平津先輩から語られる本当のこと
しばらくすると、平津先輩は泣き止んだのか恥ずかしそうな顔で私にお礼を言うと、傍らに開いたまま置いてあった傘を持ち、鞄を担ぐと、屋根のある場所へと私達は移動しました。
びしょ濡れの平津先輩の体を拭こうとして、鞄からハンカチを取り出そうとした私は、ここで初めて自分が鞄を持ってきていないことに気づきました。
私が焦っていると、平津先輩は「大丈夫」といって、自分の鞄からタオルを取り出します。
「今日は雨で体育は中止になったからね。ちょうどよかったよ」
そう言いながら体を拭く平津先輩の言葉は、きっと嘘です。
今日の雨は朝から降り続いていました。体育が中止になることなど、家を出るときに分かっていたはずです。なのに、タオルを持ってきていることは、初めからこうして自分が雨にうたれることが分かっていたからに違いありません。
そのことを言わないのは私を気遣ってか、恥ずかしいかのどっちかです。
「なんで傘、差さなかったんですか?」
私は振り続ける雨を見ながら平津先輩に聞きます。
「……」
最初こそ理由を話すのを渋った平津先輩ですが、泣いている姿を見られた今、隠す必要がないと思ったのか次第に話してくれました。
「雨で泣いているのがばれないと思ったから……かな」
「美世先生にですか?」
「ううん。父ちゃんと母ちゃんに」
平津先輩はまっすぐ自分の家の墓標を見つめています。
「泣いてるのって言われたとき、これは雨だって言い訳できるでしょ」
この言葉が平津先輩の本心であり、強がっている言葉であることなどすぐに理解できました。
だから私は努めて軽く言い返します。
「無理ですよ」
「え?」
「そんなに真っ赤な目してて泣いてないなんて通用すると思ってるんですか?」
平津先輩は私の顔をじっと見て固まります。
私はお構いなしに続けました。
「親は子供の表情に敏感なんですよ。いくらこっちが必死に隠しても、すぐにばれちゃいます」
私は自分の両親を思い浮かべて話しました。
悩みがあるとき、いつも隠しているはずなのに、お母さんとお父さんにだけはすぐにばれていました。つい最近も、平津先輩のことで悩んでいるのを見破られたばかりです。
「そうだね」
平津先輩も穏やかな表情で墓標を見つめた後、私に返してきてくれました。
その声はどこか懐かしむような雰囲気が感じます。
「新菜さんはどこまで聞いてるの?」
平津先輩が体を拭き終えた後、休憩スペースの椅子に腰を下ろすと、隣の座る私のそう問いかけてきました。
まさか平津先輩からこの話を切り出されると思ってなかった私は少しだけびっくりした後、すぐに口を開きました。
「美世先生が知っていることですかね。平津先輩の家族のこととか、平津先輩が今、美世先生と一緒に暮らしていることとかです」
「じゃあ、死因の詳しいことまでは知らないね」
「えっと、お父さんことしか……確か癌で亡くなられたって」
「そうだよ。それも含めて新菜さんには話しておこうかな」
「いいんです……?」
「まぁ、今更隠したって仕方がないしね。泣いてるところ見られたんじゃあ、黙っておくわけにもいかない。だったら、ちゃんと知っておいてもらった方が良いと思って」
「……はい。お願いします。聞かせてください」
「うん。そう言ってくれて俺も助かるよ」
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父親の死因は、今新菜さんが言った通り癌だった。
どういった種類の癌かは、何だか難しい単語ばかり並んでたからもう思い出せないけど、とにかく俺が中学3年生だった時、父親の体に癌が見つかった。それも、父親の誕生日に。
当時、まだまだ元気だった父親に向かって俺は『やばい誕生日プレゼントもらったな』って言ってたよ。それに母親も父親本人でさえ笑って話してた。
だけど、現実はそんな甘いもんじゃなかった。
父親の癌は体中にまわってて、すでに手遅れだった。余命半年って言われたよ。
それから抗がん剤の治療が始まった。最初の頃は入退院を繰り返すだけで、別に父親の体になんの支障も出なかったんだ。少し疲れやすいだけで、仕事にも普通に行ってた。本当に元気だったんだ。健康な人と変わらないような状態が続いて、俺や母親もこのまま元気になっていくもんだって思ってた。
だけど、治療を続けていくうちにだんだんと父親の体がおかしくなっていった。食事は喉を通らなくなって、髪の毛は抜けて、やせ細っていった。
遂には、退院するとこさえ困難になり、病院での治療に専念することになったんだ。
薬の影響か、父親は自分の状態や家族の俺達でさえ、誰なのか分かってない時もあった。
その頃には立ち上がることも出来ず、寝たきりの状態だったな。
そんな父親を抱えながら、俺は中学を卒業し、父親の勧めで入った近くの、今の高校に上がることになった。ちょうど、その高校に香奈や智弘も入学するし、なんの運命か、みっちゃんも教師として入ってきていた。
そんなことを父親の病室で話したら、母親だけじゃなくって、意識がはっきりとしていないはずの父親が笑ったんだ。嬉しそうに。今でもそれが忘れられない。
でも……。
それからすぐ、父親は俺の入学式を待たずして、静かにこの世を去ったよ。
思えば、癌が発覚してから、半年と2か月が経ってたな。
