巻ノ四百九拾六 虎居からの電報 の巻
光陰矢の如し。少年老い易く学成り難し。
月日が経つのは早いもので、あっと言う間に西暦1551年の1月が過ぎ去った。
「そんなことないわよ、大佐。いろんな事をやったじゃないの。二十八宿の鬼宿日に煤払いとか餅つきをやったでしょう? もしかして、覚えていないのかしら?」
「そ、そんなことやったっけかなあ? 俺、これっぽっちも覚えていないんですけど……」
「常日頃の煤払いと違ってお正月をお迎えする大事な事始めなんですからねえ。あと、松迎えだってやったじゃないの。門松やお雑煮を炊くための薪を恵方の山へ取りに行ったでしょう?」
「何をどう言われようと覚えていないものは覚えていないんだからしょうがないじゃんかよ! それともアレか? 覚えてるふりをしろとでも言うのか?」
逆切れした大作は思わず声を荒げる。声を荒げたのだが……
この対応は極度の興奮状態にあるお園には返って逆効果になってしまった。
「返って逆効果って? それって語彙が重複しているんじゃないかしら?」
「そ、そうかも知れんな。そうじゃないかも知らんけど。とにもかくにも落ち着いてくれて良かったよ。んで、何の話をしてたんだっけ? 今日は西暦1551年の2月5日で木曜日だとか何とか」
「天文だと十九年十二月三十日の大晦日ね」
「三十日なのに大晦日ですと? 何とも気持ち悪い妙な塩梅だな」
言葉では表現の仕様もない不思議な違和感を覚えた大作は背中がムズムズしてしょうがない。だが、泰然自若とした顔のお園は小さく鼻を鳴らすとドヤ顔で顎をしゃくった。
「それは平均朔望月が約29.53日なんだからしょうがないわよ。太陰太陽暦を使っている限り、一月が三十一日になんてなるはずがないでしょうに」
「そ、そうなのかなあ? 月は地球から徐々に遠ざかっているから公転周期だって伸びてるだろ? そのうちに一か月が三十日を超えたりしないのか?」
「そうは言っても地球の自転周期だって遅くなっている筈よ。Wait a second! ちょっと計算してみましょうか。たとえば二億五千万年後には月と地球との距離は今と比べて地球半径の1.5倍くらい増えてるんですって。だとすると…… 月の公転周期はざっと二百四十五万秒くらいだから六百八十時間ってところね。もし地球の自転周期が今と同じなら28.35日くらいよ。でも地球の自転周期だって今より一時間半くらいは伸びているはずだから…… 月の公転周期は26.7日くらいね。一年が三百四十四日くらいに伸びてる筈だから朔望月を計算すると28.65日になるじゃない。これだと三十一日どころか二十八日になる事を憂いた方が良いんじゃないかしら?」
「で、でもそれは二億五千万年くらい先の話だろ? もっと先にはどうなってるか分からんぞ」
納得が行かないと言った顔の大作は半ば意固地になって食らい付く。食らい付いたのだが……
人を小馬鹿にしたような薄ら笑いを浮かべたお園は両手の人差し指を中指をクロスさせると肩の高さでチョイチョイと曲げた。
「知ってるかしら、大佐? 地球の赤道傾斜角が安定しているのはお月様のお陰なのよ。だけども月が遠ざかると赤道傾斜角の安定作用も減少して行くでしょう? 何億年後かは知らんけど、いつの日か摂動効果が地球の赤道傾斜角にカオス的な変動をもたらすそうよ。そうなると赤道傾斜角は九十度まで行っちゃうかも知れんわね。そうなったら月の満ち欠けどころの騒ぎじゃなくなるわ。赤道の日射量が極地よりも少なくなって地球上の何処にも人の暮らせるところなんて無くなっちゃうんですからね」
「が、がぁ~んだな。て言うか、そんなん言い出したら六億年もすれば大気中の二酸化炭素量はC3型光合成を継続できない水準まで減少するそうだぞ。十億年後くらいには海水が無くなってプレート運動も止まっちまうし。って言うか、俺たちはいったい何の話をしてたんだっけかな?」
ふと我に返った大作はきょとんとした顔で小首を傾げる。小首を傾げたのだが……
