巻ノ六拾 純粋理性批判 の巻
大作はお園とメイを連れて砕石場へ移動する。二人が一日掛かって粉砕した粉鉱石が小山になっていた。
石英の比重は2.7くらいなので一トンくらいありそうだ。大作は素早く概算する。
「そんじゃあ今から水銀アマルガム法を始めるぞ。初めに言っておくけど水銀はとっても危険だ。液体の金属水銀は触ったり飲んだりしても余り吸収されない。でも蒸気を吸い込むと肺から吸収されるので危険なんだ。ちょっと吸っただけで声がガラガラになるらしいぞ」
「じょうきって湯気のことね?」
船の上で教えたことをメイが覚えていてくれたので大作は嬉しくなる。あの授業は無駄じゃなかったんだ。
「無機水銀はある種のバクテリアによってメチル化されると物凄く危険な有機水銀になることもあるそうだ。生物濃縮と言ってプランクトンから小魚、大きな魚に捕食される都度、体内でメチル水銀が濃縮されるとか何とか。まあ、今回はこっちはあんまり心配しないでも大丈夫だな。とにかく水銀蒸気に注意だ。換気に気を付けろ。特にレトルト炉で水銀を蒸発させる時は必ず風上に退避だ」
大作は鉄鍋に布を敷いて粉鉱石を入れる。その上から水銀を注ぐ。水銀より石英の方が比重が軽いので浮かんでしまう。
「水銀は比重が13.5もあるので石だって浮かぶんだ。鉄や銀だって浮かぶぞ。金は沈むけどな」
「金や銀は水銀に溶けるんじゃなかったの?」
「そうだった。良く覚えていたな。それはともかく水銀は凄く重いんだ」
大作は内心の動揺を隠して平静を装う。これじゃアマルガムが作れないぞ。
大作はスマホで南米ポトシ銀山の資料を探す。
『泥状になるまでよく攪拌して水銀アマルガムを作る』だと。混ぜたぐらいで何とかなるのか? 凄い手間じゃん。
とは言え、やるしかない。銀と違って金は水銀とアマルガムを作りやすいはずだ。
ポトシ銀山の場合は塩を加えて常温では二、三週間、加熱しても四、五日掛かったらしい。
金ならあっという間のはずだ。そう書いてあるんだから信じるしか無い。
大作はこんなこともあろうかと用意しておいたヘラで掻き混ぜる。
今日やるのは実験だ。とりあえず適当にやって結果を見よう。
布を持ち上げて水銀を濾し取る。表面張力が大きいためなのか知らんけど布が水銀で濡れたりはしない。
youtubeで見たことがあったが実際に見ると面白い物だ。布をひっくり返して粉鉱石を捨てる。
きっとこの粉鉱石にも水銀が残留していて目に見えない水銀蒸気が立ち込めているんだろう。大作は水銀を回収した鉄製容器にしっかり蓋をすると風上に待避した。
金の粒子が小さいので比重選鉱は回収率が悪すぎる。浮遊選鉱の設備はまだない。シアン化ナトリウムもまだ無いので青化法も無理だ。
そうなると後はひたすらこの単純作業を繰り返すしか無い。何とか機械化した方が良いんじゃないだろうか。そのうち青左衛門にでも頼んでみよう。
いや、とりあえず何人か雇った方が良いかも知れん。水銀みたいに物騒な代物を女性陣に扱わせるのは絶対に不味い。
「まあ、ざっとこんな感じだ。水銀って面白いだろ。表面張力が大きいから玉になってコロコロ転がったりする。だからラテン語ではargentum vivum、生きている銀なんて言うくらいだ。さて、今日はここまで」
水銀の挙動は面白かったけど一度やったら満足だ。不思議の国のアリスの帽子屋みたいになるのは真っ平御免なのだ。
「これでお終いなの?」
お園が唖然としている。
「こんな危険な作業は俺たちがやることじゃない。人を雇ってやらせよう」
「え~! 私たちは丸一日、石を粉にしてたのよ! そんなのずるいわ!」
何か知らんけどお園が怒り出した。説明が悪かったんだろうか。お前らの健康を気遣ってるのが分からんのかと大作は思う。
「面倒臭くて言ってるんじゃ無いぞ。水銀は怖いんだ。俺はお前たちが病気になるのは嫌なんだ」
大作は精一杯の真面目な顔を作る。まあ、半分以上は本気だ。
ほのかがあんな状態でこいつらが病気になったら大変だ。薪拾いや食事の準備まで自分でやらなきゃならんぞ。
「そうなんだ。私たちのことを気に掛けてくれてたのに怒ってごめんね」
お園があっさり納得してくれたので大作は安堵する。これ以上、敵を増やすのだけは避けたかったのだ。
掘っ立て小屋に戻るとほのかが不貞腐れたように膝を抱えて蹲っていた。
「ほのか、出掛けるので付いて来てくれるか?」
大作はなるべく優しい声で微笑み掛けた。ほのかがはっとした顔を上げる。
「近在の村を探して人を雇おうと思うんだ。護衛を頼む」
「うん!」
ほのかは満面の笑みを浮かべると、飛び上がるように立ち上がった。
「お園はメイに金鉱石の選別と粉砕を教えてやってくれ」
「私はいつもお留守番組ね」
お園が不満そうに頬を膨らます。爆発すると厄介だ。早目にフォローを入れておこう。大作はお園の耳元で囁く。
「伊賀から忍びが来たら金山を任せて新婚旅行に行こう。一週間、じゃなかった七日くらいのんびり温泉にでも浸かろうか。行きたいところがあったら考えといてくれ」
「そんなにお湯に浸かったらふやけちゃうわよ」
お園の表情がぱっと明るくなる。こんなもんで大丈夫だろう。
大作はほのかを連れ立って川沿いを東へ向かった。
ほのかは機嫌を直したのだろうか。大作は慎重に様子を探る。一見するとご機嫌の様子だ。
だが、どう考えても感情の起伏が激しすぎる。もしかして二、三十代女性に増加していると言う『非定型うつ病』なんじゃね?
