モノクロラプソディ
今から四百年以上昔、魔界のとある貴族に悪魔の娘が産まれた。深紅の瞳と髪を持った子供だった。魔族の間では赤を持つ者の魔力が強いことから王の色とする風潮がある。そのため両親や魔族は赤子を喜び、称え、崇め『シオン』と名付けた。
そして貴族に生まれた紅を持つ娘には沢山の贈り物が届けられ、言葉すら話せない頃から財と富と名声が保証された。更には高等な教育を施され、明晰な頭脳も与えられた。
だからシオンの手に入らないものは何もなかった。望めば何でも手に入る。人生の勝者と言っていいだろう。そんな少女に羨み、憧れた者はどれだけいた事だろうか。
だが、彼女は与えられたものの大半には触れていなかった。彼女は服や食事といった日常で使用するもの意外は何一つとして箱から出すことすらせず、屋敷の使用人にやったり、生まれつきの炎の能力を操って燃やしていた。
そして皆が気付いた。彼女に与えられた数多くの物の中に彼女から欲しいと言ったものは何一つ無かったと。
そう、彼女は何にも興味がなかったのだ。
その深紅の瞳に何も映さなかったのだ。
彼女の心に欲という言葉は存在しなかったのだ。
部屋の戸がコンコンッとリズムよく叩かれた。
少女は読んでいた本を閉じ服装を軽く整える。
「どうぞ」
そう言うと戸が静かに開かれ、屋敷のメイドが入ってくる。
「シオン様、テトラ伯爵からお品物が届きましたが」
「そう、ならお前にあげる」
「え、いや、しかし······」
メイドは受け取るわけにはいかないと拒否するが、躊躇うメイドの目が一瞬嬉しそうに輝いたのをシオンは見逃さなかった。
「遠慮しなくていい。お前も私が受け取らないと知ってて貰うつもりで持ってきたのでしょう?」
そう言うとメイドの肩がぴくりと動いた。
「い、いえ、そんなつもりは······」
声が震え、顔も青ざめている。
「遠慮しなくていいわ。私はこれがいらない、お前はこれが欲しい。互いに利害は一致するじゃない」
「え、でも······」
「いいから、これからも私宛に何か届いたらここへ持って来なくていいわよ。屋敷の者達で適当に分けなさい」
そう言いながらシオンはメイドの側に歩み寄り、その背を廊下へと押し出した。
「それじゃあね、おやすみなさい」
そう言い残して彼女は部屋の中へと姿を消した。
シオンは振り返り部屋を見回す。視界に入るのは簡素な机とベッドと本棚、そして申し訳程度に置かれたクローゼットのみ。貴族には似合わない殺風景な部屋、それが彼女の世界だった。
机の上に置いた読みかけの本に手を取りベッドに座る。部屋の灯りは消えていていて月明かりだけだが、悪魔は夜目が効く。シオンはパラパラと本を読み出した。
その本はかなり読み込まれており、ところどころに付箋やマーカーが付いている。
シオンに勉強を教えに来る悪魔は人間は邪悪な生き物で凶暴で残虐なため、制裁を加えに悪魔は人を攻撃するのだと言う。しかし、この本には人間は感情豊かで暖かく、迷い、悩み、成長する優しい生き物だと記されている。これはどういう事なのか。シオンは一度も人というものに出会った事がない。本来、人とはどんなものなのだろうか。別に興味があるという訳ではない、ただ何となく、この矛盾の正体知りたいだけなのだ。そう、きっとこれは単なる好奇心だ。
そんなある日、「人間界に行くことのできる泉がこの屋敷の裏庭にあるらしい」とメイドが厨房で会話していたのをシオンは聞いた。
きっとただの噂だろうと思って気にはしていなかったが、たまたま今日の天気がすこぶる良く、たまたま散歩したい気分で、たまたま裏庭に咲いた花が見たくなったから私は今例の泉の前にたまたまいる。
泉の水に触れるが感触は水そのもので、別段変わった事はない。やはり唯の噂だったかと落ち込みながら立ち上がる。が、足を滑らせて後ろへと倒れてしまった。
「なっ!?」
伸ばした手は空を切り、体ごと泉へと落ちた。
