温かな抱擁
「そんなことが……」
愛花ちゃんが美世先生の話を聞き終えると、顔を伏せて呟きます。
私も何も言えずにいると、優里奈ちゃんの方から声が聞こえてきました。
「ごめんなさい。私、そんなこと知らなくて、イロイであんなこと言ってしまって」
優里奈ちゃんはみんなに謝罪します。
唯一事情を知らない美世先生だけはよく分からない顔をしていました。
「優里奈ちゃん、イロイで幸くんのこと優しすぎるって言ったの」
香奈先輩が捕捉します。
それを聞いた途端、美世先生は優里奈ちゃんに向かって微笑みました。
「いいのよ。事実なんだから。気にしないで」
「だけど……」
それでも、優里奈ちゃんは顔を上げることが出来ません。
隣の座る私の服をギョッと握って、目には申し訳ないあまりか涙を浮かべています。
私はそんな優里奈ちゃんの手にそっと触れます。
「ごめんね。理子も」
「ううん。いいよ大丈夫。私のために言ってくれたことだもん。分かってるよ」
「ありがとう……」
しばらく優里奈ちゃんは下を向いたまま、自分の言葉を悔やんで涙を流しています。
その間に愛花ちゃんが香奈先輩に聞きました。
「イロイで言ってたことですけど。平津先輩がおかしくなってること、香奈ちゃん先輩も石井先輩も分かってたんですよね」
「うん。分かってたよ」
「なんで分かったんです?美世ちゃんの話だと、平津先輩は誰にも話していないって」
「そんなのすぐわかるよ。だって私達、幸くんの幼馴染だから」
香奈先輩は自分の胸を叩きます。
そしてすぐに、ちゃんとした理由も話してくれました。
「幸くんのお母さんの葬儀があったことは知ってた。一週間ぐらいたって、高校にきてね。心配する私と智弘に幸くんは大丈夫って笑ってくれたの。その瞬間、私達2人は全てを察したよ。無理してるって」
幼馴染だから、小さい頃からずっと一緒だから、相手の表情一つで分かってしまうのでしょう。香奈先輩の石井先輩に対する好意を平津先輩が見抜いたのと同じように、香奈先輩たちにもすぐに平津先輩の笑顔が作りものだと理解できてしまった。
「ああなった幸くんは私達を頼ってはくれない。だから、私と智弘は決めたんだ。いつか、幸くんが頼ってくれるまで、幸くんに騙されたふりをしよう。もし、幸くんがになにかあれば迷わず手を差し伸べるって。それが出来ないようなら、遠くで見守ろうってね」
だからこそ、リビングで泣いている平津先輩を石井先輩は物陰に隠れて見守っていたのでしょう。
だからこそ、石井先輩の言葉で何かを察した香奈先輩は、なにもせず私達についてきて、寝室に入ったのでしょう。
すべては平津先輩のためを想って。
全員が全員、平津先輩のことを想っての行動でした。
「でもそれって、辛くないですか?だって、困っているのに何もできないってことじゃ」
「もちろん辛いよ。私も智弘も、みっちゃんと同じ。もっと頼ってほしい、もっと気持ちをさらけ出して欲しいって思ってる。智弘なんて特にそう。毎日悔しそうにしてる」
今でも泣いている平津先輩を石井先輩が黙って見ているのかもしれません。
それはとても辛いことです。幼馴染が泣いているのに、理由も全部わかっているのに、石井先輩は見ていることしかできないのですから。胸中は悔しさでいっぱいなのでしょう。
「でもね、私達にはもう無理なのよ。初めの一歩を間違えてしまった。幸くんを想うあまり踏み出すことが出来なかったの」
香奈先輩は私を見ます。
「だから、優里奈ちゃんのような相手のことを想ってはっきりと言ってくれる友達って言うのは貴重だよ」
香奈先輩の言葉に、優里奈ちゃんは顔を上げ、香奈先輩の方を見ています。香奈先輩は優里奈ちゃんに笑い掛けました。
「これが幸ちゃんの真実。私達が隠していたこと。どうだった理子ちゃん。理子ちゃんの好きになった幸ちゃんは、こんな問題を抱えているのよ。面倒だって思っても私達は誰も責めない。事実、幸ちゃんの抱えている問題はあなたには関係ないこと。他に好きな人を探すのなら、止めないわ」
そう言った美世先生の言葉を、私は最後まで聞くことが出来ませんでした。
ショックだったのです。美世先生たちは泣いている平津先輩を見てしまった私に向かって、話したくはないはずのことを話してくれました。それは私達を信頼してのことだったのでしょうか。少なくとも、大丈夫だと思った相手じゃなければこんなことは言わないでしょう。
それでも、私には美世先生の言った『関係ない』という言葉にショックが隠しきれません。
きっと、私のことを想ってなのは分かっています。こんな問題を私まで抱えてほしくないのでしょう。
ですが、それに簡単に頷くなんて今の私にできるわけありません。
何故なら、今の私は美世先生の話を聞いてさらに、平津先輩のことを知りたくなってしまっているのです。それこそ、美世先生達が平津先輩のことを想っているように。
私は美世先生を見ます。
まっすぐに、眼差しに確かな力を持って。
「関係なくありません。私は、どんなことがあっても平津先輩が好きです。平津先輩が笑っているのなら隣で一緒に笑いたい。平津先輩が泣いているのなら、私も一緒に泣きたい。辛いのなら優しく抱きしめてあげたい。私はもうそう思ってしまっています」
美世先生や香奈先輩は目を見開きます。
愛花ちゃんや優里奈ちゃんは微笑みながら、私に言葉を聞いていました。
「だから、もう止めようと思っても無理なんですよ」
恋は盲目といいます。だけど、それを優里奈ちゃんが教えてくれたことで、平津先輩のことはどんなことがあっても受け止めようと思えました。
