巻ノ四百参拾七 船は出て行く皆をおいて の巻
大作と愉快な仲間たちを乗せた船が鈴鹿の沖合に着いたのはその日の夕刻だった。船は金沢川の河口付近にある千代崎港の砂浜へ静かに乗り上げると動きを止める。
水主たちが忙しなく動き回って船を固定した。大作たちはせめてものお礼に積み荷を降ろす作業を手伝う。
作業が一段落したのを見計らって船長が話しかけてきた。
「儂らは今宵、此処で一夜を明かします。和尚は如何なさるおつもりで?」
「もうじき日も沈みますな。拙僧らも御一緒して宜しいですか?」
「今さら遠慮は無用。ささ、此方へお出で下さりませ」
大作は漁港まで足を運んで魚を調達し、お園が音頭を取って夕餉を作る。
一同は久々の海鮮料理に舌鼓を打つ。食後は暫しの歓談の後、早目に床に就いた。
一夜が明けて天文十九年十月九日。朝も早いうつに船は港を離れて行った。
大作たちは全員総出で見送った後、西に向かって歩き出す。
「ナカ殿、小竹、旭。我々は今、伊賀を目指して歩いている。ちなみにサツキやメイ、ほのかは伊賀の出なんだ」
「ほぉ~ぅ、左様にございますか」
「んで、伊賀でちょいと休んだら堺へ向かう。港には来る時に乗ってきた船が待っているはずだ。そいつに乗れば四、五日もあれば筑紫島へ帰れるだろう。あとは川内川を川舟で遡上すれば半日で虎居。そこから半日も歩けば懐かしの山ヶ野に着くって寸法だな」
「大佐の開かれた山寺とは如何ほどの物にござりましょう。心ときめきまするな。早う見とうて気が急いてなりませぬ」
「あんまり期待し過ぎないでもらえるかな、小竹。後でがっかりされても困っちゃうし。って言うか、俺たちだってもう二ヶ月も留守にしてるんだ。いったいどんな風になってるものやら見当も付かないぞ」
そう言った途端、大作は不意に言葉では形容し難い漠然とした不安感に苛まれる。
コロンブスは第一回目の航海で現地に一部の船乗りを残留させて拠点を作ったそうな。だが、一旦帰国して翌年に戻ってみれば拠点は現地人の襲撃によって壊滅していたんだとか。
もし山ヶ野で金が採れることが祁答院の殿にバレてたら武力で制圧されるかも知れん。念のため防御施設を作ったり、民兵組織を訓練したりで精一杯の対策は施した。だけども祁答院が総力を挙げて攻撃してきたら恐らくは一溜りもないだろう。
これはもう駄目かも分からんな。いや、きっと駄目に違いない。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏……
と思ったけど、まあどうでも良い話か。どうせ他人事だし。大作は考えるのを止めた。
鈴鹿川に沿って亀山、関宿を通る。家康も通ったあの加太峠を越えると伊賀はもう目の前だ。目の前なのだが……
日が落ちてきたので止む無く柘植の辺りで一泊となった。
「前に伊賀の山の中で夜を明かした時は熊が怖かったなあ。覚えてるかお園、藤吉郎?」
「そうねえ、あの時は代わり番こで寝ずの番を立てたわねえ」
「熊が出ずに済んで幸いにござりましたな」
「今宵は儂らがおります故、ご安堵下さりませ。熊如きは我らが返り討ちにしてくれましょうぞ」
ドヤ顔を浮かべた大猿が大見得を切り、隣で小猿が激しく頷く。
だが、大作の目には自信満々の二人が盛大な死亡フラグを立てているようにしぁ見えない。
まあ、良いか。もし熊が現れても二人が食われてる間に逃げれば良いんだし。
大作は考えるのを止めた。
翌朝、空も暗いうちに目が覚めてしまった。幸いなことに誰も熊に食われてはいないようだ。大作はほっと安堵の胸を撫で下ろす。
朝餉を済ませるのも早々に一同は移動を開始する。柘植から新堂を通った後、広々とした平野を南に向かう。
来る時にも通った道なので迷う心配も無い。途中途中で適宜休憩を挟みながら歩くこと半日。日が高く登る頃には懐かしい百地丹波屋敷へと辿り着いた。
「フン! 半年前と同じだ。何の補強工事もしておらん!」
「そうかしら? 門の所がちょっとだけ違ってるみたいよ?」
「いやいや、アレは痛んだ所を修理しただけなんじゃね?」
「それだって補強工事に違いはないでしょうに!」
「まあまあ、お園様。気を平かになされませ。百地様が目を丸うされておられますぞ」