すると体はどんどん深くへと沈み、手をバタつかせても浮かぶ事はない。
不味いとは思うがどうにもならず、息が苦しくなった時、体がふわりと浮いた。
目を開けば浮遊感と共に青が視界一面に広がる。見た事のないほど綺麗な碧。
しかし、それも一瞬の出来事でその体は落下を始める。
そう、この碧は空の青だったのだ。
「えっ!?誰かっ!!」
こんな場所で助けを呼んだところで誰か来るわけがないが、叫ぶ他に手はない。万有引力の法則に従い、身体は落下を続ける。
空を向きながら落ちているため下の様子はわからない。岩山だったりしたら悪魔でも即死だ。
そして数秒落ちた後に視界が一気に翠色に染まる。木だ、地面が近い。
シオンは目をギュッとつむった。
ドスッ
しかし、シオンを受け止めたのは硬い地面ではなく、柔らかい何かだった。
「おおっと、」
そして同時に下から声がした。だがそれも一瞬で一秒としないうちにぐらりと揺らぎ、柔らかい何かと共に倒れ込んだ。
「痛いなぁ······」
次は頭上から声が降る。
ガバッと顔を上げればシオンのすぐ側に相手の顔があった。
(男······)
声から何となく予想がついていたが、シオンを抱きとめたのは男だった。
性別がわかると次は男のその瞳にシオンの視線は移る。
(綺麗な瞳······)
男の瞳は光輝を放つ琥珀色をしていたのだ。日の光を反射してキラキラと眩しい。その瞳からシオンは目が離せない。
「ねぇ、大丈夫?」
すると魅入っていた所為かいつの間にか近距離に男の顔があった。
「きゃっ!!」
夢中になりすぎて接近に気が付かなかった。
シオンはズササッと男の上から降りて警戒態勢に入る。
「貴様、何者だ」
そう低い声で言いながらいつでも攻撃できるように手に紅い炎を浮かべる。これは私の悪魔として備わった能力だ。
その動作に驚いた男は、黄金色の瞳を丸く見開き、両手を頭上へと掲げた。
「ごめんごめん、驚かせちゃったかな?俺に戦意はないよ」
「貴様は何者かと聞いている」
「俺はクラマ、この近くの修道院で修道士をしてるんだ」
「修道士······?」
あまり聞き慣れない言葉だが記憶の何処かに引っかかった。
「そっか、その赤毛に黒の翼。君、悪魔なんだね。魔界に修道士なんていないからね。修道士は自分の罪を償い、神に仕える人間だよ」
罪······か。それにこの服装······。思い出した。昔、父上に教えられたな、修道士について。
「禁欲な生活をする人間だったか?」
「ああ、よく知っているね」
「まあな。それと」
シオンの紅の瞳がその深みを増す。
「悪魔の敵ということも知っている!」
そう言って手にした炎を一回り大きくさせた。
「いや、だから俺は君に危害を加える気は······」
「黙れ!私が十数える。そのうちに此処を去らなければ貴様を跡形もなく燃やし尽くす!」
「本気······みたいだね」
それを肯定するようにシオンの目は細められた。
男は黙ってくるりと背を向けて、二、三歩歩くと振り返り、切なげに笑ってからから駆け出した。
男が見えなくなるとシオンの炎はその大きさを少しずつ小さくし、やがて消えた。それと同時に肩の力も抜け、シオンは地面にへたり込む。
緊張の糸がほどけ、一気に疲労が押し寄せる。
何となく太陽を見てみればあの男の瞳と重なった。
「綺麗な瞳だったな」
結局クラマと名乗った修道士の男は最後まで敵意を見せなかった。
だが、いきなり見知らぬ土地に迷い込み、敵と言われている修道士に出会えばああする他に手はない。
「取り敢えず帰らないと」
誰にも言わず出てきたのだ、あまり遅くなると心配させてしまう。
そう思って立ち上がり歩き出して気付く。
「······どうやって帰ればいいの?」
空を見上げると出てきたであろう場所には何の痕跡もない。
彼女は背中に冷や汗が伝うのを感じた。
