな笑みを向けた。
コーヒーテーブルを挟んで反対側のソファには三十代後半くらいの男性が三人座っており、一番右端の男性が依頼主にあたる。
その弾性は震える手で報告書を受け取り、ざっと目を通した後ありえないと呟いた。
そして突然真っ青な顔を上げたかと思うとコーヒーテーブルに報告書を叩きつけた。
「で、でたらめだ!」
息を切らせながら叫ぶ依頼主に
「これはこれは心外ですね、あんな田舎町までわざわざ出向いて調べてきたのですよ?」
大仰に両手を広げてみせると、依頼人は顔を赤らめて拳を震わせた。
青くなったり赤くなったりと忙しないやつだと思っていると、隣りにいた男性二人がおずおずと報告書を手にとって仲良く読み始めた。
そして依頼人の男性と同じようにすぐに真っ青な顔に変わる。
さすが兄弟、行動どころか体質まで似ているらしい。
依頼主である長男は未だ何か言いたそうに口をパクパクと打ち上げられた魚のように動かしている。
見ていて飽きない三人ではあるが、このままでは仕事の話が進まないだろう。
「信じる信じないは依頼主である貴方次第ですが、きちんと依頼料はお支払いくださいね。」
まだ交通費も支払ってもらっていないのだ、都心部から田舎町までどれだけ掛かったことか。
そう思っていると後ろに立っていた七瀬が交通費を含んだ請求書を依頼主に渡した、さすが有能な助手だ。
依頼主の弟二人は書かれている金額に驚いたのか兄の顔を覗き込むが、依頼主はそれでころではないようで頭を抱えている。
「ありえない、ありえないありえない…だって、母は!」
もうこの世の人ではないのに。
吐息混じりの弱々しい声で吐き捨てた。
眼の前の三人は俺と七瀬で会ってきた木ノ下さんの息子達だ。
いや、目の前の三人も木ノ下ではあるし、母親のことは木ノ下夫人と呼ぶべきか。
息子たちの依頼内容は、一人暮らししていた母が他界したあと母の幽霊が出ると噂で恐ろしいので調べてきてほしい、ということだ。
多少脚色しているが、要約するとこんな感じの内容だ。
全く、自分の母親の霊が怖いとはなんとも情けない息子たちだ、と最初は嘆息し断ろうかと思ったが、調べてみたところ三人共それなりの企業に勤めていて料金だけは多少高くてもちゃんと払うだろうと思い引き受けた。
依頼料に関しては七瀬に任せているが、弟二人の反応を見る限りかなりの金額をふっかけたのだろう。
この三人のような手合は値切ってくる可能性が高いため最初に予想以上の値段を叩きつけるのが一番ではある。
しかしその依頼主が極度の混乱状態にあるようで、金額の話ができる状態にはないだろう。
どうしたものかと様子を見ていると、依頼主がぽつりぽつりと言葉をこぼし始めた。
「逢坂探偵事務所の藤堂誠は信頼できると…そう聞いたのに、こんなでたらめな…。」
信頼できるからこそ幽霊の詳細を読んで震え上がっているのだろう。
幽霊のことを否定したいからの言葉なのか、依頼料についてのことなのかわからないが、元々木ノ下夫人の幽霊調査を依頼したのは息子たちだと言うのに随分な言い草だ。
俺は大仰に両手を開いた。
「これはこれはひどい仰っしゃりようですね、信頼できると聞いたのであればその報告書も信用していただけませんか。」
第一幽霊の真偽など本来探偵に依頼するものでもないだろうにと思ったが、一応依頼人であるし言葉にはせず飲み込んだ。
そして如何にも困ったように肩をすくめてみせた。
「私共としても幽霊などと聞いて内心恐る恐る調べに行って、しかも本当にいたときは度肝を抜かれました、それでも依頼のためにと誠心誠意調べて参りましたのに。」
あんまりですと両手と視線を下にさげた。
後ろで七瀬が呆れた溜息をついたが三人には聞こえなかったようだ。
結局、依頼主である長男が役に立たない状態なので、請求書と報告書を一緒に弟たちにお持ち帰りいただくことにした。
俺はやっと終わったとソファに深く座りネクタイを緩める。
七瀬はテーブルに出ていたコーヒーを全部下げ、淹れたての紅茶を持ってきた。
「どうぞ。」
「あぁありがとう、やはりコーヒーは性に合わないな。」
七瀬の淹れたストレートのダージリンティーに口をつける。
元来、茶の類が好みの性質だコーヒーの苦味など飲めたものではない。
依頼人が来たときはコーヒーのほうが様になるから出しているが、飲まなければいけない状況を鑑みて大量の砂糖が投入されている。
ダージリンティーを口の中で堪能しながらゆっくりと喉の奥へ流していく。
一息ついたときに花から抜ける紅茶の香りがなんとも言えない安心感を与えてくれる。
さすが七瀬、大学時代から五年以上の付き合いともなると俺の好みの味をしっかりわかっている。
そういえば木ノ下夫人に出された緑茶は、決して高級なものではなかったがいい味が出ていた。
昔ながらの木造一軒家で飲んだ緑茶に思いを馳せていると七瀬が物言いたそうにソワソワしている。
彼女のことを、表情や仕草が貧困なため何を考えてるかわからないと言う人が多いが、隠している俺なんかよりよっぽどわかりやすい。世の中の人間は何を見ているんだろうと思う。
「どうした七瀬。」
カップを置いて聞いてやると言いづらそうに目を泳がせる。
見た目からは全く想像できないが内気で内向的な人間であることは重々理解している。
紅茶を飲みたくはあるが人が何かしていると一生話し出さないだろう。
