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巻ノ四百参拾六 人はパンのみにて生くるに非ずんば虎子を得ず の巻

「知らない天井だ……」


 一夜が明けて天文十九年十月八日。目を覚ました大作の眼前に広がっていたのは今となってはすっかり見慣れた一人用テントのインナーだった。


「あのねえ、大佐。いまさら何を言ってるのよ。いったい何編このテントで寝たと思っているのかしら?」

「さ、さあなあ…… だったら聞くけど、お園。お前は今までに食べたパンの枚数を覚えているのか?」

「あら? 私、パンなんて一枚たりとも食べた事は無いわよ。それにパンが無ければお菓子を食べれば良いんだし」

「いやいや。朝食の代わりにお菓子を食べるだなんて健康に悪いんじゃね? とにもかくにも取り敢えずは朝飯にしようじゃないか」


 何とも噛み合わない会話をしながらも二人はテントから外に出ると朝餉の支度を手伝う。手伝おうと思ったのだが……

 藤吉郎の母、ナカが既にすっかり支度を整えてくれていた。


「も、申し訳ございませんな。ナカ殿。何から何までお任せしちゃって」

「妾も何のお手伝いもできませんでした。申し訳ございませぬ」


 神妙な顔つきのお園も深々と頭を下げる。内心では何を思ってるのか知らんが取り敢えずは常識的な対応を取るつもりのようだ。


「何をおっしゃいますやら、大佐様。ささ、皆さま方も早うお召し上がり下さりませ。何もございませぬが、せめて温かいうちにどうぞどうぞ」


 言われて食卓へと目を見やれば板の間に薄汚い椀が並んでいた。中に注がれている得体の知れない雑炊がほかほかと湯気を立てている。


『これだけ? たったのこれだけなんですか?』


 大作は思わず口から出そうになった言葉を既のところで飲み込んだ。


「さあ、大佐。頂きましょうよ。良かったら、お経でも唱えてくれるかしら?」

「いや、俺はキリシタンに改宗したんじゃなかったっけ? だったら食前の祈りの方が良いかも知れんな」

「お経でもお祈りでもどっちでも良いからとっとと終わらせて頂戴な。私、お腹が空いて目が回りそうなのよ」

「そ、そりゃあ悪かったな。了解、了解。んじゃあ、腕に撚りを掛けて精一杯のお経を上げさせてもらうよ。それでは、般若心経です。聞いて下さい。仏説摩訶般若波羅蜜多心経……」


 大作は思いっきり早口で般若心経を唱える。終わるが早いか一同は飢えた野獣のように食事へ飛びついた。


「ハムッ ハフハフ、ハフッ!! これぞ人間火力発電所!」


「大佐! 黙ってお食べなさいな。お行儀が悪いわよ」

「えぇ~っ! お園、お前だっていま喋ったじゃないかよ」

「あのねえ、大佐。人に注意する時だけは話しても良いのよ。バートランド・ラッセルの階型理論ってあるじゃない。聖書に『クレタ人は嘘つきである』ってクレタ人が言ったとかいう話にしたって……」

「いやいや、ゲーデルの不完全性定理ってあるだろ? 矛盾を含まない論理体型は、それ自身では……」

「いいから黙ってお食べなさい!!!」


 ここでナカから雷が落ちた。それもラピュタの雷くらい強烈な奴だ。きっとラーマヤーナではインドラの矢とか言われてるんだろうなあ。大作は例に寄って例の如く、益体も無いことを考えながら冷たくなってしまった雑炊を啜った。




 食器洗いを終えるのももどかしく、一同は出発の準備を整える。

 ナカはこの家を引き払う件に関して昨日のうちに村の名主や近所の人に話を付けていたらしい。ちょうど農閑期だったこともあって面倒な手続きは最小限で済んだそうだ。

 お隣やお向かいの人々の見送りを受けながらナカ、小竹、旭の三人は長年住み慣れた我が家を後にする。その横顔は皆、期待と不安で一杯のようだ。


「まずは庄内川まで出て、下りの川舟を探すとしよう。ひい、ふう、みい…… 十一人もいるのかよ! 萩尾望都もびっくりだな。ちょっとした大世帯…… って言うか、サッカーチームが作れるぞ。こりゃあ下手したら三艘くらいに分乗しなきゃならんかも知れんな」