兎に角、日が沈む前にこの森を抜けなくては。危険かもしれないが男の歩いた方向に行くのが確実だろう。
そう思って深い森の中を一人歩き始めた。
草木しかないため方向感覚を見失いそうになるが太陽の位置を確認しながら出口を探す。もちろん太陽は東から昇って西に沈む程度の知識しかないため合ってるかどうかはわからない。だが、時たま草に、踏まれたような痕跡を見つけて、男の足跡だと信じて歩く。
日がほとんど沈みかけた頃、遠くに建物を見つけた。そこへ向かって駆け出す。
近づくほど大きな建物だとわかる。
そして最後の草木を掻き分け、飛び出せばと夕日の眩しい橙色が視界を埋めて目を眩ませてくる。驚いて目を瞑ればドスッと何かにぶつかり前方へと倒れる。
「あっ、」
「おっと」
しかし転びそうになった体は優しく抱きとめられた。恐る恐る目を開けば、たった一度、それもつい先程見たばかりなのに、懐かしいと思える黄金色。
「ちょっと、君こんな所まで来てどうしたの?」
クラマだ。
また距離を取るべきかと思ったが疲れからかどうしてもそんな気に慣れない。
「······」
黙りこくっているシオンを彼は不安そうに覗き込んでくるが、はっとして顔を離す。
「ご、ごめん······」
何故か距離を取られて傷付いた気がしたがそんな事は今はどうでもいい。
「道に······迷った······」
クラマは数秒キョトンとしてシオンをじっと見つめた。
「えっ?君、魔界への帰り方知らないの?」
「ここへ来たこと自体イレギュラーなんだ。帰り方など知るはずがないだろう」
男は目をパチクリとさせる。
「正規のルートで来たんじゃないの?」
「正規のルート?私はただ屋敷の裏の池に落ちただけだが」
そう言うとクラマはうーん、と唸りだした。最初は顎に手を当てて考え、暫くすると頭を抱え出した。終いにはしゃがみ込んでうーん、うーん、と言っている。
「おい、どうした?」
するとクラマは眉間に皺を寄せたままポツリと言った。
「帰り方、あるけど······」
難しい顔をしながら言われたその言葉。嬉しいが微かに不安が残る。
「けど、何だ?」
「おーい!クラマー、手伝ってくれー!! 」
男を呼ぶ声がそう遠くない所から聞こえる。驚き、硬直したシオンとは正反対にクラマは顔を青くして彼女の手を掴んだ。
「きゃっ」
「ごめんね、ちょっとだけ我慢して」
そう言うとクラマはシオンを抱きしめながら柱の陰に隠れる。
髪の紅に負けず劣らずシオンの頬が真っ赤に染まる。
一方でクラマは緊張していてそれに気付く様子もない。
そうこうしているうちに足音が徐々に離れていく。
「······危なかった」
修道士と悪魔は敵同士だ。クラマは兎も角、他の修道士にシオンが見つかれば殺されてしまうだろう。
だがクラマの焦りを他所にシオンは包み込む優しい香りにドキドキしてそれどころではなかった。他者との馴れ合いを極力避けてきたシオンにとって異性とのこんな状況など初めてでキャパオーバーしそうだ。
クラマの胸をドンドンと強く叩く。
「あっごめんね?もう大丈夫みたいってうわっ顔真っ赤!!苦しかったよね?大丈夫?」
「べっ別に······そんなことより早く私を魔界に帰せっ」
赤くなった顔を見られないように俯きつつそう尋ねる。
すると男は再びうーん、と唸りながら言いにくそうにしている。
「そんなに大作業なのか?」
「いや、やる分にはとても簡単なんだ。だけど俺の使い魔になってもらう必要があるんだよね」
「え?」
「普通悪魔はあちら側とこちら側を行き来する時に魔界で通行手形を発行してもらうんだ。そうすれば呪文を唱えるだけで帰れる。だけどその正規のルートを使わずにこちら側に来ると強引な手段しか残って無いんだ。今の所可能とされているのは使い魔だけ。使い魔なら俺が帰るように命令すれば扉が開いて強制的に帰される」
「こう、もっと簡単な方法はないのか?」
「ないよ」
「わかった、それで魔界に帰られるのなら契約しよう」
