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蓮の葉の上に佇む左腕のない天使

作者: 藤樹 翠

作中に登場する天使は特定の宗教におけるものを指しているわけではありません。

蓮の葉の上に佇む左腕の無い天使


この世界には知らないことがある。

空気が何でできているのかとか、自分の心臓はどうやって動いているのかとか、空はどこからやって来たのかとか。

解明されたことは多くあるけれど、それでも自分が理解していないのならば、それは知らないのと同義だ。

知らないことは、元からないのと同じなのだ。

水紋が広がる。

雨が降っていたのだ。細い夏の雨だった。どんよりした空と似たような濁った青の傘を持っていた。

雨は嫌いだった。頭が痛くなるから、というのがとりあえずの理由であったが、恐らくは理由の大半は気分的な問題だった。

朝起きて太陽が見えないと、なんだか気分が沈むのだ。空が見えないと今日の行動を決められないのだ。

何をするのか、何がしたいのか。そう言ったものは自分の中に最初からあるわけではない。

自分のすることは外から決められている。それは宿題と同じだった。

雨が降れば傘をさすように、しなくてもいいことであってもしなければ周りから奇怪な目で見られる。さも自分が悪であるかのように告げる。


「いい雨ね」


だから。

この瞬間に自分がおかしいということはすぐわかった。

わかったのは、ただ自分のこと。

周りの状況のことは何も理解できない。理解できたら、それは世界で一番賢いと胸を張れるだろう。

雨に濡れた天の川のような金髪も、体にまとう純白の服も。そして、黄金色に仄かに輝く翼が、何よりもそれを現実離れさせている。


「そう、ですね」


掠れた声で、なんとかそう返事をした。

いや、返事ができていたのかもわからない。石に転んだ瞬間に息が漏れ出たような、そうな雨よりも細い声だった。

奇妙な話し方をする、そうな頭の隅でも考えつかないような直感的な感想しか浮かんでこなかった。


「嘘ばっかり」


「どうして」


言って、意味のわからない質問をしていることを悟った。理由を聞いても、答えてくれる人は少ない。

理由というのは、その人がどういった感性で動いているのかということを示すものだ。理由における意味が大きすぎるために、皆答えてはくれないのだ。

ただ、それは人間だけなのかもしれない。


「あなた、雨は嫌いでしょう」


「どうして」


そう思うのか、と言う前に、


「そればっかりね」


途中で遮られてしまった。遮られなかったとしても言葉の意味は変わらないのだから、どちらにしても意味はなかったかもしれない。

どうして誰もこれに気がつかないのだろう、と思った。周りはなんとも思わないのだろうか。

この美しい、深い森の葉の隙間から溢れる陽の光のようなものを、不思議だとは思わないのだろうか。


「わからないことは嫌いなんです」


「そう、例えば?」


「雨はどこから来るんですか」


「空からでしょ」


「海からではなくて?」


「空から降って来るのだから、雨は空から来るんでしょう」


それは、どうだろうか。雲は海でできるのだと本で読んだことがある。なら、雲から落ちて来る雨も海から来るような気がした。


「それはあなたも?」


