朝の静かな時間
しばらくしてから、美世先生は私の体を離してくれました。
寝室には入ってきたときには思いもしなかった温かな空気が充満しています。
重い話をしたはずなのに、ここにいる全員が優しい笑みを浮かべていました。私達に話したことにより、美世先生と香奈先輩の心に余裕ができたのでしょうか。縛っていた鎖にひびが入ってかのように、纏う雰囲気は柔らかいです。
「でも、これで納得しました」
愛花ちゃんがそう言って笑います。
「平津先輩が言った『使わなくなった物は壊さないといけない』って言う言葉の意味が。それって自分に向けて言っていたんですね」
どうやら、愛花ちゃんも気になっていたようでそう呟き、うんうんと納得したような表情を浮かべていました。
事情を知った今なら、あの言葉の意味が正しく理解できます。平津先輩がどれだけの決意と共に発したことかも、はっきりと。美世先生達はそれが分かってしまったから、沈んだ顔を浮かべていたというわけです。
「頑張ってね理子っち」
「う、うん!」
「まず、平津先輩に理子のことどう思ってるか聞かないと」
優里奈ちゃんの言葉に私は現実に引き戻されます。
そうでした。いくら信頼されていることが分かっても、平津先輩が私のことが好きかどうかは……分かりません。
私が青い顔をしていると、美世先生や香奈先輩からは、私とは対照的な明るい声が返ってきました。
「それは多分大丈夫じゃないかな?」
「私もそう思うわ~」
どこか楽しんだ顔を私に向けています。
「ど、どうしてですか?」
「だって、きっと幸くんも理子ちゃんのこと気になってると思うもん」
「ええ」
衝撃の事実を2人はあっけらかんと言います。
それに私はついていけません。しかし、愛花ちゃんと優里奈ちゃんはなにやらニヤニヤしながら美世先生達の方に近づいていきます。
そして、美世先生が耳打ちすると、2人ともなにを聞いたのかさらにニヤニヤさせました。
「理子っち」
「理子」
2人が私の方を向きます。
『がんばっ』
2人は声を合わせてそう言うと、なぜか私にサムズアップしてきました。
私が混乱して、2人に何を聞いたのか問い詰めようとしたとき、不意に扉の向こうから音が聞こえてきました。
階段を上がるような音に続いて、扉が閉まる音が静かにしました。
それに耳を傾けていた美世先生は小さく呟きます。
「いっちゃんかな……」
そしてその音がしてしばらくすると、もう一度誰かが階段を上がってくる音がして、扉の開閉音がしました。
きっと平津先輩でしょう。もう泣き止んで部屋に戻っていったのでしょうね。
結局、石井先輩はあれからずっと見守っていたようです。
美世先生は音には出しませんでしたけど、動いた口は『ありがとう』といっているように感じました。
私は携帯で時刻を確認しました。もうずいぶんと遅い時間です。
それを美世先生も確認したのか、
「さぁ、私達も寝ましょう」
といい、私達を布団へと誘導していきました。
そして私はずっとモヤモヤを抱えたまま、眠りにつきました。
いったい、美世先生から何を聞いたのでしょう。
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朝起きると、すでに平津先輩は起きていました。
リビングで椅子に座り、1人でテレビを見ています。そんな平津先輩の姿が、家に違和感なく溶け込んでいるのが、ここが昔平津先輩の過ごした家だと認識させられているみたいです。
ですが、そんなこと言えるわけもなく、私は
「おはようございます」
といい、平津先輩の向かいの椅子に腰を下ろしました。
平津先輩の目は腫れています。あれからどれだけ泣いていたのか分かりませんが、きっとずっと泣いていたのでしょう。
私がずっと平津先輩を見ていたので、平津先輩が私の視線に気づきます。
「どうかした?」
ずっと見ている私に聞いてきます。
私はどきりとして、慌てて平津先輩から目をそらして、何とかという思いで口を開きました。