「津島くらいまでなら然程は離れておりませぬ故、儂らは走って参っても宜しゅうございますぞ」

「うぅ~ん、そうですかな? 大猿、小猿殿。舟は宜しいそ、舟は。正に人類の至宝。科学の勝利ですからな。まあ、どうしても走りたいって言うんでしたら無理にお止めは致しませんが」


 そんな阿呆な話をしながらも大作はバックパックからタカラトミーのせんせいを取り出すと『津島』を殴り書きして頭上に高く掲げる。

 待つこと暫し、農産物らしき積み荷を山ほど積んだ三十石くらいの高瀬舟がどんぶらこっこと川を下ってきた。


「みんな、親指を立てろ! 特に女性陣。精一杯の愛想を振りまくんだ。Hey,come on!」


 大作は『勝訴!』とでも言わんばかりの勢いで右手に抱えたタカラトミーのせんせいを振り回す。もちろん左手は立てた親指を突き出している。気分は溶鉱炉に沈んで行くシュワルツェネッガーだ。

 大騒ぎする集団がよっぽど気に掛かったんだろうか。船頭は巧みに竿を操ると舟を川岸に寄せてくれた。


「いやいや。申し訳ございませぬなあ、船頭殿。これは僅かだが心ばかりのお礼だ。取っておきたまえ」


 大作は縮地でも使ったかのように一瞬で舟に飛び乗ると間髪を容れずに船頭の手に金塊を渡す。

 初老のおっちゃんはほんの一瞬だけ唖然とした顔になる。だが、すぐに満面の笑みを浮かべるとぺこぺこと頭を下げた。


「ささ、お坊様。此方へお座り下さりませ。汚い筵で申し訳ございませぬが宜しければ敷物にお使い下さりませ。ちと窮屈にございますがお連れ様も此方へ。お足元に用心なされませ。どうぞどうぞ」

「忝のうございます」


 一同は積み荷の隙間にどうにかこうにか居場所を見付けて潜り込む。

 その後、暫くの間は退屈な時間が続いた。


「なあなあ、川の向こう側に見えているあの堤防って何だか知ってるか? アレは応永七年(1400)に尾張守護となった斯波義重が造った武衛堤(ぶえいづつみ)だぞ。大浦沼の氾濫から清須を守ろうと思ったんだろうな。義重は斯波氏武衛家とかいう家の当主だったとか何とか」

「随分と長い堤ねえ。どれくらいあるのかしら?」

「七キロって書いてあるから二里弱ってところじゃね? いったいどれ程の予算が掛かったんだろな。さぱ~り見当もつかんな」

「彼方側は宜しいが此方側は大雨の度に川が溢れて難儀しております」


 ほとほと困り果てたといった顔の小竹が小さく愚痴る。ナカや旭も禿同といった顔で激しく頷いた。


「まあ、皆はもう百姓を辞めたんだからどうでも宜しいでしょう。後は野となれ山となれですよ」


 史実では江戸時代に大規模な河川の改修や輪中の建設が行われる。だが、この世界線でそれがどうなるのかは神のみぞ知るだ。

 そうこうする間にも舟は川を下り続けて河口が近付いてきた。


「あれがかの有名な藤前干潟だな。ラムサール条約の登録地にもなってるらしいぞ。たぶんだけど」

「らむさあるじょうやく? 其は如何なるじょうやくなのかしら? 私めにも分かるように説いて頂戴な」

「はいはい、ほのか。どちて坊や乙。その件に関しては船に乗ってからゆっくりと説明してやるよ。取り敢えずは四日市か鈴鹿の辺りに向かう船を探さにゃならん。ここからは時間との戦いだ。大急ぎで探すぞ」