「私はずっとここにいるわよ」


「羽があるのに?」


「羽があるからと言って飛ばない鳥もいるでしょ」


「あなたは鳥なんですか?」


「いいえ、天使よ」


天使。

天使とはなんだろうか。少なくとも人間ではないだろう。


「天使って何をするんですか?」


「質問ばっかりね」


天使は嗜めるように言った。

それはどこか、宿題をしてこなかった時の担任に似ていた。


「すいません」


「なぜ謝るの?」


俯いた頭で考える。

理由は、わからなかった。

理由なんてないのかもしれない。反射的に答えてしまっただけ。熱いヤカンに手が触れたら慌てて引っ込めるように、決められた行動だった。

少し間をおいて、顔を上げた。

天使は最初に見た時と何も変わらないまま佇んでいた。風に揺れる髪の毛と、体に張り付いた服以外は何も変わらない。

瞬きもしていないように思えた。

天使は動かないのかもしれない。動く理由がないからか。それとも何か理由があるのだろうか。


「雨は嫌いなんです」


「そう」


「髪の毛が跳ねるし、足は濡れるし、良いことがないから」


「そうかもね」


天使の口元は、動いていなかった。声は聞こえるが、話しているわけではないらしい。

天使は雨が好きなのだろうか。

雨が降っていたら、空は見えないと言うのに。


「好きも嫌いもないわね。好きになる理由も、嫌いになる理由もないから。でも、私は雨の日しか空を見れないのよ」


「…ど」


「どうして、とは言わないでね」


「…どうして」


「言わないでって言ったのに」


また頭を下げる。


「…す」


「謝らないで」


顔を上げる。

天使の表情は見方によっては変わっていた。それは天使が表情を変えているわけではなく、こちらが見ている時の心が違うからなのだろう。

誤って許されるのは、自分であって相手ではないのだ。謝ると言うのは、相手に許して欲しいと願うことであり、それには特に意味はないのだ。

相手に許す理由などない。

謝ると言うのは、ただ許されたいという気持ちの表れでしかない。

そしてそれは、天使には意味が無いものなのだろう。

代わりに話題を変えることにした。

そういうことはいつもしている。大人との会話では特にそうすることが多かった。話題を変えたところで、誰も不思議には思わない。自分が話すことに、誰も興味がないからだろう。誰も自分に意味など求めていないのだ。


「また会えますか」


雨が上がろうとしていた。水の匂いが離れて行く。


「また雨が降ったらね」


天使は腕を広げた。雲から落ちて来た最後の雫が地面を叩いた瞬間、ちょうど瞬きをした。

皮膚一枚分、太陽の光に透けて赤く見えるそれに阻まれて、天使は消えていた。地面が黒くなって、それから光に当てられて白く光った。

蓮の葉の上には何もない。せめて石像くらいあればいいと思ったが、そういうものも無かった。それが、天使が今ここにいたのだと知らせていた。

天使は飛んで行ったのだろうか。

しかし、天使は飛ばないと言っていた。ならば、雲と共にどこかに行ってしまったのかもしれない。

傘を畳む。アルミの骨が錆びついて軋んでいた。風が吹いたら壊れてしまいそうだが、そう思いながら二年は経っている。時々しか持たないものだから、時間の感覚がおかしくなっていた。