お園も同じくらい『わけがわからないよ……』といった顔で口をぽかぁ~んと開けて呆けている。
こいつはどげんかせんといかんな。大作は止まりかけた脳を今一度フル回転させた。
「もの凄く低い可能性なんだけど太陽が赤色巨星にまで進化しても地球が飲み込まれていなかった場合、太陽の大気の影響で月が再び地球に近付いてくるらしいぞ。そうなるとロッシュの限界を超えた辺りで月はバラバラになって破片が地球に降り注いでくるんだとさ。そうなると月の満ち欠けも無くなるわけだ」
「大佐。もうその話は止めましょう。来年の話をしただけで鬼が笑うそうよ。七十億年後の話なんてしたら鬼が笑い死ぬかも知れないわ」
「そ、それもそうだな。鬼が死んじゃったら可哀想だし。本当言うと俺もこの話題に飽き飽きしてたところなんだよ」
「ですよねぇ~っ!」
二人は顔を見合わせて暫しの間、大爆笑する。大爆笑したのだが……
「お園様、大佐! 虎居の大殿より電報が届いております!」
「うわぁ! びっくりしたなあ、もう……」
突如として背後から掛けられた声に大作は肝を冷やす。
慌てて振り返って見れば幼いと言って良いくらいの修道女姿の少女が立っていた。
「こちらの受取にサインをお願い致します」
「ご苦労様、雛罌粟。確かに受け取ったわ。次からはもう少し遠くで声を掛けて頂戴ね。大佐がびっくりしちゃうから」
「畏まりましてございます。では、これにてご免」
次の瞬間、雛罌粟と呼ばれた少女は煙のように姿を消した。
「うわぁ! もう一回びっくりしたなあ、もう…… くノ一なのかな、あいつも?」
「名前が花シリーズだから多分そうなんでしょうね。んで? 電報の中身には何が書いてあるのかしら。良かったら私が読みましょうか?」
「ああ、そうしてくれるかな」
「どれどれ…… 『チチキトク スグカエレ』なんちゃって! 戯れよ、戯れ。えぇ~っとねえ…… 『 日の元日に年始の挨拶に来られたし』って書いてあるわよ。どうする、大佐?」
手にした紙切れから目線を上げたお園が真剣な表情で見詰めてきた。
大作はどう答えたものかと一瞬だけ思案する。思案したのだが……
「馳走を支度して待っておるので是非とも参られよですってよ。こりゃあ是非に及ばず行かなきゃならんわね。さあ、大佐! 急いで急いで! So quickly! Hurry up!」
「いやいや、餅つけ。ご馳走は逃げないからさ」
「でも、今日のうちに虎居へ着いとかなきゃならないわ。走ればお昼の馬車に間に合いそうよ。四十秒で支度して頂戴な!」
「はいはい、いま行こうと思ったのに言うんだもんなぁ~っ!」
まるで借金取りから夜逃げするかの如く大急ぎで大作とお園は山ヶ野を後にした。
馬車の旅はそこそこ快適だった。少なくとも前に乗った時に比べれば雲泥の差と言っても過言ではない。
おそらくモーツァルトがヨーロッパ中を演奏旅行していた時代の馬車に比べれば悪くない乗り心地と言えるだろう。
「板バネが改良されているようだな。それに座席にもクッションが入ってるみたいだ」
「おお、流石は大佐様ですな。良うお気付きになられました。然れども、もう一つだけ工夫が施してございます。お分かりになりますかな?」
馬車の先っぽにある運転席に座った御者が得意満面の笑顔で話し掛けてきた。
大作はちょっとイラっときたが鋼の精神力で持って何とか怒りを抑え込む。咄嗟の機転でアミバの物真似で乗り切るのが精一杯だ。
「うぅ~ん? 何のことかな?」
「大佐様でもお分かりにならぬ事がございましたか。答えは車輪にございます。スポークに工夫を施したエアレスタイヤを使うておりまする」
「そ、そうなんですか。それは良かったですね。あは、あはははは…… 知らないうちに世の中は進歩しているんだなあ」
大作の脳裏を漠然とした不安感が押し包んで行く。
「逃げちゃ駄目だ! 逃げちゃ駄目だ! 逃げちゃ駄目だ!」
心が折れそうになった大作は言語明瞭意味不明瞭な雄叫びで心を鼓舞することしかできなかった。




