巻ノ八拾九 止まない雨 の巻
大作とメイは青左衛門に別れを告げると日が暮れる前に帰路に就いた。
メイが不思議そうな顔をしながら口を開く。
「ねえ、大佐。鉄ってどうして変な臭いがするの?」
「触る前の鉄は臭く無いだろ。何でだと思う。自分で考えてみ」
掌の臭いを嗅いでいたメイの顔がぱっとほころぶ。
「もしかして手の臭いなの?」
「良く分かったな。この変な臭いは鉄イオンと汗が反応して作られた有機化合物やホスフィン類なんだ。だから手袋して持てば鉄臭くなったりしないぞ」
「てぶくろ?」
メイが首を傾げている。
木綿糸が手に入ったら軍手を作ろう。大作はスマホの予定表に書き込む。期限は冬に間に合うようにだ。
他愛ない世間話で時間を潰すうちに材木屋ハウス(虎居)へ着く。メイと一緒に夕飯を作って食べる。
何か失敗する可能性を見落としていないだろうか。大作は必死に考えるが何も思い付かない。それが却って不安感を煽る。
「何だか嫌な予感がするぞ。失敗に繋がるミスを見落としていないかな?」
「大佐がそんなに思ひ弱るなんて珍しいわね。雨でも降らなきゃ良いけど」
「俺の危機管理能力を舐めるなよ。学校がテロリストに襲撃されるシミュレーションを脳内で何百回やったと思う」
大作は無理してドヤ顔を作るが内心は心配でしょうがない。鉄砲は脳内テロリストと違って接待プレイなんてしてくれないだろう。
そんな心の内を読んだのだろうか。メイも真剣な表情になる。
「四人のうちの誰かが急に具合が悪くなったりしないかしら。腹を下したり、熱を出したりするかも知れないわね」
「良く気が付いたな、メイ。急な体調不良で一人欠けたら三人でやらねばならん。でも、俺やメイも鉄砲を撃てるぞ。手順の変更で対応可能だな。まあ、事前の心構えがあればいざという時に慌てずに済むか」
一つ失敗の可能性に気が付いたので大作は少しだけほっとする。だけどこんなんじゃあ安心するにはほど遠い。スマホの中を探し回ってリスクマネジメント手法に関する情報を見つけた。
「メイは金山の警備責任者だろ。この機会に危機管理について勉強するのも悪くないな。企業が直面するリスクは財産損失のリスク、収入減少のリスク、賠償責任のリスク、人的損失のリスク、ビジネスリスクの五つに大別されるらしいぞ。そうは言っても今からリスクの除去や軽減は無理だな。となるとリスクの保有や移転といったリスクファイナンスかな」
「りすくふぁいなんす? それってどういうこと?」
「リスクの保有ってのは損失を自己資金で補填することだ。積立金や引当金みたいな準備金、利益の内部留保金。ようするにアキラメロンってことだな。リスクの移転ってのは損害を他人に押し付けることだ。各種保険、共済、基金なんかだな。今回の場合は弥十郎や青左衛門に責任を押し付けろってことか」
そんなことできるんだろうか。手柄は自分に、責任は他人に。そういうのはモラルハザードの原因に……
いやいや、全然違うぞ。誤用されることが多いけどモラルハザードって言うのはインセンティブ効果のことだ。たとえば火災保険に入ったせいで安心し過ぎて、火の不始末を出すような。
「そもそも俺たちは鉄砲屋になりたいわけじゃ無い。今回の手柄で鉄砲開発の責任者に任命する、とか言われても迷惑なだけだ。鉄砲を作った手柄は工藤様と青左衛門殿にくれてやろう。その代り、失敗した場合の責任も連中に取って貰う。お披露目の前に少しだけ時間を頂いて若殿にそこんところを念押しして置こう」
「それが良いわね。でも、そうすると明後日からは何をするつもりなの?」
何が嬉しいのか知らんけどメイはニコニコしている。ちょっと気が緩んでるんじゃね。大作の心配がまたもやぶり返す。
