巻ノ伍 インドラの炎 の巻
生須賀大作は考えていた。
北緯三十五度辺りでの地球の自転速度は秒速約三百八十メートル。
地球の公転速度は秒速約三十キロメートル。
太陽系の銀河に対する公転速度は秒速約二百十七キロ。
四百五十年以上も昔にタイムスリップしたら元の位置から0.3光年は銀河系内で移動している。
銀河系自体も固有運動していて数十億年後にアンドロメダ銀河と衝突する。
そもそも宇宙自体が膨張しているのに絶対座標なんて考えそのものが無意味だ。
それなのに地球上の全く同じ位置に出現するなんてありえない。
やはりこのタイムスリップは人智を超えた存在が起こしたとしか考えられない。
今のところコミュニケーションを取ることはできないがこちらの行動を観察している節がある。
だとすれば彼らの期待を満たすことで元の時代に帰れるかも知れない。
もしくはボーナスとして1930年代にタイムスリップさせてくれるかも。
ずっとタイムスリップしたいと思い続けていたんだからタイムスリップ自体が報酬と言えなくも無い。
だが何か目標が無ければモチベーションが維持できない。
大作は何の根拠もないけれど結果を出せばきっとご褒美があると信じることにした。
そうと決まれば行動あるのみだ。
とりあえず現地の人の意見を聞いてみよう。
「夕飯と今晩の寝床をどうしよう?」
「大佐は托鉢とかできないの?」
「般若心経か正信偈くらいなら唱えられるけど」
正直言って自信無いけどスマホを見ながらで良ければ何とかなるだろうと大作は思った。
「しょうがないわね~ まあ、なんとかなるんじゃない。運がよければ草履も貰えるかも知れないし」
「寝床はどうしよう」
「お寺を見つけてお願いするしかないわね。宗派が違っても心の広いお寺なら軒先くらいは貸してもらえるかもしれないわ」
天気の心配は無さそうだ。季節的にも凍死の心配は無いので最悪は野宿を覚悟しておこう。
あとはお園の扱いだ。浄土真宗は開祖親鸞が肉食妻帯を許したのだが托鉢僧が女を連れ歩くのは不味いのだろうか。
一休宗純は森侍者という盲目の側女を連れていたが、あれは許されていたのでは無く自由奔放な奇行というエピソードだったはずだ。
迂闊に真似するのは危険だろうか。盲目で行く当ての無い娘を保護しているという設定ならありか?
やはりあれしか無いのか。大作は遠慮がちに言ってみる。
「お園、歩き巫女になる気は無いか?」
「え~~~!」
『大声出すと耳が痛いって!』と心の中で愚痴を言いながら大作は顔を顰める。
それにしても本当に表情が豊かな娘だ。お園の大げさな驚きように本気で感心させられる。
「川の手前の集落に行って古着屋を探そう。無ければ白と赤の布を入手して自分で仕立てる」
「そりゃあ甲斐には歩き巫女が大勢いたからご祈祷の真似事くらいはできるけど」
「巫女の格好をしてるだけで十分だ。関所を素通りしたいだけだからな。食い扶持は俺が托鉢で稼ぐ」
お園の『なんて罰当たりな』という視線を大作はあえて無視する。
大作にはネットで読んだ知識しか無いが、この時代の関所は金銭的な意味で江戸時代よりはるかに厄介だ。
関所の通行料である関銭は十文くらいが相場だったらしいがその数がとにかく多い。
大坂から京までの淀川沿いに五百か所以上あったとか、伊勢街道の日永・桑名間の十キロに六十か所以上あったとか、伊勢全体では百二十か所以上あったとか。
とにかくそんな調子なのでまともに払ってたらあっと言う間に破産だ。
なので大作にとって巫女や僧侶の衣装はただの全国関所無料パスだ。
それ以上でもなければそれ以下でもない。
「しょうがないわね~」
その答えを大作は肯定と受け取る。そしてお園の手を取って立ち上がると言った。
「Here we go!」
お園は『はいはい』といった感じの目線だけで返事をした。
大作はチタン製クッカーを手にして通りを端から端まで托鉢した。
僧侶は戒律で食事は午前中にしか食べられないから午後に托鉢しているのは偽坊主だという俗説がある。
だがこれは南方仏教や初期仏教の話で、大乗仏教の場合は行としてやっているので問題無い。
僅かな米、それなりの量の雑穀と野菜、傷んだ草鞋、ボロボロの菅傘をゲットした。
偽坊主ではあるが大作の感謝の気持ちは本物だ。
真剣に心を込めてお経を唱え、浄財を頂いては心の底から感謝を込めて深々とお辞儀をした。
ついでに古着屋を探すが一軒も無かった。
そもそもこんな小さな集落に専門の古着屋が存在している方がおかしい。
昔は布は貴重品だったので流通量自体が少ない。痛んでもとことん繕って着るのだ。
だからといって古着が無いとは言えない。あとは一軒ずつ古着が無いか聞いて回るしか無さそうだ。
だがさっきまで托鉢していた僧侶が白衣や緋袴を探したうえ代金を銀で支払ったらどう思われるだろう。
「今日はここまで」