いつも私の味方でいてくれた愛花ちゃんがいなかったら、私は恋心を諦めていました。
そして、美世先生や香奈先輩に想いを聞いた私の中には、確信めいたことが芽生えています。
私は平津先輩が好きです。そして、そんな平津先輩を優しく見守っている周りの人達も大好き。
だから、だから、そんな優しい人達を苦しめるような鎖は解かなければなりません。
人の死はとても辛いことです。まだ、近しい人を失った経験がない私には、どれほど辛いことなのかはっきりとは分かりません。
それでも、今の平津先輩の様に優しかったという平津先輩のお母さんやお父さんは、きっと自分達の死で自分の子供や、友達を苦しませることを望んではいないはずです。
鎖を壊すのに失敗してしまった幼馴染の3人は平津先輩と一緒に絡まってしまっている。だったら、その鎖を壊せるのは、外から来た人でないといけない。
その役目は私なのかもしれないのです。
「ふふっ」
私が覚悟を決めていると、不意に沈んだ顔だった美世先生が微笑みました。
「美世先生?」
不思議そうに見る私の向かい美世先生はごめんなさいねと言いながら続きを話してくれます。
「理子ちゃんがこんなにも自分の意見をはっきり言う子には見えなかったから。珍しくてつい」
「あははは……」
そう言った後、美世先生の顔は引き締まります。
「実はね、理子ちゃんに私は個人的に期待していた部分があったの」
「それって」
「幸ちゃんを、そして私達を救ってくれるんじゃないかって」
「美世先生……」
「分かってるよ。本当は自分達で何とかしないといけなかったっていうのは十分分かってる。それでもね、私が幸ちゃんのこと好きなの?って聞いたときあるでしょ」
「はい」
それは確か私が平津先輩と公園以来初めて出会った時のことです。
「そこで、軽い気持ちなら諦めさせようと思ってた」
美世先生の気持ちは分かります。
重たい過去を持った人を好きになったとして、その過去を知ったら好きでなくなる人は多いです。そこまで背負えないと思うのでしょう。高校生の恋愛はそれだけ軽いものだというのは、お母さんから教わりました。美世先生はそれを危惧していた。平津先輩と付き合うには、家族のことを隠しておくことは出来ません。いつかは話さなければなりません。
その時、彼女になっている人に愛想を尽かされたら、平津先輩はもう一度傷ついてしまう。
美世先生はそんな平津先輩を見たくなかったのでしょう。
だからあの時、私に真剣に聞いてきたのです。
「でもね、幸ちゃんのこと好きですっていった理子ちゃんの目がとても真剣なものだった。てっきり理子ちゃんっておとなしい子だと思ってたから正直驚いたのよ。だけど、同時に、この子ならって思ったのも確か」
「そうだったんですね」
「ええ。もちろん、理子ちゃんがいざという時にどうするか分からないから、話すことは出来なかったし、幸ちゃんが話さなければ話すつもりなんてなかった。いくら泣いている幸ちゃんを見たとしてもね」
「え……でも、今」
私はてっきり平津先輩の泣いている姿を見てしまったから、仕方なくと思っていましたが、今美世先生は私の考えをはっきりと否定しました。
「悲しいことでもあったんだろうって適当に流すことはいくらでも可能だったのよ。写真を見ていたとしても、それが家族写真だと理子ちゃんは分からない思うしね」
「だったらなんで話してくれたんですか?」
「それはね、幸ちゃんがこの家で最後の思い出作りをしたいと言ったときに、私達だけじゃなくて、理子ちゃん達の名前を出したことがきっかけだった」
美世先生は私だけではなく愛花ちゃんや優里奈ちゃんも見ます。
「家族のことに一番触れてほしくないはずの幸ちゃんが、自分に家に私達以外を呼ぼうとするなんて思わなかった。幸ちゃんがどういった思いで理子ちゃん達を呼んだのか分からない。だけど、無意識のうちに、理子ちゃん達は大丈夫って思ってたんじゃないかな。家族の領域に足を踏み入れられても安心できる存在になってたんじゃないかって思うよ」
つまり、平津先輩に本当の意味で信頼させているということ。幼馴染の美世先生達と同じように、平津先輩は私達も認めてくれていた。
その事実に、私も、そして愛花ちゃんと優里奈ちゃんも心があったかくなります。
「だからね、今回のお泊り会に誘う時に決めてたんだ。もし、こんなことがあった場合は話そうって。きっと幸くんは許してくれるんじゃないかってね」
香奈先輩は潤んだ瞳で笑います。
美世先生も同じように微笑んだ後、私の手を取ります。
「理子ちゃん」
「はい」
「幸ちゃんはまだまだ悲しみの中にいる。ずっと苦しみ続けている」
「……」
「それでも、あなたは幸ちゃんを好きですか?そんな幸ちゃんを、あなたは助けてくれますか?私達にはできなかったことを、やってくれるのですか?」
ゆっくりと美世先生は確かめる様に私に言葉を投げかけてきました。
私は全てを聞き終え、一度頷くと美世先生の顔をまっすぐに見ます。
「はい」
私の強くはっきりとした声は、美世先生の心にしっかり届いたようです。
私の手を自分の方に手繰り寄せると、美世先生は優しく抱きしめてくれます。
「幸ちゃんをお願いします。あの子を悲しみの中から救い出してあげてください」
美世先生はそれからしばらく私を抱きしめたまま動くことはしませんでした。私は心地よいなにかに包まれているような安心感に満たされ、いつまでもいつまでも美世先生に抱きしめられたまま、時が過ぎていきました。