「えっ!?そんな簡単に契約しちゃう?」
「屋敷の者たちが心配するから私は早く帰りたい」
悪魔が人間の使い魔になるという事は、人間に屈服することに同義。プライドの高い悪魔は人間の下に付く事を良しとしない。ましてシオンのような王の色である紅を持った者が使い魔などあってはならない事だ。
だからクラマはこの言い出しをシオンが拒否すると思っていた。
しかしそのような考えはあっさりと裏切られる事になってしまった。
「むしろお前はいいのか?」
何にも興味がないシオン。それは己にも当てはまることで、使い魔になるかどうかなど大した問題ではない。そんなことよりも修道士などという神聖な職業に身を置きながら悪魔を身の内に飼おうとしているクラマの方が重要だと思っている。
その問いに少し考えながらクラマは口を開いた。
「悪魔も人間も等しく神から命を与えられた生き物だから、俺は悪魔を敵とは思わないよ。それに人間は時に悪魔以上に無情で残酷だからね」
どこか含みのある言い方だ。だがシオンにはそれ以上追求する理由がない。
「だから俺は悪魔とか気にしないからさ、俺と契約して使い魔になってよ」
「ああ、わかった」
そうとわかれば二人は早速行動に移す。シオンは昔読んだ、人間との契約について書かれた本を思い出しながら人差し指を口に含み、指の腹に歯を立てる。すると彼女の瞳と同じ赤い血液がぷくりと現れた。
隣を見ればクラマも同じように赤を親指に浮かべシオンに差し出す。
シオンとクラマの紅の滲んだ指が重なる。
「「ーーーーー。」」
二人が契約の呪文を交わす。すると重ねた傷口から互いの血液が行き交う感覚がした。指先にジンジンとした熱が帯びる。
「悪魔シオン。私を主とし、その血を分け誓約せよ」
クラマがそう言うと指先の熱が全身に回った。二人の身体が赤い炎に包まれる。
「っ······」
体内にクラマの血液が流れ込んで来るのがわかった。同時にシオンの血液がクラマへと流れ出ている事も。
「人間クラマよ。私はお前の僕となることをこの命をもって誓約しよう」
そういうと炎が徐々に消えてゆく。
「これで······契約成立なのか?」
「たぶんね。俺のうなじの所見てみなよ。黒い紋章が付いてるから」
そう言われて覗いてみると、確かに黒い色をした花がある。
「そう、これが契約······」
「うん。こんな事になってごめんね」
彼は申し訳なさそうに言う。
「違う、巻き込んだのは私だ」
「なら、僕と君が出会ったのは神の導きさ」
彼はそう優しく微笑みながら言った。
「それじゃあ君を向こうの世界に返そうか」
そう言うと彼はシオンの額に手を当てて呪文を唱えた。
「ーーーーー。」
するとシオンの体は明るい光に包まれて静かに消えた。
再び目を開けた時シオンは屋敷の泉の前にいた。無事に帰されたのだ。
暫くその場に立ち尽くしていると屋敷の方から使用人がとたとたと駆けてきた。
「シオン様っ!こんなところに居られたのですか!皆探しています!早く屋敷に戻りましょう!」
「ええ、気分転換に少し散歩をしていただけなのだけれど、心配かけてしまったようね」
そう言いながらシオンが笑うと使用人は目を少し見開いた後、嬉しそうに「ほら!戻りましょう!」と言った。
シオンは夕食を済ませて部屋へと戻るとそのままベッドへ倒れ込む。今日一日の事を思い出しながらうなじにそっと触れる。
「······契約」
流れのままにクラマと契約してしまったが後悔はない。
どうせもう会う事もないだろう。
契約はあくまで手段だった。彼はどうやら悪い人間ではなさそうだし、無理な要求をしてくる事もない······と思う。
クラマの顔を思い出す。
とても綺麗な瞳だった。
できる事ならもう一度······。
「もう一度、何だ?」
たった一度会っただけだ、契約してくれた事に感謝こそすれ、他に何も思う事はない。
じゃあ何故?