大作は宣言すると集落から川原を北に向かう。
托鉢中は遠く離れていたお園も合流する。
収穫物を見てお園はにっこり笑った。
「あんた見掛けによらずなかなかやるわねえ」
「ざっとこんなもんよ!」
軽口を叩きながら途中で薪や焚き付けになりそうな枯草や枯葉を拾って進む。
集落から見えないくらい離れたことを確認してキャンプ地を決める。
大作が川で浄水器を使って水を汲んでいる間にお園は大きな石を拾ってかまどを作った。
「火起こしはオラはじめてだ!!わくわくするぞっ!!」
トム・ハンクスのキャスト・アウェイという映画で火起こしに死ぬほど苦労する場面がある。
それは主人公が正しいやり方を知らなかったためで、ポリネシアやメラネシアの島々には十秒あれば火種が作れる名人がいるらしい。
紐錐や弓錐を使えば少しの練習で子供でも火起しが出来る。慣れれば三秒から八秒もあれば火種が作れるってWikipediaにも書いてあった。
タイムスリップはともかく、遭難や災害に備えて大作は火起こしに関しては小一時間は蘊蓄を傾けれるほど知識を持っていた。
実際に火起こししたことは一度も無かったが。
大作は乾燥した枯れ草や枯れ葉を束ねてしっかり揉み解して繊維を毛羽立たせる。
そう、重要なのは火口なのだ。いくら火種を作っても火口に点火できなければ何の意味も無い。
続いてナイフで薪の縁を鰹の削り節のように薄く加工する。
火口から薪にいきなり着火するのは至難の業なのだ。
ちなみにナイフを隠し持つためには特殊な秘匿術を用いる。それについては極秘事項とされ明らかにすることは出来ない。
職務質問されても絶対に見つからない秘術があるのだがこれだけは口が裂けても言えない。
次に大作はアマゾンで一個百十八円(送料無料)で買ったマグネシウムファイヤースターターを取り出す。
お園の興味津々といった視線に大作は喜びを隠しきれない。
「妙な火打石ねえ」
「まあ見てな」
お園の期待と不安の入り混じった目線を感じながら大作はストライカーと呼ばれる金属板の先端のギザギザ部分でマグネシウム製のスターターを三回削って火口に落とす。
そしてストライカーの側面でマグネシウム製スターターを手前から火口に向かってゆっくりと力強く擦る。
勢いよく火花が飛び出す。
だが火花は火口から外れた。
気を取り直して再び擦る。
またもや火花は明後日の方向へ飛んで行く。
お園の視線が痛い。
違う! ストライカーを固定してスターターを引けば良いんだ!
試行錯誤の末にようやく大作は思い出した。
火花が飛んで火口に落ちる。
火口に小さな火が灯る。
「やった~!」
キャスト・アウェイのトム・ハンクスですらここまで喜んでいなかっただろう。
大作は『ねんがんのひをてにいれたぞ!』といった気分だった。
だがその喜びも一秒と続かなかった。
火はあっさり消えてしまったのだ。
マグネシウムには火が付いたが火口には燃え移らなかったらしい。
乾燥した草や葉を選んだつもりだったが湿っていたのだろうか。
不意に大作はポール・アンダースンの『過去へ来た男』という短編SF小説を思い出す。
アイスランド駐留の米軍兵士が千年前にタイムスリップする話だ。
男は自分の科学知識を使えば王にだってなれるとはしゃいでいたが生活様式の違いに困りはてる。
鍛冶もできない、羊も追えない、裁縫もできない、農作業もできない。何をやっても半人前以下。
最後はつまらない喧嘩の末に魔法使い扱いされて不幸な結末を迎える。
今の俺はあの男と全く同じ立場なんじゃないかと思うと大作は背筋が寒くなった。
そんな考えを吹き飛ばすように首をぶるぶるっと振る。
そしてファイヤースターターを片づけると代わりにBICライターを取り出して火を点けた。
「見せてあげよう、インドラの炎を!」
「なによそれ~!」
お園が目を丸くしている。
「ソドムとゴモラを焼いたのはアテン群小惑星の落下だという説があるぞ。インドラの炎は核兵器だという説もあるな」
無事に火が点いたので大作は上機嫌でまくしたてる。
普通の百円ライターではなくBICライターを用意していたのは大作なりの拘りだ。
普通の使い捨てライターは沸点-0.5度のブタンガスだがBICライターは沸点-12度のイソブタンガスが使われているので真冬でも安心して使えるのだ。
フリント部分やガス噴出口もしっかりした作りなので約三千回と想定されている着火回数ギリギリまで安定した火力で使える。
唯一の欠点はボディが不透明なのでガスの残りが分かりにくい。
なので白ボディを買うのが吉だ。
やっと点いた火口を無駄にしないように注意しながら薪の削り節をそっと乗せる。
徐々に火が大きくなり薪の本体にも火が回る。
「燃やせ! 燃やせ! 何もかも焼き尽くせ! 石器時代に戻せ!」
ドン引きしているお園にまったく気付かず絶叫する大作であった。