葬儀を終わらせ、入学式には母親が父親の遺影を持って参加したよ。
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「そうだったんですね……」
「でも、父親はがんばったよ。結局死んじゃったけど、半年って言われてたのに、余分に2か月生きたんだから」
平津先輩の目には涙があふれていました。
体は寒そうで、今にもどうにかしてあげたいと思いましたが、まだ平津先輩の話は終わってはいません。
「次は母親の番だね」
「……はい」
「きっと、母親のことは、みっちゃんや香奈から詳しくは聞けてないんじゃないかな?」
「そう……ですね」
「だよね」
「平津先輩が隠していたって言ってましたけど」
「うんまぁね。言いふらすことでもないし。みんな入学したばかりで大変そうだったから。それに、みっちゃんのご両親がいろいろ手伝ってくれたから、言わなくてもいいかなって」
平津先輩の言葉には、どこかふわっとした部分がありました。特に最後の部分が私にはつい気になってしまったのです。
言わなくてもいいなどと思うでしょうか。幼馴染なのに。小さい頃から仲のいい友達に対して、言わなくていいなんて軽い気持ちは芽生えるものでしょうか。
私は心で首を振ります。
そんなことはありません。言わなくてもいいなんて思うはずがありません。
もし私が平津先輩と同じような状況になったとします。そんなことになったのなら、私はきっと平津先輩の様に事情を、愛花ちゃんは優里奈ちゃんには言わないでしょう。ですがそれは、言わなくてもいいからという気持ちからではありません。
「……言えなかった、のではなくてですか?」
私の言葉に平津先輩は固まります。
そうです。もしそんなことが立て続けにあったら、人はなぜか周りの人を巻き込みたくないからと、言えなくなってしまうのです。
本当は助けてほしいと思っていても、言えないのです。言えるわけないのです。だって、友達だから。大切だと思っている友達であればあるほど。巻き込みたくないと思ってしまうから。
「……その通りだよ。言えるわけない。そんな状況だと知ったら、みんな助けてくれるのは分かってたから。自分の事を投げ出して俺を支えようとしてくれたのは分かってたから」
平津先輩はそして、私に続きを話してくれます。
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父親の葬儀が終わって、俺も高校に入学して、もうこれで終わりだと思ってた。父親はいないけれど、普通の生活に戻れるって思ってたんだ。
だけど、そんなある日、母親の異変に気が付いた。
母親の顔が片側だけ、動かなくなってたんだ。片側顔面マヒみたいな感じで。
そのことはすぐに、隣同士で毎日顔を合わせるみっちゃんの母親にも伝わった。すぐに、病院に連れて行ってもらったよ。
そしたら、ストレスだろうってことで、ちょっとした薬を渡された程度だった。俺はホッとした。父親の看病の疲れが今になって一気に来たんだって思った。
でも、しばらくしたらその病院から連絡があり、大きな病院で検査する必要があるって言われた。
その連絡を受けてすぐに、父親も入院していた病院にいって検査をしてもらった。
もれなくして分かったことに、俺はこの世界に神様なんていないと痛感させられたよ。
母親も癌だった。
父親とは違ったけど、症状は同じだった。すでに全身に癌が回ってて、長くは生きられないだろうと言われた。
母親は笑ってたけど、胸中穏やかじゃなかったのは分かってた。
母親は初めホルモン注射をするとこになった。それで回復が見込まれるようなら、安心できたけど、母親の癌細胞がなくなることは一切なくって、徐々に大きくなっていっていた。そして母親の病状も悪化していた。その時にはすでに杖なしじゃあ歩けなくなり、病院では車いすを使ってたよ。家のことはみっちゃんの両親が代わりにやってくれていた。俺は高校に通いながらも、休日には母親について病院に行くような生活だった。
ホルモン注射での治療には限界きたために、父親と同じように抗がん剤の治療をするかと医師に勧められた。そのとき、母親は断ったよ。
緩和ケアっていうのにして、抗がん剤を使わない治療みたいなのを選択したんだ。
母親はそのまま緩和ケア病棟に入院。
それからは早かったな。
入院して1週間ののち、母親も癌でこの世を去った。
奇しくも、母親の葬儀の日は父親の誕生日だった。
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「平津先輩……!」
私はたまらず、平津先輩の震える手をギュッと力強く握っていました。
平津先輩の体験した出来事は、私の思っていたことよりも辛く、悲しい物でした。その全てを1人で見てきた平津先輩はどれほどのものを背負って今まで笑っていたのでしょう。
「ありがとう新菜さん」
平津先輩はそう言って私の手を握り返してくれました。
その手は力なく震えています。
「後悔はしてないよ。むしろ幸せだと思う」
「しあわせ……?」
「うん。こうしてしっかりと両親の死に目に会えたんだから」
平津先輩は力なく笑います。
私は何も言うことが出来ず、ただただ溢れ出しそうになる涙を抑えながら、平津先輩の手を震えが止まるまでずっと握っていました。