夜通し日向まで走ったとか言ってたけど、それが原因じゃなかろうか。
乱れた生活リズム、ダラダラ食いや欠食、生体時計が狂ってしまった可能性は高い。
認知行動療法とやらが必要だな。大作はスマホで情報を探す。
非定型うつ病は優しくて穏やか、自分より他人の考えを優先しがちな人がなりやすいらしい。結果的にそれがストレスになるんだそうな。
そう言えば、ほのかってそんな感じの性格かも知れない。
自己主張のトレーニングによって自我を確立させてやり、ストレスをうまく吐き出させてやれだと。
そして、日々の出来事から落ち込んだ時の記録を取り、自分を客観的に分析させろって書いてある。
他人のストレス解消に付き合わされる方の身にもなって欲しいぞ。
この認知行動療法は七割に効果があり、早ければ三ヶ月で効果がある……
早くて三ヶ月だと! そんなに付き合ってられるかよ!
それと、励ましは定型うつ病ではタブーだが、非定型うつ病はやんわりと励ますほうが奮起のきっかけになるそうだ。
『頑張れ! 頑張れ! 出来る! 出来る! ほのかなら絶対に出来る!』ってか? いやいや、やんわりとって書いてあるじゃん。
自分が受け入れられているという安心感を持たせるため、スキンシップも大切らしい。
手でも繋げってか? これ以上ベタベタして勘違いされるのは困るぞ。
真剣な顔をして考え込む大作にほのかが心配そうに声を掛ける。
「大佐、何か心配事でもあるの?」
『心配してんのはこっちだよ!』と大作は心の中で絶叫する。だが、表情には全く出さない。
こんな風に感情を押し殺してたら今にこっちがうつ病になりそうだ。
「南の山を越えると人が住んでるかも知れないだろ。そっちに行ってみようかって考えてたんだ。ほのかはどう思う?」
「こんな山の中に人が住んでいるのかしら」
ほのかは半信半疑の様子だ。伊賀だって凄い山の中じゃん、と大作は思ったが口に出すのは止めておいた。
横川までは直線で六キロほどだが道沿いには人家らしい物は見当たらなかった。
しかし、二十一世紀の地図では南東に二キロほど行くと野菜畑が広がっているようだ。
この時代に集落があるのかは不明だ。もし人が住んでいるなら友好的関係を構築したい。大作はそれを確認しておきたかった。
東へ一キロほど行ったところから南西に向かう道に入る。谷のような道を一キロほど進むと東西に細長い平地に出た。
金山が本格稼働するころには、この辺りに要塞線を構築しよう。細い道なら敵を迎え撃つにも都合が良さそうだ。大作は心の中のto do listに書き込む。
人家らしき物が点在しているのが遠目に見えた。
「やっぱり来て良かっただろ」
大作がドヤ顔で言う。ほのかも何が嬉しいのか知らんが今のところは上機嫌の様子だ。
一番近くの家に向かうと初老の男性が筵を編んでいた。横向きの太い棒に細いミゴで編んだ小手縄が八本ほどぶら下がっているようだ。縄の先は木片に巻き付けてある。
藁を一本上に置いて手前の木片を向こうに、向こうの木片を手前に動かす。また藁を一本乗せて木片を前後に。この繰り返しだ。
超原始的な筵編み器らしい。これって縄文人と同じレベルだぞ。いくらなんでも原始的過ぎないか?