「それは終わってから考えよう。今は明日のことに集中するんだ。絶対に気を緩めるなよ。ヒューマンエラーって奴は手順に慣れた頃に起こる。初心に帰って指差し確認、声だし確認を徹底してくれ」
「分かったわ。頑張れ! 頑張れ! 出来る! 出来る! 私たちなら絶対出来る!」
二人で筵に包まって床に就く。本当に大丈夫なんだろうか。大作はその夜、なかなか寝付くことができなかった。
「大佐、起きて! 大変よ!」
メイの大声で大作は叩き起こされた。まだ暗いぞ。何時だと思ってるんだ。眠い目を擦って起き上がった大作の耳に大きな音が飛び込んで来る。
「凄い雨が降ってるわよ。雨衣なんてあったかしら?」
「しまった~ 今日は西暦だと六月一日だ。きっと梅雨に入ったんだな」
「つゆって五月雨のことよね」
とんでもないことになったぞ。大作は頭を抱え込む。って言うか何で雨を想定していなかったんだろう。危機管理能力が聞いて呆れるな。
そう言えば、メイが『雨でも降らなきゃ良いけど』って言ってたっけ。もしかしてこいつ雨女なのか? まあ、責任追求は後回しだ。まずは現状の打開策を考えねば。
良く覚えていないけど先週、お披露目を企画した時に雨天決行って言ったような言わなかったような。大作は自分の記憶に全く自信が持てない。
鉄砲は雨が降ったくらいで使えない欠陥兵器だと思われるのは宜しくない。
でも、風が吹いただけで遅刻したり、雨が降ったら休んじゃう人だっているくらいだ。意外と多目に見てくれるかも知れん。
とは言え、雨の中で見事にテストを成功させれば大きなアピールになる。
それに、梅雨に入ったということは当分は雨の日が続くかも知れない。順延するにしたっていつになるか分からん。
だけど、そう単純な話なんだろうか。この時代、鉄砲の弱点が雨っていうのは世間の常識だったはず。安易に解決して敵にコピーされるのは避けたい。ミニエー弾と同じだ。
だからと言ってわざと失敗するのもアレだな。分からん。大作は考えるのを止めた。
「適当にやってみるか。もし失敗しても、雨天下での貴重なテストデータにはなるだろうし」
「そうね。それに、今日やっちゃえば明日には帰れるわよ」
メイも同意見のようだ。夕飯の残りを暖めて大急ぎで朝食を済ませる。
降りしきる雨の中、まずは青左衛門の鍛冶屋を目指す。
大作は愛用の菅笠を被り、メイにはゴアテックスのレインウエアを着せる。
「この着物は何でできてるの?」
「よくぞ聞いてくれました! ゴアテックスはポリテトラフルオロエチレンを延伸加工してポリウレタンポリマーと複合化して作るんだ。一平方センチに十四億個も小さな孔が開いてるんだぞ」
「孔なんて開いてないわよ。水も通らないし」
「そこが凄いんだ。水は通らないけど水蒸気は通る。不思議だろう」
大作は精一杯のドヤ顔を作るがメイはぽか~んとしている。やっぱり感心してもらえなかった。まあ、この時代の人間なら使い慣れた簑の方がよっぽどしっくりくるんだろう。
そんなことを考えながら歩くうちに鍛冶屋に着く。心配そうな顔をした青左衛門が出迎えてくれた。
「酷い大雨にございますな、大佐様」
「左様ですな。ですが、これくらいで慌てておっては戦場では役に立ちませぬ。今より大急ぎで雨の中でも鉄砲が使えるよう支度いたしましょう。手伝いをお願いできますかな?」
「何なりとお申し付け下さりませ」
この鉄砲には雨覆いが無い。だが、火花が目に飛ばないように取り付けたカバーが火皿を雨から守ってくれる。そうなると火縄を雨から守るカバーだな。
大作はネットで見かけたイラストを思い出す。革製の箱みたいなフードを火挟や火皿の辺りに取り付けていた。あんなんで何とかなるんだろうか。
薩英戦争の薩摩藩士や上野の彰義隊だって嵐や大雨の中で銃砲を撃ちまくっていたはずだ。為せば成る、為さねば成らぬ何事も、成らぬは人の為さぬなりけり!