「何故私は会いたいと思っている?」
これが彼女が初めて無自覚に現した欲という感情だった。
* * *
晴れた日の昼下がり、クラマは修道院の庭掃除をしていた。
午後の日差しがとても気持ち良くて、動いていなきゃうたた寝をしてしまいそうだ。
するとガサガサと茂みが動いた。
ハッとして振り返るとそこには一羽の兎。期待していた人物ではなくクラマは落胆する。
そんなクラマを知ってか知らずか兎は足元に擦り寄ってくる。ふわふわした白い毛並みがとても魅力的でついついしゃがみ込んで触ってしまう。ああ、幸せすぎる。
そのまま抱き上げると兎の顔と見つめ合う形となった。するとその瞳は赤い色をしていることに気付く。あの子の瞳と重なる。
ちょうど一週間前に森で出会った少女。名前は聞かなかったが契約した時に言葉として知らないはずの『シオン』の名がスラスラと出てきた。
森で出会った時は警戒心が丸出しな猫のようだったが、森を一人で歩いて寂しかったせいか次に会った時は大分丸くなってて面白かった。
だが最初に突き放された時はかなりショックだった。その時既に俺は宝石のような赤い瞳に魅了されていたのかもしれない。だからまた会えた時はとても嬉しくて、断られるのを覚悟で契約なんて言葉を出してしまった。しかし彼女は抵抗もなく受け入れてくれた。嬉しいと同時に彼女にとっての契約はその程度のことなのかと少し落胆した。
そうこう思い出していると猫のようなあの子にまた会いたくなってきた。契約を利用すればいつでも会えるがそれは彼女の意思に反してでも連れてくる形になるからその手は使いたくない。もう会えないのかもしれないと思い、寂しくなる。
「おい、来てやったぞ」
ほら、幻聴まで聞こえてくる始末だ。それに幻覚まで。視界に赤が映るはずのないあの子の紅が見えてしまう。
「······聞こえているのか?」
ぐいっと肩を引っ張られ至近距離にあの瞳がある。
「シオン······ほん、もの?」
でも、あの子は出会った時、顔を近づけたら逃げてしまったではないか。やはりこれは俺の······
「クラマ」
ああこの紅は本物だ。
* * *
クラマと別れてから一週間、彼に会いたいという気持ちは薄れることはなく強まるばかりだった。
そのことばかり考えていたせいか、シオンはいつの間にか泉の側にいた。水に映る自分の姿。どうしようか、などと考える前にシオンは躊躇なく水の中に飛び込んでいた。
今度は空から落下することはなく、空中を漆黒の翼でホバリングしてからゆっくりと地面に着地した。辺りを見渡せばすぐ側にあの大きな建物を発見した。誰にも見つからないように彼に駆け寄れば、腕に白い兎を抱いていた。
「おい、来てやったぞ」
そう声を掛ければ私を見ても何処かぼんやりした表情をしていた。私のことを忘れてしまったのだろうか。
ズキリと何故か心が痛んだ。
「······聞こえているのか?」
声が震えないように、精一杯言葉を発したが私をじっと見つめる以外に何もしてこない。おかしい、クラマはこんな人間だったか?