経糸は八本しか無い。だったら太い棒に穴でも開けて綜絖に相当する部品を作れば良いのに。それだけで随分と効率的になるはずだ。
大作は思案する。『必要は発明の母』って言う言葉があるけど、必要が無ければ発明も無い。
むしろ必要以上の効率化は労働者から仕事を奪ってしまう。ラッダイト運動に参加した労働者がどんな気持ちだったか正しく理解しなければ。
金山が本格稼働すれば近隣住民の生活環境も激変する。堺から専門家を呼んで近隣住民対策もバッチリやらせよう。
相変らず人任せな大作であった。
それはそうと今日はどんな挨拶で行こうかな。まあ、何だって良いか。
大作は直立の姿勢で右手をピンと張り胸の位置で水平に構える。そして踵を打ち合わせながら掌を下に向けた状態で腕を斜め上に突き出した。
「勝利万歳!」
草鞋を履いてるのに思い切り踵を打ち合わせたから凄く痛い。音が出るわけでも無いんだから止めときゃ良かったと大作は激しく後悔する。
突然の大声に初老の男性が小さく飛び跳ねた。驚かせてごめんなさいと大作は心の中で謝る。
「拙僧は大佐と申します。此度、ここから半里ばかり北に寺を建てることになりました。つきましては仕事を手伝って頂ける人を四、五人ばかり探しております。どなたかご紹介頂けませんでしょうか?」
暫しの間、茫然としていた男が我に返る。
「お坊様は浄土真宗でございますか?」
えっ、気になるのはそこなの!? そんなことは全然考えてもいなかった大作は焦る。
肉食妻帯しようと思ったら浄土真宗で一択だ。でも、それで問題無いんだろうか。
「Wait a minute.」
言ってしまって大作は後悔する。ちょっと命令形、って言うか偉そうかな? 『just a moment.』とか言えばまだマシだったのに。
いやいやいや、そんなことはどうでも良い。大作は予習していた宗教関係の知識を必死に思い起こす。
九州南部では相良氏が弘治元年(1555)に浄土真宗禁制に乗り出すらしい。相良晴広が分国法『相良氏法度』に一向宗(浄土真宗)禁止を追加するんだっけ。原因は大永六年(1526)七月に真幸院を治めていた北原氏が人吉城を攻めたことらしい。北原庶流で飯野郷領主の北原兼孝は領民に『一向宗とならねば打ち殺す』とか言って入信を強要したって書いてあった。
まあ、ここは相良じゃ無い。それにまだ五年もある。とは言え、浄土真宗を名乗るのは止めとこうかな。大作は迷った末、適当に誤魔化すことに決めた。
「肉食妻帯OKという点は浄土真宗と同じです。もっとも、より優雅に不可知論と呼んでいるがね。信じるのは阿弥陀仏の本願のみ。念仏を唱えるだけで救われます。現世祈祷、まじない、占いはやりません。お守り札、日の吉凶もありません」
「ふかちろん?」
男が間の抜けた顔で問い返す。相手にするのが面倒になってきた大作はスルーして次の村人を探すか迷う。だが、辛抱してあと一分だけ時間を割くことにする。
「不可知論とは神仏がおるか、おらぬかなど人には認識できないという考え方です。カントは『純粋理性批判』において『物それ自体を認識することはできない。人は時間と空間をあらゆる経験的認識に先立って認識する』との教えを説いておられます。ご興味がおありなら一度是非いらして下さい。対話の門は常に開かれております。ところで、働いて頂ける人を四、五人ばかりご紹介いただけませんでしょうか?」
「さ、左様にございますか。儂には難しい話は分かりませぬが村長のところへご案内いたしましょう」
男は立ち上がると東に向かって歩き出す。良かった。誰か紹介してくれるらしい。
とは言え、宗派の話はどうでも良かったんだろうか。だったら説明させるなよ! 大作は心の中で毒突く。
哲学なんて専門外も良いところだ。そう言えばアプリリアって名前のバイクメーカーがあったっけ。
まあ、四人か五人ほど手伝いを雇うだけだ。ここがダメでも他にも村はあるだろう。大作は考えるのを止めた。
「御仏がいるか、いないか分からないってどういうこと? 大佐は御仏を信じていないの?」
ほのかが耳元で囁くように尋ねる。とても不安げな表情だ。こりゃあ何か言って安心させないと。
「オックスフォード白熱○室で言ってたぞ。聖職者にはサイコパスが多いらしい。ある聖職者が言ったそうだ。『私は神を信じていません。神様が専門分野なんです』ってな」
ほのかの表情がわずかに明るくなった。まあ、本気で心配しているわけでは無さそうだ。
とは言え、寺を名乗る以上は仏像くらいは用意した方が良いんだろうか。時間が出来たら自分で木彫りの仏像でも作ろう。
大作は心の中のto do listに書き込んだ。