「……みんな遅いですね」
「そうだねー。智弘が遅いなんて珍しい」
「石井先輩って早起きなんですか」
「いつもはね。部活の朝練の習慣でつい早起きしてしまうっていってたから」
「なるほどです」
「どうしたんだろ?昨日夜更かししてたとは思えないんだけどな」
泣いていた平津先輩は知らないのでしょう。ずっと石井先輩が見ていたことなど。
本当に不思議そうにしている平津先輩に、真実を口にするわけにも行かず、私は適当な相槌で話を流しました。
「こっちもまだ誰も起きていません」
「だねー。まさか、みんな遅いなんて思わなかった」
「……静かですね」
「そうだね」
リビングにはテレビの音以外ありません。朝も早く車が家の前を通ることもなく、朝の独特な静寂が私と平津先輩を包んでいました。
私は平津先輩をこうしているだけでも全然いいのですが、昨日のことの手前つい油断してしまうと、平津先輩の腫れた瞼に目がいってしまいそうになり、少し大変でした。
しかし、話す以外やることもなく、私は必死にテレビに視線をやっていると、不意に平津先輩が呟きました。
「新菜さん」
「はい?」
「ちょっと、散歩でもしない?近くのコンビニまで」
突然のその問いに、私は驚きましたが、このまま誰かが起きてくるまで待っているのにも限界がありました。
「いいですよ」
「それじゃあいこっか」
「はい。財布持ってきますね」
「いいよいいよ。俺が持ってるから」
「でも」
「いいの。それに、寝てるのに邪魔したら悪いよ」
「……そうですね」
私はそう言うと、平津先輩につづいて靴を履き外に行きます。
玄関から外に出ると、平津先輩が玄関の鍵を閉めました。来たときは美世先生が持っていましたが、今は平津先輩が鍵を持っているようです。鍵を閉める動作一つとっても、慣れているのが伝わってきます。
「なに買いに行くんです?」
「パンとかコーヒーとかかな」
「あぁ、確かに朝ごはんないですもんね」
「前に買い物した時はカレーの材料しか買ってなかったからね。新菜さんが起きて来なかったら1人で買いに行ってたとこだよ」
「そうだったんですね」
私は平津先輩と他愛ない話をしながら、朝の静かな住宅街を歩いて行きました。
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人数分の朝ごはんを買って帰ると、すでにみんな起きてリビングでくつろいでいる最中でした。
2人して帰ってきたのに、香奈先輩と愛花ちゃんが過剰に反応しましたが、コンビニ袋を見せると、すぐに興味は中の物へと移りました。
私達が買ってきた朝ごはんを食べると、今日はのんびりと家の中で過ごします。
昼食には昨日の残りのカレーを食べ、みんなでお菓子をつまみながら、日が暮れかけた頃には荷物をまとめて買える準備が出来ていました。
私はずっと平津先輩を気にしたように見てしまっていたようで、何度も平津先輩に気づかれては目を背けるという行為ばかりしていました。
最後に平津先輩が玄関の鍵を閉めると、夕暮れに染まった住宅街を歩いて行きます。
そして美世先生の実家だという家の前までくると、平津先輩と美世先生が立ち止まります。
「私達はいったんここによってから帰るから、みんなは先に帰ってて」
平津先輩も私達に手を振ります。
きっと、明日の取り壊しを見届けるためでしょう。持ち主として。その家族として。
それはこの場に居る全員理解しているので、手を振る2人に何も言わず、別れの挨拶をして、私達は各々の家へと向かい帰っていきました。
道中、石井先輩に昨日の夜のことを香奈先輩が話しました。平津先輩のことを私達に話したという内容を黙って聞いていた石井先輩は、香奈先輩の言葉を全て聞き終えた後
「そうか」
と短く答えただけで何も言いませんでした。
ですが石井先輩がこのことに不快な感情を持ってないことは、その横顔を見ればすぐに分かりました。