巻ノ四百四拾 メイちゃんは黒執事 の巻
ジョン万次郎と弘法大師の遺徳を偲びながら大作と愉快な仲間たちは土佐清水で一泊を過ごした。
翌、天文十九年十月十四日。朝は例に寄って例の如く、一同は空は暗いうちから出航する。
「今日も良い風が吹いておるようですな、船長」
「左様にございますな。これならば日が暮れるまでに日向に着く事も難しゅうはござりますまいて」
ニコニコ顔の船長は上機嫌で船尾の方へ戻って行く。
『お前がそう思うんならそうなんだろう。お前ん中ではな!』
大作は心の中で呟くが決して顔には出さない。
あっと言う間に陸地が遠くなり、またもや昨日のように周囲三百六十度が海に囲まれてしまった。
だが、流石に二日連続だと皆も慣れっこになっているようだ。誰の顔をみても余裕に満ち溢れ、緊張感の欠片も見えない。
暫くすると暇を持て余したといった顔のお園が話し掛けてきた。
「ねえねえ、大佐。日向と言えば、私たちが初めて筑紫島に来た折も日向で船を降りたわよねえ。此度も日向から歩くのかしら?」
「いやいや、今回は行けるところまでとことん船で行ってもらうぞ。具体的には久見崎の辺りまでだな。なるべくなら歩くのは少なくしたいだろ?」
「それはそうだけど…… でも、幾日も歩かずに座っていたら足腰が弱っちゃわないかしら? ほら、国際宇宙ステーションとかに長期滞在した宇宙飛行士みたいにね」
「そ、そうかなあ? ああいう人たちは筋力や骨密度が低下しないように毎日時間を決めてトレーニングとかをやってるんじゃなかったっけ? まあ、それでも地球に帰還した後にへにゃへにゃっとなっちゃうみたいだけど」
大作は必死に頭をフル回転させて適当な相槌を打つ。だが、残念ながらお園の納得を得ることはできなかったようだ。不満げに頬を膨らませると深く考え込むように小首を傾げた。
「うぅ~ん…… だったら私たちも体を動かした方が良いんじゃないかしら? 筋力低下は認知症や鬱のリスクを高めるっていうわよ。海自の護衛艦乗りのお方々だって甲板を走ってたりするじゃない? 潜水艦だと如何なされておられるのかしらねえ?」
「すれ違うのすら難しい狭い潜水艦内でのランニングは無理があるな。たぶん、トレーニングマシンとかを使ったエクササイズじゃないのかな? 知らんけど! とれか、腕立てやスクワットなら器具を使わんでも済むな」
「スクワット! 其は如何なる物なのかしら? 私めは気になるわ!」
目をギラギラ輝かせたほのかが獲物に食いつく猛犬みたいに駆け寄ってきた。大作は思わず両手を眼前でクロスさせながら半歩だけ後ずさった。
「スクワットって言うのは…… そりゃあアレだよ、アレ。英語の『squat』じゃろな。確か『しゃがむ』っていう意味だよ。たぶんだけど……」
大作はスマホで英和辞典を表示させるとお園とほのかの眼前に交互に翳した。
ほのかはそれで納得したのだろうか。急に興味を無くしたように素に戻ってしまう。
だが、お園は一歩たりとも退くつもりは無いらしい。まるで噛み付くような勢いで詰め寄ってきた。
「しゃがむ? 蹲むってこと? 要するに屈むのよね? そんなんで筋力低下を妨ぐる事が叶うのかしら?」
「叶うのかしらって言われてもなあ。知らんがなぁ~っ! スクワットは筋トレの基本中の基本だぞ。って言うか、しゃがむだけじゃないんだ。しゃがんだ後に立ち上がる方が筋トレの肝なんだぞ」
「ふ、ふぅ~ん。そうなんだあ……」
お園はイマイチ納得が行かないといった顔だが取り敢えず矛先を収めてくれたようだ。
「んで? スクワットっていうのはどういう風にやるのかしら? やって見せて頂戴な、大佐」
「やって見せ。言って聞かせてさせてみて。褒めてやらねば人は動かじだもんな。それじゃあ、目をかっぽじって…… じゃなかった、刮目して見てくれよ。まず、これが腰をしっかり落とし込むフルボトム・スクワットだな。膝に負担が掛け過ぎないよう用心してくれよ。それより軽いのがフル・スクワット。軽いとは言っても太ももを水平までは曲げなきゃならん。パワーリフティング大会なんかだとここまで曲げないと失格になっちまうから注意してくれ。んで、膝が直角になった時に止めるのがハーフ・スクワット。これがクォーター・スクワットになるともう少し手前の三十度から四十五度くらいになる」
「ちょっと待って、大佐。フルボトムにフル、ハーフ、クォーターね。覚えたわ。続けて頂戴な」
「他にも有名なヒンズー・スクワットってのがあったっけ。爪先で立って腕の反動で立ち上がる奴だ。片足でやるシングル・レッグ・スクワット。膝を伸ばす時に飛び上がるジャンピング・スクワット。ダンベルを使ったダンベル・スクワット。バーベルを使ったバーベル・スクワット。スミスマシンを使ったスミスマシン・スクワット。バランスボールを使えばバランスボール・スクワットってな具合だな」
「な、何なのそれは? 訳が分からないわ……」
まるで放心したかの様に暫しの間、お園の目から光が消える。だが、数瞬の後に再び瞳の奥にメラメラと炎が燃え上がった。
