エドワード・エルスペルグ
へその緒を切られ、清廉な布で包まれている赤ん坊は泣き疲れたのか、今はすやすやと眠っている。「可愛らしい女の子ですよ」と言って宮廷付の産婆が、赤ん坊を差し出す。おっかなびっくり受け取ったアドルフ・フォン・エルスペルグはまだ小さな我が子に、ふっと笑みをこぼした。ふっくらとしたそのほっぺたを指ですっと撫でてみる。
上質な絹を思わせるするりとした感触に、アドルフは少しばかり目を見開く。剣で出来たタコや長年の苦労でカサついた自分の手とは違う、少しでも力を込めれば壊れてしまうのではないかと思わせる肌の、なんと柔らかく、なんとなめらかなことか。
「良くぞ、良くぞ産んでくれたな、リリー」
傍らのベッドで横になっている正室のリリーに声をかけた。それまでは目を細めて我が子を抱き上げる夫の姿を眺めていたリリーが不意に、
「アンナの子は……?」
『アンナ』というのはアドルフが側室として娶った娘であり、アンナとリリーは同時期に妊娠し、ほぼ同時に陣痛に見舞われた。貴族の出であるリリーと違って、アンナはアドルフが統治するクロノ王国の一般階級の一般的な町娘にすぎない。
アドルフとしては二人の距離が気になるところだったが、普段からのリリーの口ぶりと今しがたの言葉から推察するに、互いを気遣う間柄程度にはなっているようだ。
それとなく安堵の息を漏らしたアドルフは、赤ん坊を産婆に預けると、リリーの手にそっと自分の手を重ねた。赤ん坊のそれとはまた趣の違った肌のなめらかさが指先に伝わってくる。
「まだ産まれてない……だが今は気にするな。元気な赤ん坊を——それも見たところ龍神の加護を持つ赤ん坊を産むという大役を果たしたのだ。なんの心配もない」
「はい」
重ねた手に微かに力込めると、リリーが口元に笑みを浮かべた。その目尻に光るものが滲み出すのを見、それとなく目を逸らしたところで盛大な音と共に部屋の扉が開いた。
「陛下! 国王陛下!」
入ってきたのは宮廷魔術師のレイモンド・マドックだ。どうした、と問う声を出す前に「アンナ様が!」と続けられた声が空気を一気に締め上げた。悪い予感が胸をざわつかせるのを感じ、すぐ戻ると言い置いたアドルフは、リリーが頷くのを待たずに走り出していた。
出産は各人に当てられた部屋で行われることになっており、アンナの部屋は五階にあるリリー部屋より二つ下の三階にある。
「遠いな……」
出産なのだからせめて隣の部屋でやらせるべきだったか。いや、降りるならまだともかく、膨らみきった腹で二階分の階段を登らせるのは酷だろう。
アンナのみならず腹の子に何かあったら、それこそ事だ。詮ない思考を垂れ流し、レイモンドが続く気配を背中で感じながら階段をいくつか抜かして降りていく。
「アンナ!」
「国王陛下……!」
唐突に入ってきた国王の姿にたじろぐ産婆は無視して、ベッドに横たわるアンナの傍に立つ。
「アンナ……」
遅かった。そう思うほどに静かな顔つきだったが、一瞬震えてから瞼が開き、その下の瞳をアドルフに向ける。
「陛下……」
細く、頼りない声だった。
「男の子、でした……良かった、これで陛下のお役に立つことができました」
そう言って笑ったアンナは至極幸せそうで、死の淵に瀕している己の身を理解しているのかは判然としなかった。
遅れて部屋に入ってきたレイモンドに、確認の意味も込めて問う視線を飛ばす。レイモンドは真っ直ぐに視線を受け止めると、ゆっくりと顔を横に振った。アンナに視線を戻す。
「……陛下」
「なんだ?」
「ひとつ……わがままを、聞いて頂けますでしょうか」
