他人の嫌がることを
太郎くんが泣いていて
僕は先生に怒られていた
小学校の教室で
蝉の死骸がぽつんとひとつ
「自分がされて嫌なことは他人にしてはいけません」
「はい。それはしていません」
太郎くんはいっそう泣いた
先生は困った顔をした
「少しは他人の気持ちを考えてみて」
「はい。考えました」
「反省した?」
「なにが悪かったのかわかりません」
先生はばんと机を叩いた
僕の大嫌いな威嚇
太郎くんはたびたび僕の嫌がることをした
でも僕は
それは嫌だったのだけれど
太郎くんが僕にそれをすることが嫌だったわけではなかったのだ
太郎くんがそうしてこなければ
僕は自分から進んでそれをやることはありえなかった
一生知ることはなかっただろう
それをしたときの複雑な感情
新鮮な心の動き
つまり太郎くんのおかげで
僕の世界は広がったのだった
飲まず嫌いだった牛乳
食わず嫌いだったにんじん
ごわごわのぞうきん
数字を見るだけで嫌だった算数
手を動かすのも嫌だった図工
冷たい水
苦手な運動
からかわれたときの気持ち
蛙を口に含んだ食感
背中に入った銀杏
砂の味
絶対に自分からなんてやらなかった
でもやってよかったこともたくさんあった
牛乳も飲めるようになった
にんじんはおいしかった
ぞうきんを洗うのもうまくなったし
算数はいまじゃクラスでいちばんだ
きっとそれをする人がいなければ
人間とはなにもできないままだったのだろうと
そう思うから
だからそれは
僕がされて嫌なことではないのだから
「なぜいけないのかわかりません」
嫌なことをなにひとつしない人生とは
なにも成長のない人生だ
変化のない死んだ世界だ
生まれないたまごをずっと
他人の手で温めてもらっているだけの世界だ
アレルギーでもない無知な子供の好き嫌い
そんなものに未来を頼ってたまるか
太郎くんが教えてくれたんだ
だからこんなことで泣くなんて
ぜんぜん思ってなかったんだよ
太郎くんがこんなに脆弱だったなんて
太郎くんがこんなに小さかったなんて
太郎くんがこんなに
死んだ世界にい続けたかったなんて
先生はいよいよ業を煮やして
「他人の嫌がることをしてはいけません!どうしてわからないの!?」
ヒステリックな叫び声をあげた
僕のいちばん嫌な言葉
いちばん嫌な声
大人は止まった世界の住人だ
僕はそれを理解したのだ
さようなら、太郎くん
さようなら、先生
偽りの潔癖症の殻の中で白鳥のふりをしていてよ
空も海も知らぬまま
知らない誰かの温める手だけ求めていてよ
誰かの心を知らぬまま
僕もちゃんと覚えるから
心にもない微笑みと
そしてそっと、手を離すことを