いや、あれって雷管式のゲベール銃かな? どうでも良いけどゲベールってドイツ語で銃で意味じゃなかったっけ。チゲ鍋みたいな物か。
それはともかく、少しくらいの雨なら何とかなるはずだ。って言うか、何とかならないと困る。いや、別に困らないのか。もう、わけが分からん。
大作は火縄銃演武している人のホームページに書いてあったのを思い出す。濡れて困るところを油紙で包んだりすれば防水は何とでもできるそうだ。
雨の中で鉄砲演武してる動画だって珍しくも何とも無い。
「まずは火薬を絶対に湿らせぬようせねばなりませぬ」
「しっかり蓋のできる入れ物に詰めて油紙で包めば宜しいでしょうか?」
青左衛門が何か適当な物は無いか辺りを見回す。だが、生憎と見当たらないようだ。大作は油紙、筵、布切れを用意して貰う。
「気を付けねばならぬのは、弾を込める時にございます。オランダでは小さな木の筒に一発ずつ火薬と弾を込めておるそうな。折を見て轆轤師にでも頼んでみましょう。今日のところは油紙を小さく切って一匁ずつしっかり包むしかありません。まずは工藤様のお屋敷に参りましょう」
油紙と筵で鉄砲を包んで手分けして担ぐ。またもや大作は見栄を張って二丁を担いだ。
相変わらず重い。三匁五分の短銃身だから非常に軽いはずなのだがやっぱり重い。とは言え、これ以上の軽量化は難しそうだ。筋トレでもした方が良いんだろうか。いやいや、俺は鉄砲を担いで戦場に行く気はさらさら無いぞ。大作がそんなことを考えているうちに弥十郎の屋敷に着いた。
「参られたか、大佐殿。雨車軸の如しじゃぞ。如何なさるおつもりか? てるてる坊主とやらは効かなんだな」
「あんな物で天気が変えられたら苦労しませぬ。それに環境改変兵器禁止条約によって軍事目的の気象コントロールは禁止されておりますぞ。それはそうと恐れながらお手伝いをお願いできましょうか? 油紙を小さく切って火薬を一匁ずつしっかりと包んで下され。四丁に五発ずつなので二十発が入り用になります。それと、口薬の入れ物がございませぬか? 醤油さし…… なんてございませんな。小さな瓢箪などありませぬか?」
「徳利か榊立ならどうじゃ? 誰か持って参れ」
中年の女性が細長い花瓶のような物を持って来る。これでもまだ口が大きい。小穴を開けた油紙を口に被せる。
「輪ゴムがあったら…… って、ありませんな。そうだ! これを使いましょう」
大作はテントのポールを束ねていたマジックテープの結束バンドで油紙を固定する。何とかなりそうだ。
「良い塩梅にございます。あとは大きな傘がございませんか? なるべく大きな物が入用にございます」
「保食神社に大きな菅笠が奉納されておったな。あれを借りて参れ。急ぐのじゃ」
弥十郎が無茶な指示を出す。大きい方が良いとは言ったけど大きすぎるのも困るぞ。まあ、見てから考えれば良いか。
そこへ慎之介が血相を変えて飛び込んで来た。走って来たのだろうか。息を切らせている。
「はぁ、はぁ、大佐殿。酷い雨に……」
「雨天決行にございますぞ、日高様。よく『大自然の前では人間は無力だ』などと申しますが、鉄砲はこの程度の雨には屈しませぬ。むしろ雨の中で見事にデモンストレーションを成功させるのです。さぞや若殿の覚えめでたきことにございましょう。ピンチをチャンスに変えるのでございます」
同じような話の繰り返しは飽き飽きだ。大作は慎之介の言葉を遮って景気の良い話で誤魔化す。
「されども雨で火縄が消えてしまわぬでしょうか?」
弥十郎が用意してくれた木綿の火縄は煙硝の液に浸け込んでから乾かしてあるらしい。だが、漆を塗る時間は無かったようだ。今から何とかするとしたら蝋を塗るくらいか。
「工藤様、蝋燭はございませぬか? 木綿の火縄に塗り付ければ水を弾きましょう」