仕方なく待ってやると蚊の鳴くような声で話し始めた。
「あの、木ノ下夫人…やっぱり幽霊だったんでしょうか…。」
どうやら先程の息子たち同様あの家で見た木ノ下夫人のことが怖いらしい。
震え上がるほどではないが、その恐怖を紛らわすためか口数多く言葉を続ける。
「依頼者たちが持ってきた死亡診断書も偽装されたようには見えませんでしたし、出会った木ノ下夫人は幻影や幻覚にも、ホログラフィなどの映像技術によるものにも全く見えませんでした。」
「そんな不可解なものと、怖がりなきみがよく喋っていたね。」
からかうように言うと七瀬は少しだけ顔を赤らめた。
「無害だと判断いたしましたので。」
「そうだな、確かにそれはそうだ。」
木ノ下夫人の話や態度から俺たち二人に危害を加える可能性は打ち消した。
そして七瀬の言う通りホログラフィのプロジェクターや、幻覚作用のあるものが仕込まれているのではないかと家の中を探させてもらったが、見える範囲では不審なものは一切なかった。
木ノ下夫人に案内してもらえない範囲に何かあるのではないかと勘ぐったが、あの寂しい二階を見た後では余計な詮索をする気は失せた。
息子たちの思い出はほとんどなくなって、誰かが泊まりに来た気配すらない二階は、物置にすらなることなく年月にさらされているのだろう。
そんな家を完全に取り壊して何か商売になることに使おうとしているあの三人の息子たちは無粋で無礼な奴らだと胃の底から不快な気持ちが湧き上がる。
それをかき消すようにもう一度カップに口をつけてダージリンの香りを流し込んだ。
「結局、何だったんでしょうね。」
独り言のように七瀬が言う。
「間違いなく木ノ下夫人だろう。」
「だとしたらやはり幽霊…。」
「そう結論付けてしまうのは早計だな。」
不思議そうにこちらを見る七瀬。
まだ気づいていないのかとカップを置いて依頼人が持ってきた書類の中から一枚の写真を出し七瀬に渡す。
「木ノ下夫人の写真…これが何か。」
「よく見てみたまえ。」
他人の心の機微には敏感なのだが、どうも細かいことには気づかないようだ。
しばらく待ってやると息を呑んで顔を上げた。
「木ノ下夫人のワンピースが…。」
写真に映っている夫人のワンピースは真っ白で柄一つなく、上に秋色のカーディガンを羽織っている。
三男坊が母のお気に入りの服だったんですと言っていたのを覚えている。
しかし出会った夫人のワンピースは薄い黄色だった。
同じもので色違いを持っているのかとも考えたが、出会った夫人もお気に入りの服だと言っていたので可能性は低いだろう。
七瀬は写真を眺めたまま息をついた。
「やはり偽物だったのでしょうか。」
「さぁ、一概に偽物とも言えないだろう。」
コーヒーテーブルに置いたままのカップを持ってぬるくなりつつあるダージリンティーを飲む。
そんな俺を七瀬はどういう意味だと訝しげに睨んでいた。
勿体ぶってないでさっさと話せということだろう。
俺としても可愛い助手に睨みつけられたくはないのだが。
「はっきりと何かわかっているわけではない。」
カップを置いて蛍光灯が揺らめく天井を仰いだ。
「木ノ下夫人が言っていたな銀杏が好きだと、そして二階にいるときに舞ったイチョウの葉、薄く黄色に染まったワンピース、それらを鑑みてあの木ノ下夫人はイチョウ並木が創り出したものなんじゃないか。」
「イチョウ並木が…?」
どういう意味だと眉間にシワを寄せさっきよりも眼光が鋭くなっている。
理屈で説明できることに関して彼女は優秀なのだが、どうも想像力に少し欠けている。
仕方ないと言葉を続けた。
「あのイチョウ並木は地元の人達からはあまり愛されていなかったようだが木ノ下夫人は違った、銀杏が好物で秋のイチョウを愛した、だからそんな木ノ下夫人をイチョウ並木を愛していたんじゃないか。」
「つまり、イチョウ並木が見せた幻覚と?」
「幻覚、幻影等と言ってしまうと味気ないだろう、だからあれはイチョウ並木が木ノ下夫人を忘れたくなくて、むしろ忘れられなくて見ていた思い出が俺たちにも見えていたんじゃないか。」
全て俺の想像の範疇からは出ないがこのほうが情緒もある。
勿論間違っているかもしれない、しかしあの時見た木ノ下夫人を幽霊という一言で片付けたくない、何より俺が面白くない。
生きている間に息子に会うことも死に目に一目見ることもできなかった一人の女声が、イチョウに愛され、今もイチョウ並木の記憶の中で生き続けていると思いたいのだ。
七瀬はふむと一言つぶやいて考えるように口に手をおいた。
「藤堂さん、意外とロマンチストなんですね。」
「何を言うか、俺以上ロマンチシズムに溢れた人間はいないだろう。」
心外だ、と思いながら俺はダージリンティーを飲み干した。
そして都会のビルしか見えない窓を眺め、田舎町にある銀杏並木へ思いを馳せた。
後に人づてに聞いたことだが、やはりあの三人の息子たちが木ノ下夫人の家を取り壊そうとしたらしい。
しかしうまくいかなかったそうだ。
どういう事情かまでは掴むことができなかった。
あの三人のことだ、ある程度の地位もあることから情報を握りつぶして箝口令を敷いたのだろう。
だが人の口に戸は完全に断てられない。
俺が尋ねた人が皆言うには、木ノ下夫人の寝室であった場所にいつも銀杏が転がっているらしい。
何度掃除しても、何度捨てても、次の日には必ずそこに黄色い独特の匂いを発する実があるそうだ。
了