巻ノ五百九 取れ!休憩時間を の巻
伊東が二万の軍勢で迫って来るという情報は平和ボケした山ヶ野を大混乱に陥れた。大混乱に陥れたのだが……
直後に第四艦隊から届いた予期せぬ吉報が悲観的な空気をあっという間に一変させてしまった。
「日向灘沖で訓練航海中を行っていた第四艦隊は日没を待って小舟で一ツ瀬川を遡上。夜陰に乗じて無反動砲で佐土原城を焼き討ち致します」
「阿弥陀寺の防衛司令部からの通信です。東に半里離れた防衛線では今だ敵の動向を確認できておりませぬ」
「偵察部隊はいずれも敵と接触しておりません。索敵範囲を拡大致します」
次々と舞い込んでくる情報に統合作戦司令部は盆と正月が一遍に来たような忙しさだ。
大作は部屋の隅っこに置かれたパイプ椅子にちょこんと座って借りてきた猫のように大人しくしている。
そんな姿を哀れにでも思ったのだろうか。薄ら笑いを浮べたメイが話しかけてきた。
「ねえ、大佐。予測会敵時刻はいつ頃になりそうかしら? もし定時を過ぎちゃうようなら四十五分の休憩を取らせないといけないわよ」
「労働基準法の第三十四条か? うぅ~ん、だったら…… だったら全体を二つに分けて半分をいますぐ休憩させたら良いんじゃね? んで、そいつらの休憩が終わったら残りを交代で休ませるんだ」
「分かったわ。桜、直ぐに手配りして頂戴な。大佐も今のうちに休んでおいた方が良いかも知れないわね」
「俺か? 俺は大丈夫だよ。今だって半分休んでいるようなものだしな」
大作は自嘲気味な苦笑いを浮べると両の手のひらを肩の高さに掲げる。
だが、メイは振り返ることもなく足早に立ち去ってしまった。
と思いきや、捨てる神あれば拾う神あり。代わってサツキが話しかけてくる。
「子曰く『腹が減っては戦は出来ぬ』って言うわよ、大佐。今のうちにお腹に何か入れておいた方が良いんじゃないかしら? 無理にとは言わないけど」
「いやいや、孔子はそんなこと言ってたかなあ? 言っていないような気がするんだけどなあ…… とは言え、何かしら食っておいた方が良いってのは同感だな。何か簡単な軽食を用意するよう幹部食堂に伝えてくれるか?」
「それならばナカ殿がつい今しがた、お握りを沢山拵えていたわよ。私、ひとっ走り行って貰ってくるわね」
風のようにサツキが走り去り、後には静寂だけが残される。
こうして一人ずつ人がいなくなったら最後には誰も残らんぞ。それってまるでアガサ・クリスティーの『そして誰もいなくなった』みたいじゃんかよ。
想像した大作は吹き出しそうになったが空気を読んで必死に我慢した。
「ねえ、大佐。ちょっといいかしら?」
不意に背後から掛けられた声に慌てて振り返ると小首を傾げたほのかが薄ら笑いを浮べている。
「何だ、ほのか? 俺、今ちょっとばかし忙しいんだ。できたら後にしてもらえると嬉しいんですけど」
「えぇ~っ! とてもじゃないけど忙しそうには見えないわよ?」
「あのなあ…… 鴨の水掻きって聞いたことあるか? 気楽に浮かんでるように見える鴨だって水の下では一生懸命に水かきを動かしてるとか何とか。何にもしていないように見えても裏では苦労してるって例え話だよ。本当に知らない? 知らんのかよ……」
「じゃあ大佐はどんな苦労をしてるって言うのよ? 聞いてあげるから話してみなさいな。さあ、さあ!」
グイグイと詰め寄ってくるほのかに大作はたじたじとなるばかりだ。
誰か助けてくれとばかりに辺りを見回してみれば雄の三毛猫の小次郎を抱っこした美唯が部屋の隅っこに手持ち無沙汰に立ち尽くしていた。
