巻ノ四百四拾弐 昇れ!十六夜の月 の巻
大作と愉快な赤間たちを乗せた船は九州南西部の沖合を北上して行く。日はとっぷりと暮れてしまい辺りはすっかり漆黒の闇に包まれている。
だが、ラッキーなことに今宵は旧暦の十月十六日。良く晴れた夜空には妖しい輝きを放つ十六夜月が昇っている。お陰で陸地を見失う心配はこれっぽっちも無い。
「十六夜の月をかしきほどにおはしたり」
「きゅ、急にどしたん、お園? 何か変な物でも食ったのか?」
「いやあねえ、大佐。源氏物語の未摘花よ。もしかして大佐、知らないの?」
「いや、あの、その…… そうなの? いやいや、そんなことより十六夜月のことを既望とも言うらしいな。望月を過ぎたから既望なんだとさ。昔の人は面白いことを言ったもんだな」
「あのねえ、大佐。私を誰だと思っているの? 巫女頭領…… じゃなかった、修道女頭領のお園なんですからねえ! ちなみに不知夜月とも言うわよ。一晩中月が出ているから『夜を知らない』とか何とか」
そんな阿呆な話をしている間にも外気温がどんどん下がり、夜風が冷たくなってきた。風邪をひくのも馬鹿らしいので一同は艫矢倉に引き籠もる。それほど広くもない室内は大作、お園、ほのか、サツキ、メイ、藤吉郎、ナカ、小竹、旭、エトセトラエトセトラ…… まるで押しくら饅頭みたいにぎゅうぎゅう詰めになってしまった。
「まるで大航海時代の奴隷船じゃんかよ! やっぱ三段ベッドっていうのは偉大な発明だったんだなあ。ちなみにUボードは一つのベッドを二交替で誰かと使いまわしていたらしいな。それに比べて旧日本海軍の伊号潜水艦は一人ひとりに専用のベッドがあったんだとさ。長期の外洋航海を想定するんなら居住性は重視しておいた方が……」
「その話はまたにして頂戴な。それよりも今宵はどうやって寝るのかしら。まあ、私は大佐と一緒に寝るから良いんだけれども」
「私も大佐と同衾したいわ! こんなにも狭いんだからしょうがないでしょう?」
「私めも! 私めも一緒に寝たいわ」
「某も床を同じゅうしとうございます」
お園の何気ない一言に皆が一斉に食い付いてきた。付和雷同も此処に極まれリだな。大作は呆れ果てて物が言えなくなってしまう。
って言うか、この糞みたいに狭い部屋では一緒に寝る以外の選択肢なんて無いと思うんですけど?
結局、一同は雑魚寝というか密着というか…… 富士登山の山小屋みたいにぎゅうぎゅうに押し込まれて眠る羽目になった。
と思いきや、捨てる神あれば拾う神あり。漸く寝付けると思った矢先、船長の怒鳴り声に叩き起こされる。
「大佐殿! 大佐殿! 間もなく久見崎とやらにございますぞ。ほれ、あれが川内川に間違いござりますまい?」
「むにゃむにゃ…… 船長殿、せめてあと五分だけ寝かせて下さりませ……」
「ごふん? ごふんにござりますな。承知仕りました」
船長は用件だけ告げると艫矢倉の引き戸をピシャリと閉めると足早に立ち去ってしまった。人の言うことには黙って従う。それが彼の処世術なんだろう。
いやいやいや、それよりも目を覚まさなきゃ! 大作は眠い目を擦りながら大きく欠伸をして必死に眠気を追い払おうとする。追い払おうとしたのだが……
時計を見れば真夜中の二時じゃんかよ! そもそもこんな夜中に起きて何をどうするんだよ! 朝まで寝よう。大作は考えるのを止めると二度寝してしまった。
「知らない天井だ……」
目を覚ました大作の眼前に広がっていたのは今となってはすっかり見慣れた艫矢倉の天井板だった。
誰も突っ込みを入れてくれないのは寂しいなあ。柄にもなく愚痴を呟きながら部屋の中を見回してみるが狭くて薄暗い室内には人っ子ひとりとしていない。
いったいぜんたい皆はどこへ行ってしまったんだろう。誰か一人くらい起こしてくれても良かったのになあ。俺ってこんなに人望が無かったのか?