「それじゃあ、大佐! ますは『やって見せ』ね。お手本を見せて頂戴な」
「はいはい、分かりました。やれば良いんだろ、やれば。って言うか、今やろうと思ったのに言うんだもんなぁ~っ!」
それから暫しの間、船の上では女性陣や木下ファミリーはもちろん、船長や水主までもが参加して一心不乱にスクワットに励んだ。
日が西の空に傾いたころ、船は静かに砂浜に乗り上げた。いつもの如く水主たちがテキパキと船を固定する。
大作たちは陸に上がって長時間の筋トレで悲鳴を上げている大腿四頭筋をクールダウンさせた。
「思うておったよりも風に恵まれましたな。此処は日向より二里ばかり南の美々津にございましょう」
「美々津って言うとアレですな、アレ。神武天皇が東征に向かわれた折、此処から船出したとか何とか。そのせいで昭和十七年(1942)には日本海軍発祥之地っていう碑が建てられたんだとか。まあ、幾ら何でもこじ付けにもほどがありますけど。あはははは……」
「さ、左様にございますか。あはははは……」
分かったような分からんような曖昧な愛想笑いを浮かべた船長が去って行く。変わって現れたのはサツキとメイの凸凹コンビだ。
「ねえ、大佐。彼処に見えているのが耳川よね? 耳川の合戦があったんだったかしら?」
「良く覚えていたな、メイ。ちなみにあの合戦では大友宗麟が神社仏閣を焼き尽くしたらしいぞ。なんせ、あいつは切支丹だからな。まあ、今から二十八年も先の話なんだけどさ」
「だったら何の憂いも無いわね。今宵も枕を高くして眠れるわ」
「そうだな。富士山くらい高くして眠ってくれ」
「それじゃあ私はエベレストくらい高くするわよ」
「だったら…… だったら俺は火星のオリンポス山くらい高くして眠るぞ!」
「あっそう、良かったわね……」
美々津の港としての歴史は随分と古いらしい。Wikipediaによれば室町時代から日明貿易で栄えていたんだそうな。
この日も巨大な材木を満載した船が何艘も出入りしていた。余り目立ちたくない大作たち一行の船は隅っこの方に大人しく停泊する。
翌日は生憎の曇り空だったが風向きや風速は相変わらずの好天順風だ。一同は日も暗いうちから美々津を後にした。
「ほのか、知っているか? 美々津には昔、国鉄のリニア実験場があったんだぞ。っていうか未来に作られるんだ。昭和五十四年(1979)には時速五百十七キロで当時の磁気浮上式鉄道の世界記録を達成したそうな。昭和五十七年(1982)にはリニアで世界初の有人走行試験にも成功しているし。凄いだろ?」
「す、凄いわね。何だか知らんけど。私めも乗ってみたかったわ」
「まあ、新実験線が山梨に移ったんで美々津の実験線は平成八年(1996)にお役御免になったんだけどな。どうしても乗りたきゃ山梨に行ってくれ。それか、ここで四百三十年ほど待つかだな」
「どっちも嫌よ。私めはそこまでしてリニアに乗りたくもないわね」
そんなリニア談義に明け暮れている間にも船は九州東岸に沿って南へと進む。昨日までとは打って変わって陸地を見ながらの航海なので一同の顔にも安心感が漂っている。
宮崎から日南の沖を通り過ぎ、都井岬を掠める。志布志湾を通り過ぎるころ、日が傾いてきたので内之浦に停泊した。
「今現在、ここは肝付の支配下らしいな。まだ、肝付と島津は友好関係だけども渋谷三氏とだって揉めてる訳でも無いから普通にしてても大丈夫じゃろ」
「今はってことは、その内に揉めるのかしら?」
「祁答院や入来院が島津に破れ、蒲生が降伏した辺りで漸く自分たちもヤバいと気付いたんだろうな。史実だと永禄元年(1558)に伊東と組んで島津に対抗するらしい。まあ、俺たちが岩剣城の戦いで負けさえしなければ未来も変わってくるんだろうけどな」
「もしそうなったら肝付と戦わなきゃならんかも知れんわね」
「そうだなあ。肝付は大隅一帯を支配しているから勢力としては島津に劣らんくらいだ。向こうの出方にも寄るけど、島津の次は肝付や伊東と戦うことになるかも知れんな」
そんな話をしている間にも夕餉の支度ができた。一同は大きな丸い輪になって食事をとると早目の床に就いた。
翌、天文十九年十月十六日。朝起きて顔を洗って歯を磨き、朝食をとる。
今日も判で押したようにいつもと変わらないルーチンワークを済ませると日も暗いうちから出航した。
「生活に変化が無いなあ。こうも単調だと飽き飽きしちゃうぞ。まあ、港に寄れるだけマシか。太平洋のど真ん中を何ヶ月も単独航海してるよりかは」
「そういえば、昨日泊まった内之浦には宇宙空間観測所があるんだったわね」
「あるって言うか何て言うか…… 四百年後くらいに作られるんだよ。それはそうと、お園。榮倉奈々は内之浦出身だって知ってたか? メイちゃんの黒執事…… じゃなかった、メイちゃんの執事の人だぞ」
「榮倉奈々? 大佐ったら、その女にも懸想していたの?」
「いやいやいや、余命一ヶ月の人ですから! そんな人に嫉妬してどうすんだよ? な? な? な?」
頬を膨らませたお園を眼の前にして大作は必死に宥め賺す。一同を乗せた船は大隅半島の沖合を南西へ向かって順風満帆に進んで行った。