「シオン······ほん、もの?」
不安になったとき、クラマが名前を呼んできた。どうやら忘れられてはいないようだ。
「クラマ」
名前を呼んでみるとクラマは抱いたまま駆け寄ってきた。
「シオン!久しぶりだね!」
琥珀色の瞳を細めながらクラマは笑顔でそう言った。
琥珀色は私を忘れてはいなかった。
* * *
「シーオン!今日はチーズケーキ作ってきたよ!」
「本当か!?」
クラマは微笑みながらシオンに小さい袋を差し出した。
あれからひと月、クラマとシオンは会う度に何かと次の約束を取り付けては会っていた。もちろんシオンは正規のルート、ではなくやはりあの泉から来てクラマの呪文で帰っていく。クラマは一度正規のルートでおいでと言ったが手続きが面倒だと言って拒否された。
「美味しい!」
そんな日々の中でクラマがお菓子を作ってシオンに持っていくのが恒例となっている。ことの切っ掛けはお菓子を食べた事がないというシオンの言葉から始まった。何にも興味のなかったシオンは屋敷のコックから与えられた食事以外摂る事はせず、贈り物のお菓子は直ぐに捨てていた。それを知ったクラマは、次に会うときにクッキーを作って行った。恐る恐る口にしたシオンは目を輝かせてもう一つとクラマにせがんできた。それに気を良くしたクラマは教会の孤児用にお菓子を作りつつ幾つかをシオンに分け与えるようになった。
「クラマー、今日は何をするんだ?」
「修道服のほつれ直しだよ」
クラマはいつも仕事をサボれないと言って何かと仕事道具を持ち込む。なんでも修道院の上司が煩いそうだ。
それを眺めながらシオンはクラマによりかかって午後の眠りへと今日も誘われる。そんな幸せな日々が続いていた。
そんなある日の事だった。シオンがクラマに合うと彼の顔に大きな痣が一つできていたのだ。それは青紫色に変色していて痛そうだった。どうしたのかと聞けば彼は何でもない、転んじゃったんだと言いながらシオンにお菓子を差し出していつも通りに一日が終わった。
だけど、その日から少しずつ彼とシオンが会う頻度は減っていった。いや、クラマによって減らされていった。それに比例するように、クラマの身体に傷が目立つようになった。
「クラマ、大丈夫?」
「うん、何でもないから、ね?」
シオンは逸らされた琥珀の目から嘘だ、と悟った。何でもない訳がなかった。
気になったシオンは何の約束もしていない日にこっそりとクラマの元を訪ねた。窓から修道院の中を覗く。シオンが来ている服と似たものを着た男達が廊下を歩いていくのが見えるがクラマの姿はない。ダメかと思い、いつもクラマが休憩に使う場所に向かった。彼は必ずそこを訪れるからそこで待っていれば彼に会えると思ったからだ。しかし、そこに近付くにつれて鈍い音が聞こえてきた。そして、それが打撲音であり、人の呻き声と怒鳴り声である事に気がついた
「この悪魔使いが!!とっとと悪魔を呼び出せっ!!」
「嫌です!!貴方達にあの子は渡さない!!」
そして、呻き声はクラマのものだった。そう気付いた時にシオンは駆け出してその場所へと駆けつける。
そこには五人の修道服を着た男達がボロボロになったクラマを囲むように立っていた。
「クラマ!?」
そう叫ぶとそこにいた全員が弾かれたように振り返る。どの男達もフードを目深に被っていて顔がわからない。兎に角、クラマの手当てをしなければと彼に駆け寄ろうする。
「来るな!シオン!」
すると一番近くにいた男がシオンの腕を掴んだ。
「なっ!?離せ!!」
「おいおい、これがお前の使い魔か?王の色した悪魔じゃないか、こりゃあ最高だ。早速司祭様の元に連れて行かねば」
抵抗すると男の手の中で銀のナイフが煌めきながらシオンへと向かってきた。
「シオンっ!!」