次の日も、その次の日も晴れていた。

レンタルビデオ店で借りてきたアニメには、灰色の雲を切り裂いて光を差し込み、空中に浮かぶ天使が描かれている。

天使は雨の日にしか空を見れないらしい。

しかし雨が降っている間は傘をさしているものだから、人間は空を見ない。少なくとも、外に出ているのならば雨が降っていて空を見上げる人はいない。

天使は人間では無いのだから、人間のルールは通じないのかもしれない。天使は綺麗なイメージがあったけれど、あの天使は濡れていなければ空を見れないのだ。

夕方。

晴れた蓮の池は、人がちらほらと歩いている。

当然だが、天使はいなかった。

傘の代わりに持っているカバンを少し軋ませて家に帰る。天使がいないのならば、雨の日にはなんの価値もないのだ。

乾いた空気が滲む部屋でテレビをつける。小さいテレビ画面には自分の半分くらいの大きさの人間が今日のニュースを伝えている。

夕焼けが部屋を赤くしていた。自分の肌が赤く染まる。

それでも、熱は帯びたりしない。意味のない色だった。


『台風XX号が〜』


ニュースキャスターが季節の化身の進捗を報告する。自分の住んでいる地域には、そろそろやって来る頃だった。

薄い雨戸では、眠れない夜がやってきそうだった。

眠れないことに意味などない。煩いからという理由も、誰にも届かない。届かない愚痴は、意味を持たない。


「雨は嫌いだなぁ」


だからこの愚痴も、意味がないのだ。



雨が降っている。

最初に天使にあった日から、実に五日が経っていた。台風が近づいてきているらしいのだから当然だが、人通りは減ってきている。

台風のせいだが、風も強かった。それでもまだ歩けないほどではない。


「また来たの?」


「雨が降ったら会えると聞いたので」


「そうだったかしら」


天使は少し怒ったような口調で呟いた。強い風が服をはためかせていた。天使の肌が雨に濡れていた。


「それ、寒くないですか」


「今は夏だもの」


「そうかもしれませんけど」


ずっと濡れていては、風邪を引いてしまうかもしれない。そんな、人間にするような心配が浮かんでいた。

天使は風邪をひかないのだろうか。

それとも、羽で自分を覆えば問題ないのだろうか。

天使は相変わらず口を動かしていなかった。人のいない蓮の池では、この天使の声は自分にしか聴こえていないだろう。

そも、幻聴だと言われればそれまでなのだが。


「腕、どうしたんですか?」


「ちょっと悪さをしたの」


「あなたが?」


「そうよ。私は悪い天使なの」


「そうなんですね」


「幻滅したかしら」


「あなたが幻想だったら、そうかもしれませんね」


天使は足元の蓮の葉を、自分の重さで揺らしていた。長い髪の毛が風に引かれている。流れているそれが、まるで雲間から差し込む光のように見える。

傘の下に隠れて、少しだけ顔を熱くした。


「悪さをしたら、腕を取られるんですか」


「質問ばっかりね」


「そうですね」


天使は青い瞳で自分を見た。

光の当たらない空では、綺麗なのだろう青い瞳も濁って見える。


「あげちゃったのよ。好きな人に」


「腕を?」


「そう。天使の肉が欲しいって言うものだから。好きだったからあげたのだけれど、他の天使には怒られた。悪魔と関わったらダメだって」


「悪魔?」


「お隣さんね。悪魔達は自分達のことを天使、私たちのことを悪魔と呼ぶの。よく似ているのだけれどね」


「それで、追い出されたんですか」


「そうよ。青い空が見えないと空には帰れないから、私が帰ってこられないようにされたの」


雨の日にしか空を見上げることができない。

そのことにようやく納得した。

家から追い出され、鍵を奪われた子供のように、帰る手段を取り上げられているのだ。

雨の日には、青空は見えない。たとえ雲を越えた先にあったとしても、知らなければ無いのと同じだから。

それはとても酷いことのようにも思えたが、自分の価値観と天使の価値観が同じだとは限らない以上、安易な同情はできなかった。

それができるほど、自分は強くなかったのだ。


「優しいのね」


「どちらかというと酷いと思いますが」


「気持ちでは無いわ。在り方のことよ」


「在り方?」


「そう。気持ちなんて状況が変わればすぐにおかしくなってしまうもの。天使は美しいものが好きなのよ。容姿や性格ではなく、その在り方が美しいものに惹かれるの」


「だから悪魔を好きになったんですか?」


「そうね。あの人はとても美しかったから。その点で言えば、人間はあまり美しくは無いわね」


「それはどうして」


「生きることに意味を見出そうとしているもの」


風が吹く。傘が傾き、木の葉についていた雨が顔に降りかかった。

雲の隙間から、昼間の太陽が少しだけ顔を覗かせる。

天使の姿は、無かった。



次の日の朝、晴れていた。

テレビをつけると、もうそろそろ雨が降ることになっていた。

天気予報は未来予測では無いが、それでもこの情報にはなんとなく力がある。自分たちでは、わからないことだからだろう。

風が強くなっていた。

台風が来るので当たり前だが、雨が降れば天使がいるとわかった以上は、会いに行く他なかった。

蓮の池についてもまだ雨は降っていなかった。

傘を風で壊されては敵わないのでカッパを着ていた。子供の頃に買った、黄色いカッパだった。今ではひどく似合わないが、それでもお気に入りだったのだ。

雨には、似合わないだろうが。


「まだかな」


雨が降っていない頃に来たのには理由があった。

天使が来る瞬間を見たかったのだ。

あの天使は空からは来ないのだろう。雨の日には舞い降りて来るのだとしたら、それはどんなファンタジーの世界でも描かれていない、自分だけが知っている特別な瞬間な気がしたのだ。