わがまま。妻に向かい入れてからも自分のことを陛下と呼び続けた彼女の口から、そんな単語が出てきたことは、今まで一度足りともなかった。
——ならば、最後くらいわがままを聞いてやろうではないか。
「言ってみろ」
アンナは安堵したようで、どこか勝ち誇ったような表情をしてみせると、一段と小さくなった蚊の鳴くような声で言った。
「エドワード。この子の名はエドワード、と」
拍子抜けしなかった、といえば嘘になる。身の丈に合わない生活を一介の王のわがままにより強要され、子を産み、あまつさえこうして死に瀕しているというのに、最初で最後のわがままがたったそんなこと——我が子に名前をつけることだったなどということを誰が信じられよう。
「エドワード……『富と幸運を持つ守護者』、次期領主にとってこれ以上はないほど良き名だ」
応えて、鼻の奥がつんとするのを感じ、アドルフは愕然とした。他者と共振する心などとうの昔に捨てたはずの自分が、たった一人の娘に泣く? そんなバカな。感情の波を吹き散らす意味も込めて、アドルフは「レイモンド」と気持ち大きめの声を出す。
「聞いたな。この子——次期領主の名はエドワードだ」
「は」
胸に手を当てて軽く腰を曲げたレイモンドを見、産婆の腕に収まる赤ん坊、もといエドワードを見、笑みをたたえるアンナを見たアドルフは、アンナに手を伸ばす。ほうほうの身体にも関わらずアリルも片手を持ち上げ、アドルフの手を握ろうとする。
「良かっ……」
そしてまさに、その手が互いに互いを触れ合わんとするその時、アドルフはアンナから魂が抜けてゆくのを見た。
根幹を喪った器からは血を巡らせる力も、筋肉を支える力も失せ、心もち上がっていた腕が、ぱたと音を立ててシーツの上に落ちる。慌ててアンナの顔を見ると、美しい碧を湛えていたはず瞳は色を失くし、ただのガラス玉と化していた。
部屋に沈黙が降る。誰も声を立てず、息さえも押し殺してもはやただの肉となったアンナ"だったもの"を見つめた。どれくらいそうしていただろうか。
母が死んだのを感じ取ったのか、ぐずり始めたエドワードの声で飛んでいた意識を現実に引き戻されたアドルフは、機械的にアンナの手を胸の上で重ね合わせ瞳を閉じさせてやった。
「丁重に葬るように」
明日には跡継ぎが産まれることを祝う、祝賀祭が始まるだろう。それまでアンナの死は発表しない方が良いだろう。祝賀祭は国民にとっても一大イベントのひとつであり、それは多大なる経済効果をもたらす。
現在の国の雰囲気を顧みても、それに水を差すようなことは国民にとって、国にとって好ましいことではない。壁の一部となって控えていた女中に言い置いたアドルフは、それを潮に部屋を出た。
国民へ発表する際の原稿の作成。ちまちまと進めていた祝賀祭の準備の総まとめ。やることはごまんとある。だがまずは——
「レイモンド」
「ここに」
相変わらずすぐ後ろに付いているレイモンドを横目で見やり、周りに人影がないことをざっと走査してからようやく口を開く。
「どうだった?」
なにが、という主語が抜けた問いだったが二人の間ではその主語は自動的に補完される。レイモンドは口元を吊り上げたのも一瞬、神妙な顔つきになってただ一言。
「成功です」
それを聞くだけで充分だった。アンナには悪いが、これはクロノ王国を救うためだ。近年その力を増し、我が王国に黒い影を落としつつある存在から守るための手段なのだ。
「これもわがまま、か」
小さく呟き、こうとしか生きられない自分を嗤った。目尻で一滴の汗が結露する。身の内から湧いた汗は、まるでアドルフ自身を慰めるように確かな熱を持ってアドルフの頬を撫で、滑り落ちていった。