「美唯! 美唯! 敵の動向はどうなってるんだ? 何か新たな情報は掴めたのか?」
「さ、さあ。どうなのかしら…… って言うか、美唯がそんな事を知ってるわけがないでしょうに」
「じゃあ誰が知ってるって言うんだ? それも知らんのか? お前は本当に何にも知らん奴だなあ……」
大作は人を小馬鹿にしたような薄ら笑いを浮かべると小さく鼻を鳴らす。
だが、百戦錬磨の美唯はそんな安っぽい挑発に乗るはずもない。
呆れ果てたといった顔で大きな溜息をつくと振り返って右手を上げた。
「桜! 大佐が敵の動向を知りたいんですって! 教えて上げて頂戴な!」
「分かったわ、美唯! ささ、大佐。此方へ参られませ。作戦図にてご案内をば仕りまする」
手招きされるままに進んでみれば大きな机の上に何種類もの地図が広げられ、青や赤のコマが幾つも置かれていた。
「最新の情報は…… と申しましても、既に敵の位置を見失って三時間が経過しております。最後に確認されたのは横川の東岸で、その数およそ二万。然れども……」
「三時間も前だと? って言うか、二万もの敵を見失ったって言うのか? そんな阿呆な…… んで、今は横川の偵察隊と連絡は取れるのか?」
「いえ、誠に無念な事ながら連絡を取る事は叶いませぬ。只今は休憩時間中の為、無線機を切っておる様にて」
「休憩ですと。アレか? もしかして労働基準法の第三十四条か? でも、偵察部隊は伊賀の忍だよな。連中は請負契約だから労基法三十四条の縛りは受けないんじゃなかったっけ?」
「確かに法的な事だけを申せば障りはございませぬ。然れども休憩は入り用にございましょう? 我ら忍とて人に違いはござりますまい。適宜休みを取らねばいざという時にお役に立つことが叶いませぬ」
ああ言えばこう言うとはこのことか。桜は屁理屈のような独自の理論を捏ね回す。どうやらこの件で一歩も引くつもりは無いらしい。
こういう死んでも負けを認めない奴とは話すだけ時間の無駄だな。大作は潔く諦めると話題を変えた。
「まあその件は後回しにして第四艦隊の方はどうなってるのかな? 既に日は暮れてるんだ。そろそろ攻撃開始のタイミングじゃね?」
「仰せの通りにございます。椿! 第四艦隊からの連絡は如何致した?」
「つい今しがた攻撃開始を告げる『ト連送』が届いて参りました。目下の所は何の障りも無い様にございます」
「攻撃には無反動砲を使うんだっけ? よくもまあ都合よくそんな物を積んでたもんだな」
「先行量産型の試験を行うため八門を積んでおりました。砲弾は一門当たり約三十発。全て焼夷弾にございます。これだけあれば佐渡原城を焼き払うには十分かと」
椿とかいう少女がドヤ顔を浮べて巨大な胸を張る。何の根拠も無い自信はいったい何処から湧いてくるんだろう。堂々とした椿の態度と裏腹に大作の胸中を何とも形容のし難い不安感が満たして行く。
だが、案ずるより産むが易し。暫しの後に通信機がカタカタという小さな音を立てた。
機械からリボンの様に細長い記録紙が吐き出され、側に座った少女が緊張した顔で素早く読み取って行く。
「大佐。『トラ、トラ、トラ』。奇襲攻撃成功にございます」
「いやいや、大勝利にございますな。後は休憩を終えた偵察隊が二万の敵を見つけてくれるのを待つばかり」
「これは急いで宴の支度せねばならんわね。桃、ひとっ走り幹部食堂のナカ殿の所まで行って頼んできて頂戴な」
先程までの緊張感が嘘のように消え、統合作戦司令部を何とも形容のし難い幸福感に満たされる。
だが、待てど暮らせど偵察部隊から敵発見の情報が入ってくることは無かった。