言われて門の脇に目をみやれば懐かしい顔が突っ立っていた。流石の百戦錬磨の忍者マスターも二人の激しい口論にドン引きといった顔だ。
「おお、百地殿。お久しゅうございますな。お変わりはございませぬか?」
「何を呑気な、大佐殿。余りにもお帰りが遅いので肝を冷やしましたぞ。大佐殿こそお変わりはございませぬか?」
「いや? どうなんでしょうな。男子三日会わざれば何とやら。って言うか、人間の体細胞はどんどん入れ替わっておりますからな。筋肉細胞なんて早ければ一月で六割、遅くとも二百日で入れ替わるらしいですな。皮膚はほぼ一月、血は百日から百二十日くらい。骨は幼児期は一年半、成長期で二年足らず、成人は二年半、七十歳以上の年寄りでも三年もあれば全て入れ替わってしまうんだとか」
「だけども大佐。それだと一番早い皮膚でも入れ替わるのに一月は掛かるのよねえ? 三日だとせいぜいい一割くらいしか変わっていないわよ。だったら『男子半月会わざれば刮目して見よ』くらいにしておいた方が良いんじゃないかしら?」
「そ、そうかも知れんな。うん、今度からはそうするよ。んで、百地殿。もうお昼ですな。丁度お腹が空いてきたんで何か食べさせてもらっても良いですかな?」
例に寄って例の如く、大作は脱線しそうになった話題を強引に打ち切る。その間にもお園は勝手知ったる他人の家とばかりに百地丹波の屋敷に上がり込んでいた。
日が変わって天文十九年十月十一日。朝も早いうちから一同は伊賀を後にする。
「では、百地殿。大変長らくお世話になりましたな。感謝に堪えません。もし、筑紫島にお出でになることがあれば是非とも山ヶ野にお立ち寄り下さりませ。タダで何泊でもお泊めいたしますぞ。もちろん食事もサービス致しますんでご遠慮なさらずに」
「有り難き幸せに存じまする。道中、お気を付けてお帰り下さりませ」
「大猿殿、小猿殿にもお世話になりましたな。お達者で。これにて御免」
そんなこんなで来る時に通った道を逆に辿って堺を目指す。終日、山道を歩き続けて足が棒のようだ。何とか日が暮れる前に山道を抜けて奈良盆地へと辿り着いた。
翌日も歩いて歩いて歩き続ける。まるでデスマーチか自衛隊の行軍訓練のようだ。
やはり何らかの交通機関を実用化せねば。この際、贅沢は言わん。何なら自転車でも良い。歩くより楽な移動手段を一日も早く実用化しなくては。
ひたすらそんな益体も無いことを考えている間にも日が西の空に傾いてくる。どうにかこうにか堺の街に辿り着いたのは辺りが薄暗くなるころだった。
「天王寺屋、天王寺屋…… あった、ここだ! ノックしてもしもぉ~し!」
「へぃ! って、和尚は大佐様ではござりますまいか? 御無事にござりましたか? ただいま主人をば呼んで参ります故、此方へお上がりになってお待ち下さりませ」
名前は知らないが見知った顔の丁稚どんが血相を変えて店の奥に慌ただしく駆けて行く。いったい何をそんなに怯えているんだろうか。まるで迷子のキツネリスみたいだなあ。大作は心の中で嘲り笑うが決して顔には出さない。
待つこと暫し。パタパタと大きな足音を立てながら津田宗達が姿を現した。
「いやぁ~っ、大佐様! 生きておられたのですな! 戻ると申されておられた日から早一月、何の音沙汰もございませなんだ故、とうの昔に身罷られたかと憂いておりましたぞ。いやいや、御無事で何よりにございますが」
「そ、そうなんですか? もしかして俺、またやっちゃいました? それってトム・ソーヤ状態ってことですよね? そいつはとんだご心配をお掛け致しまして申し訳次第もございませんでしたな。でも、便りが無いのが良い便りって言うじゃありませんか? 言わない? 言わないんですか……」
「大佐様を乗せて参った船も痺れを切らせて帰ってしまいましたぞ。今ごろ筑紫島では大佐様の弔いでもやっておるのではござりますまいか? 一日も早うお戻りになられた方が宜しゅうございますぞ」
半笑いを浮かべた津田宗達は茶化すような軽い調子で言ってのける。
「船が…… 船が帰っちゃったんですか? 我々を置き去りにして? 天は…… 天は我々を見放した……」
大作は喉の奥から振り絞るように小さな呻き声を出すとツルツルのスキンヘッドを抱えてその場にしゃがみ込んだ。