クラマの絶望的な叫び声がする。しかし、それを妨げるようにゴウッとシオンの赤い炎が燃え広がり、男達を燃やす。熱い、助けてと男達から悲鳴があがる。それを無視してシオンはクラマを抱え上げて黒い翼を駆使して空高く飛び去った。
「クラマ!!これはどういう事だ!?」
修道院の森の奥の奥、誰にも見つからない場所に二人はいた。
クラマの服を全て脱がしてみればどこも痣だらけで、中には火傷したような跡さえある。綺麗な皮膚を見つけるのが困難なほど皮膚が変色していた。
それを見られたクラマは切なそうな顔をした。
「シオン、もう会うのやめよう」
一方的に告げられた別れの言葉をシオンはしばらく理解できなかった。
「クラマ、何言って······」
「奴らの狙いは君だ」
クラマ曰く、ある日着替えていた時に、うなじの契約の印が修道院の人たちに見られてしまった。するとその話は瞬く間に広がり、何やら怪しい事をしていた上司達が悪魔を出せとクラマにせがんできた。過去に彼らが猫などの生き物を使って残酷な実験をしていた事は聞いている。シオンを渡せば彼女にどんな酷い事をされるかわからない。シオンの召喚を拒否すると毎日暴力を振るわれ、今のように酷い怪我を負わされるようになってしまったのだ。
「シオン、もうこっちへ来たらダメだ。君が赤い事が奴らにバレてしまった。奴らは本気で君を捕らえにくるよ」
「そんな······私クラマに会えなくなるのは嫌だ」
「シオン······ごめんね」
「ねぇっクラマ!!待って!!」
「ーーーーー。」
クラマは静かにその口に呪文を唱えた。シオンを魔界へと帰す呪文だ。
眩い光を放ってシオンは森から完全に姿を消した。
「クラマっ!?」
魔界へ帰ってきた瞬間、振り返って後ろの泉へと飛び込む。しかし泉は唯の泉になっていた。冷たい水の感触がして、服が水を吸って重くなっただけだった。きっと主の権限でクラマがシオンを人間界に来れなくしたのだろう。そう知ったとき冷たい何かがシオンの頬を伝う。次から次へと伝うそれ。手で拭うととてもしょっぱい味がした。
しばらくしてびしょ濡れになって泣いているシオンを見つけた使用人が慌てて屋敷へと連れ戻った。
それからシオンは自室へと引きこもった。誰が来てもその扉を開けず、何も口にしなかった。暗い部屋で一人、泣いていた。
部屋をコンコンとノックする音がする。
「シオン様、お父上がお戻りになられました」
「そう」
シオンの父は次代魔王の親として魔王に仕える由緒ある仕事に就いている。そのためかいつも家におらず帰ってくるのは数ヶ月に一回だ。
「シオンどうした?お前部屋に引きこもってるそうじゃないか。何かあったか?」
そう言いながら父は容赦なく部屋の扉を開けた。その事に驚いているシオンとは対照的に父は厳しい顔をしていた。
「おい、シオン。貴様誰と会っている?」
背中に冷汗が流れた。父はとても鼻が利く。人間の、クラマの香りがばれたのかもしれない。
「別に······」
「嘘を言うな!!これは天使の臭いだろう!?」
天使?違う、シオンが会っていたのは人間のクラマだ。天使ではない。そう分かっているのに胸がざわざわとして不吉な予感がする。
父親がツカツカとシオンに歩み寄り、首を掴んで下を向かせる。そこにあるのは契約の紋章だ。
「やはり!!この紋章は悪魔と天使が契約した時にできる紋章ではないか!!」
どういう事?クラマが天使?そんなはずがない······。
「わ、私何も知りません······」
「ふん、粗方天使に騙されたってところか。態度が軟化したと聞いて楽しみに帰ってきたがこんなことになっていたとはな!!おとなしく地下牢で反省していろ!!」
そう言い放って使用人に何か命令しながら父は部屋を去っていった。
暗くて冷たい闇がシオンを包む。