ぶつぶつとボヤキながらゆっくり立ち上がると引き戸を開いて艫矢倉から外へと這い出す。
「うわぁ、翼よこれが久見崎だって感じだな。寝ている間に帰ってきちゃうとはリンドバーグもびっくりだぞ」
既に帆は小さく折り畳まれており、殺風景な甲板を見回しても人っ子ひとりとしていない。
って言うか、皆は俺を置きざりにしていったい何処へ行っちまったんだろう。不意に大作の胸中に何とも形容のし難い漠然とした不安感が首を擡げる。
「おぉ~い! 誰かいませんかぁ~っ! 助けて下さぁ~い!」
「いったい何を騒いでいるのよ、大佐。そんなに大きな声を出さなくたってちゃんと聞こえているわ」
不意に真後ろから掛けられた声に慌てて振り返ってみれば見慣れた顔が半笑いを浮かべていた。
「あぁ、お園? いたのかよ。急に姿が見えなくなったから随分と心配したんだぞ」
「きゅ、急にですって?! 半日も寝ていたのは大佐の方でしょうに。私、何編も何編も起こしたんですからね!」
「そ、そうだったのか? そいつはすまんこってすたい。まあ、お陰でこうやって無事に目を覚ますことができたんだ。終わり良ければ全て良し! んで? 今はいったいどういう状況なんだ? 簡潔明瞭に説明してくれ」
大作は何ら悪びれもせずに寝坊のことを軽く水に流した。お園も別にその件を深く追求する気はないらしい。って言うか、真面目に相手をするのが阿呆らしいとでも思っているのだろう。ちょっと呆れた顔で小さくため息をつくと先に立って歩き始めた。
「夜が明けた途端にザビエル様がいらっしゃってね。皆に洗礼を授けるとか申されて連れてっちゃったのよ。まるでハーメルンの笛吹き男みたいだったわよ」
「そいつは心配だなあ。まだ生きてたら良いんだけど。ってか、皆ってナカ殿や小竹、旭もか?」
「それどころか船長殿や水主の方々もよ。私たちは前に洗礼を受けてたから助かったんだけど、放って置くのも気がかりだってサツキやメイ、ほのかたちは付いてっちゃったのよ」
「ふむふむ、そうか。まあ、馬鹿どもには丁度良い目眩ましだな。んじゃあ、俺たちは奴らが囮になってくれてる間に虎居を目指そう。先んずれば人を制す。レッツラゴー!」
言うが早いか大作は船を飛び降りるようにして陸へ上がる。もちろんレディーファーストでお園を先に行かせることは忘れない。
二ヶ月ほど見ないうちに久見崎の港は見違えるように立派になっていた。貨物船寧波も量産体制に入ったらしい。同型艦と思しき船が四隻も並んでいる。
「こっち側の二隻は完成しているのかな? 一番向こう側のは艤装がまだみたいだけど」
「たぶん六番艦だと思うわよ。だって艦首に六って書いてあるんですもの」
「俺も同じ意見だよ。なにはともあれZ艦隊再建計画は順調みたいで何よりだな。あと、心配なのは水兵の訓練くらいか。松浦水軍のナントカいうおっちゃんは上手くやってくれてるのかなあ。まあ、他人事だからどうでも良いんだけど」
「さあ、大佐。川舟よ。さっさと乗っちゃいましょう」
以前、大作が融資をして立ち上げた川内川の旅客川舟の舟着き場は見違えるように立派になっていた。乗り場の手前にはちゃんとした屋根が付いた待合所があり、質素だが清潔そうな着物を着た若い女性が受付に座っている。
むさ苦しいおっちゃんが一人でやっていた川舟とは大違いだ。もはや、昔日の面影はどこにも残っていないらしい。
「いらっしゃいませ。大人がお二人様ですね。何方まで参られますか?」
「虎居までお願いします。って言うか、拙僧は大佐と申します。つかぬことを伺いますが、株主優待とか無いんですかな? この川舟を立ち上げる折に資金を提供させて頂いた者なんですけど」