誰も見ていない花火に気がついたような、道端の美しい花に目を奪われたような、そんな一瞬の喜びに心を満たすことができるのだ。

それが、どうしても見たかった。

雨が降るというのはどの瞬間からなのだろうか。

一粒の雨が地面を叩いた瞬間。

雨雲から粒が生まれた瞬間。

それとも、空の高さには決まりがあるのだろうか。この高さを過ぎれば、これは雨なのだと。

瞼を二つの雨粒が、偶然同時に叩いた。

いや、偶然では無いのだろう。

天使が降りて来るその瞬間を、やはり見ることができないのだ。どれだけ努力して目を見開いていようと、人間に触れられることのできるものでは無いのだろう。


「早いわね」


「待ってたんですよ」


「そう」


出会う瞬間の天使はいつも不機嫌だった。頭の周りを覆う薄いビニールにぶつかる雨音が、天使の声を鈍らせる。

フードを外そうかと思ったが、それではカッパを着て来た意味がないのでやめた。


「自分の行動を決めるのは自分だけよ」


「何のことですか?」


「フード、邪魔なら外したらいいじゃない」


いつも雨に打たれている天使が言うには、随分と説得力があった。

手にかけて、それから天使の話がまだ続いていることに気がついて手を離す。


「周りから自分がどう思われているのか、考えたことがあるかしら」


「時々はありますね」


生きていれば他人から評価される瞬間が必ずある。それが意図していなくても、誰かに自分の価値を決められる瞬間がある。そしてその度に、自分の行動はどこかで小さくなっていくのだ。


「雨の日に傘をさす。ささなかったらどうなるのかしら」


「周りから変な人だと思われませんか?」


「思われたらあなたは困るのかしら」


「多少は困りますね」


「困ったら、どうなるの?」


「……」


困ったら、どうなるのだろう。

困ること自体は問題ではないように思う。困る原因があること自体が問題であり、困ることによって何かが起こるという予想に問題があるのだ。

自分が困ることは、他人にとって意味がないことだろう。

他人は困っていないのだから。

原因と結果は繋がっているが、他人と自分は繋がっているわけではない。困る人間は、困らせた人間とは無関係なのだ。


「雨は好きよ。色んなところにぶつかって音楽を奏でるから。雲の上では決して聴けなかった音楽だもの」


空の上は、音がないのだろうか。飛行機の窓から見た外には音がない。知らなければ、無いのと同じだった。

それは少し、寂しい気がした。


「音楽に意味は無いらしいわ。天使は美しいものが好きなのに、こんなに美しいものを知らないのね」


「知らなければ、無いのと同じですよ」


「それは、確かにそうね」


例えば天使が晴れの日にどこにいるのか。

池の底で眠っていても、月の周りで踊っていても、見えないならばどこにいるのかなど何の違いもない。

自分の見えている範囲にしか世界がないと言うほどでは無いが、知らない場所には、結局なにも無いのだろう。

音を知らない世界に生まれたならば、音楽は無いのだ。


「在り方は、どうやったら美しくなれますかね」


「自分を信じること。自分の信じるものを信じること。今までも、これからも信じていくものを失わないこと。そして、」


風が止まる。

雨粒だけが頬を叩く。


「走り続けることよ」


青空が、天使の背後に現れた。

この場所だけを置き去りにして、輪を描くように雲が回っている。

聞いたことがあった。

台風の目では空が見えるのだと。

周りの雲の影響だろうか、雨だけは降っている。風もないのだから、よくわからないことだった。

本当は台風の目ではないのかもしれない。だが、知らないのだからそれだと思えてしまった。それだとしか、思えなくなってしまった。


「綺麗ね」


天使は翼を広げ、空中に浮かび上がった。雨に濡れている服が、雨粒をしたたらせていた。


「そうですね」


「その同意には意味はある?」


「ありません。ただ、そうしたいだけです」


「そう」


天使はその唇を、初めて少しだけ動かした。それは見間違いでないのなら、微笑んでいた気がした。


「また会えますか?」


「今度は晴れの日に会いましょう。あなたは、そちらの方が好きらしいから」


「どちらでも構いませんよ」


「あら、どうして?」


「雨の日に会う美しい人がいましたから」


「それは良かった」


天使は小さな青い輪の中に吸い込まれるようにして羽ばたいた。

雨が髪の毛に染み込んでいたが、フードを外し空を見上げた。天使が口を開け、歌い始めた気がした。

それは蓮の池に広がる、雨の波紋に似ていた。

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