シオンは今、屋敷の地下牢にいる。ここには一日に二回、食事を運びに使用人が来る以外は何も変化が訪れない。地下牢に光は一切差さず、夜目のきくシオンでも何も見えない。だが、暗く深い闇は考え事をするには丁度いい。クラマは人間と天使どちらなのか、その事をシオンは地下牢の中で何日も何日も考え続けた。
もう地下牢に来て何日経ったかわからなくなったある日だった。いつも通り使用人が食事を運びに来て少しした時に突然地下牢でシオンの体が光り出した。これはクラマがシオンを魔界へ返す時に現れる光と全く一緒だと気付く。突然の出来事に目を白黒させながらクラマに会えるかもしれないと期待してゆっくりと瞼を閉じた。
「おい!!貴様ら!!やめろっ!!」
シオンが再び目を開いたとき、悲痛な叫び声が聞こえてきた。クラマの声だ。
何故か暗い地下牢から出てきた筈なのにまた暗い部屋にいる。だが、部屋の奥に燭台があり、微かな灯りがあるため完全な暗闇ではない。それでもその光だけでシオンは十分に部屋の中を見回す事が出来た。そして直ぐにクラマを見つけた。しかしその姿は最後にあった時とは全く別物だった。痩せ細り、琥珀の瞳は色を失っている。そして何より彼方此方に血が滲み、早急に手当てが必要だ。
駆け寄ろうと立ち上がると首がぐいっと後ろに引かれた。鉄の冷たい感触がする。鎖だ。
「ようこそ、王の色を持つ赤き悪魔よ」
修道服を着た男がシオンに声をかける。その他にも修道士らしき男が七人ほど。
「貴様のような王の色をした悪魔の肝を食べれば永遠の命を手に入れられるらしい。貴様の心臓を私達に寄越せ」
男がそう言い放つとシオンの体は金縛りにあったかの様に動かなくなった。足元を見れば複雑な魔法陣が複数形成されている。
「やめろっやめろぉぉ!!」
クラマの悲痛な叫びを無視して銀に煌めくナイフがシオンの胸に刺さる。まさにそのときだった。
「やめろと言っているだろう?」
純白の翼がシオンを包み込んだのは。
「ははっ神に頼まれてこの修道院の監視をしていればこの有様、なんと愚かな事か」
翼の奥へとさらにぐいっと引き寄せられる。すると姿勢を崩して何かによしかかる形となる。見上げればクラマの顔がありそこが彼の胸の中だと知る。
だがその琥珀の瞳は沸き立つように輝いている。綺麗を通り越して異常だ。
「神に仕える身でありながら、このような愚行を犯した貴様らにもう用はない。この罪、命をもって償え」
クラマの翼に視界を遮られる。すると肉を切り裂く嫌な音が部屋に響いた。
男達が悲鳴をあげる。クラマが容赦する様子はない。ギラリと次のターゲットに視線を寄越す。シオンがクラマの瞳を見ると琥珀のそれはギラギラと光って冷静さを欠いていることが見て取れる。
「クラマ!やめて、クラマ!!」
目の前で繰り広げられる残虐な行い。シオンがクラマの胸をドンドンと強く叩くがそれを無視して再び嫌な音が響いた。シオンの目は熱くなり、やがて涙が溢れ出した。
「クラマっクラマぁぁ!!」
その訴えにようやく気付いたクラマは慌てて手を下ろす。そして瞳をゆっくりと伏せた。
「シオン、ごめんね、怖かったよね」
次に目を開けた時、クラマは元に戻っていて、優しい手つきでシオンの頭を撫でる。
「もうしないよ。······おい、お前達。早くこの部屋から出て行け!」
その声に出し弾かれた様に男達は外へと飛び出した。床へと二人は腰を下ろす。純白の翼はシオンに覆い被さったままだ。部屋にながれる沈黙、それを破ったのはシオンだった。
「クラマは天使なの?」
クラマは小さく頷いた。
「シオン、俺たちが人間じゃないからこんなことになるのなら、いっそこんな翼切り落としてしまおう?それで二人でずっと一緒にいよう」
それはシオンにとってとても魅力的な誘いで、微笑みながらその手を取った。
その後しばらくして、森の奥に一つの小さな家があり、そこには赤い髪をした女の子と黄金色の髪をした男の子が仲睦まじくくらしているという噂がひっそりと街に流れた。