「蝋燭をそのようなことに使うのは勿体無いのではないか? 一本二十文もするのじゃぞ」
弥十郎が渋い顔をしながらケチ臭いことを言っている。いやいや、二十文って人足の日当と同じくらいなんだから無理も無い。この時代は漆の実を絞って作ってるから凄く高いんだっけ? 中国から櫨の苗が入ってきたのは天正年間だとか何とか。大作は記憶を辿る。
将来的には石油ランプを作るとか、石油からパラフィンを作るとか考えた方が良いのかも知れない。
「終わったら新しいのを買ってお返します。それより皮か薄い板はございませんか? 青左衛門殿に箱みたいなカバー、じゃ無かった、覆いを作って頂きとうございます」
「そんな物は無いぞ。そうじゃ、竹皮ならどうじゃ?」
お握りを包むような竹皮と竹籤を使って青左衛門がフードを作る。何とも言えないユニークな外見の火縄銃が出来上がった。
そんなことをしている間に神社に行った者が巨大な菅笠を持ち帰る。でかっ! 一メートル以上あるぞ。
大作は後ろ側の半周に油紙を垂らすように取り付けた。これで背後からの雨を防げる。
見た目はかなりアレだが最低限の準備は整った。ネットで口薬を入れるのに木工用ボンドの入れ物を使ってる人を見たことがある。見た目より実用性重視で行こう。
朝起きてから大急ぎでやったにしては結構イケてるんじゃなかろうか。大作は自画自賛する。
だが、残念ながらテストするには時間が足りない。ぶっつけ本番しか無さそうだ。
慎之介がいまだに不安げな顔をしている。
「大佐殿、これで雨の中でも鉄砲を撃てるのでございますか?」
「分かりませぬ。拙僧も雨の中で鉄砲を撃つのは初めてのことにございます。まあ、やれることは全てやりました。あとは怪我をせぬことだけを気を付けて下さいませ。それではお城に参りましょう」
鉄砲と火薬を油紙と筵で包むと五人は弥十郎の屋敷を後にした。
雨足は少しも弱まらない。むしろ強まっているようだ。風が弱いのが不幸中の幸いだ。横殴りの雨は辛すぎる。
大作は記憶を辿る。火打ち石を使うフリントロック式の銃だと不発率は十五パーセントくらい、雨天時には三十パーセントにも達したらしい。
だが、火縄銃は火薬に火を直接押し付ける。火薬さえ湿っていなければ不発率は非常に低いそうだ。
雷管さえ作れば良いって物では無い。問題は火薬の状態なのだ。根本的な解決策は金属薬莢だが技術的なハードルが高い。
とりあえず湿気を通さない密閉容器が必要だな。乾燥剤も欲しい。まずは炒った米とか木炭とか紙なんかで良いだろう。
そのうち生石灰を作ろう。紀元前四世紀のエジプトでも使われていたらしい。この時代でも作れるはずだ。
大作がそんなことを考えているうちに五人は城の奥の射撃場にたどり着いた。
まずは若殿の立ち位置を決める。そこから右斜めに三十メートルほど離れたところにターゲットの具足をセッティングする。そして反対側に五十メートル計って射撃位置を決定した。
「準備は宜しいようですな。工藤様は若殿をお迎えに行って下さいませ」
「心得た」
降りしきる雨の中を弥十郎が走り去る。
「日高様、最終リハーサルを致しましょう。何度も申し上げましたが鉄砲は絶対に人に向けぬこと。もし不発の場合は的に向けたまま十まで数える。然る後に火縄を引っ張って火挟から外してメイに渡して下され。口薬だけに火が付いて弾が出ぬこともあるのでご注意のほどを」
「相、分かった」
「その時はメイをスルーして拙僧が火皿に口薬を盛ってから日高様に鉄砲を返します。日高様はもう一度それを撃つ。それでも弾が出ぬ時はメイが水を張った桶に浸けてくれ」
「分かったわ」
返事は良いけど本当に分かってるんだろうか。降り止む気配の無い雨空を見上げて大作は大きなため息をついた。