「大佐様? ああ! 頭領から聞いております。その節は大層とお世話になったそうな。お顔を存じ上げず御無礼仕りました。大恩ある大佐様からお足を頂戴する訳には参りません。ささ、お乗り下さりませ。お連れのお方はお園様にござりましょうか? どうぞどうぞ、特等席へ。ちと寒うございますので宜しければこの筵をお使い下さりませ。こちらのお茶もご随意にお飲み頂いて結構にございます。お茶菓子もお好きなだけどうぞ。すぐに船頭が参ります故、今暫くお待ち下さりませ」
何だか知らんけど随分と詣れれ尽くせリのサービスだなあ。あまりにも過剰な接待を受けると反って不安になっちゃうんですけど。大作の胸中に何とも言えない漠然とした不安が漂ってくる。
「何を怯えているのよ、大佐。まるで迷子のキツネリスみたいね」
「いやいや、こんな大盤振る舞いしていて経営が持つのかなあって心配してたんだよ。知っているか、お園。かつて、アメリカン航空は手っ取り早く資金調達しようと思って生涯ファーストクラス乗り放題チケットっていうのを二十五万ドルで売ったことがあるって。1981年の話なんだけどさ」
「1981年っていうと二月にレーガン大統領の経済再生計画が発表された年よねえ? 確かドルが年初の二百二円から八月には一時二百四十六円にまで急騰した年だわ。まあ、ここでは仮に一ドル二百二十円としておきましょうか。ってことは五千五百万円になるわねえ」
「そ、そうだな。って言うか、お前。過去のドル相場が頭の中に全部入ってるのか? FXとかやったら大儲けできそうだな」
流石は完全記憶能力者。頭の中に数字がぎっしり詰まっているんだろうか。大作は驚きの余り暫しの間、二の句が継げなくなってしまった。
ぽかぁ~んと口を開けて呆ける大作を哀れに思ったのだろうか。痺れを切らした顔のお園が先を促した。
「それで? その乗り放題チケットがどうしたって言うのよ? 続きを聞かせて頂戴な」
「1994年に販売が終わるまでに二十八人もの人がこのチケットを買ったんだそうな。ってことは七百万ドルを売り上げたってことだよな」
「ざっと十五億四千万円だわ。今の世で言えば銭一万貫文にもなるかしら。アメリカン航空は大金を手に入れたわけね。良かったじゃないの」
「ところがギッチョン! チケットを買った奴の中にはどんでもない奴もいたんだよ。ある男はこのチケットを使って一万回以上も飛行機に乗ったんだそうな」
「えぇ~っ! 一万回ですって?! それって毎日乗っても二十七年にもなるわよ。そのお方はよっぽど飛ぶのがお好きだったのねえ。私、飛ぶのはもう懲り懲りだわ」
苦虫を噛み潰したような顔のお園が忌々し気に口元を歪める。
でも、そんなに飛ぶのが嫌だったのかなあ。結構、ノリノリで飛んでたような気がするんだけれど。
もしかして思い出っていうのは美化されるとは限らないんだろうか。思い出の悪化とか劣化ってあるのかなあ? だとしたら……
「ちょっと、大佐。ノックしてもしもぉ~し! 帰ってきて下さぁ~い!」
「あ、あぁ…… めんごめんご、ちょっと考えごとをしてたんだ。んで、話を戻しても良いかな? その飛行機一万回男の他にもとんでもない奴がいたんだよ。一年に二百万マイルも飛行機に乗った男がいたんだとさ。友達と昼飯を食いにロンドンやパリに行ったそうな」
「二百万マイルっていうと八十万里くらいよねえ? それって地球を八十周ってことじゃないの! 八十日間世界一周じゃなくて世界八十周だなんて阿呆じゃないかしら。もういっそ、空でお暮らしになったら良いんじゃないのと違う?」
「とにもかくにもアメリカン航空はその二人が不正行為をしたって言いがかりをつけてチケットを無効にしちゃったんだとさ。乗り放題って言って売っておきながら、乗り過ぎだって無効にするだなんて酷い話だと思わんか? 二百万マイル飛んだ人は今はユナイテッド航空を愛用してるんだとさ。どっとはらい!」
そんな阿呆な話で大作とお園が盛り上がっている間にも川舟は川内川を遡る。遠く視界の先には平佐城が霞んで見えてきた。