 船頭に丁寧に礼を言って舟を降りる。もちろんレディーファーストだ。中でも一番年配のナカから降りてもらう。


「まずはあの大きな船から行ってみよう。頼もぉ~う! 船長(ふなおさ)殿はご在宅なか? いや、ご在宅は変かな? でも、海自の護衛艦だと住民票を艦にされちまうってネットで見たことあるしな。そうそう、そう言えば……」

「おやおや、これはまた珍しき哉。誰かと思えば大佐様ではござりませぬか。お久しゅう存じまする」


 予想外の方向から掛けられた声の方へ振り返ってみれば恰幅の良い中年男性がにこやかな笑顔を浮かべていた。

 おやおや、この人は誰だっけ? 大作は頭をフル回転させて記憶の糸を手繰る。記憶の糸を手繰ったのだが……

 髪の毛よりも細い糸はまるで芥川龍之介の蜘蛛の糸のようにプッツリと途切れてしまう。

 だが、捨てる神あれば拾う神あり。ドヤ顔を浮かべたお園が深々と頭を下げながら口を開いた。


「これはこれは船長殿。随分と久方振りに存じます。吉田から安濃津へ乗せて頂いた折は随分とお世話になり、有り難うございました」

「いやいや、此方こそ嵐を鎮めて頂いた御恩、忘れた事はございませぬ」


 そうか! このおっさんはあの時の船長だったのか。ようやくながら状況が飲み込めてきた大作はほっと安堵の胸を撫で下ろす。

 だが、そう思った矢先に全く違った方向から鋭い指摘が飛んできた。


「おや、あの折の小坊主殿もご一緒か? 確か高野山へ連れて参ると申しておられませんでしたかな?」

「あ、ああ…… あの件ですか? アレはアレですな。高野山に連れては行ったんですよ。行ったんですけど今年度の募集は終了していたとか何とかで門前払いを食らっちゃったんですよ。テヘペロ! んで、その後は巫女のお園と一緒に堺や筑紫島に行ったり、安芸国や甲斐国、信濃国へ行ったりと諸国を漫遊してるんですよ。此度は連れも多いですが宜しければ四日市か鈴鹿の辺りまで乗せては頂けませぬか? これは僅かだが心ばかりのお礼だ。取っておきたまえ」


 大作は馬鹿の一つ覚え宜しくお得意の名セリフを口にしながら船長の手に金塊を押し付けた。

 おっちゃんは受け取った金塊を一瞥した後、一同の顔をゆっくりと見回すと素早く懐へ仕舞い込んだ。


「ささ、和尚。むさ苦しい船にございますがどうぞお乗り下さりませ。お足元にお気を付けなされ。巫女様もどうぞどうぞ」


 これぞ見事なばかりのビジネススマイルという奴か。満面の笑みを浮かべる船長に大作は内心でちょっとだけ引いてしまった。




 暫しの後、二百五十石くらいの船は沖へ向かって漕ぎ出していた。例の嵐の際、水主たちが総出で切り倒した帆柱も綺麗に新調されたようだ。麻布で出来ているらしい大きな帆は順風満帆に風を孕んでいる。


「船は良いなあ…… 正に人類が作り出した究極の至宝。科学の勝利だよ。そうは思わんかね、お園君」

「ど、どうしたのよ、大佐。もしかして変な物でも食べたのかしら? 何だかいつもに…… じゃなかった、いつにも増して妙な具合ねえ」

「そりゃあ浮かれたくもなるさ。何てったったラピュタのお宝だよ。ところで小竹、さっきからどうしたんだ? なんだか顔色が悪いみたいだぞ。もしかして船に酔ったのか?」

「そ、某は川舟に乗ったことはございますが海へ出たのは初めてのこと故…… そう言えば、旭。お前は大事ないのか?」

「兄さま、旭も先ほどから何やら怖気が立ってしょうがありませぬ……」


 駄目だこりゃ。ナカだけはかろうじて何とかなっている。だが、船旅デビューの二人は見ているだけで気の毒になりそうな惨状だ。これは取り敢えず藤吉郎に付き添わせて船尾で介抱させるしかなさそうだ。

 はたしてこんな調子で九州までの船旅が出来るんだろうか? 大作は早くも警告灯が点滅している気がしてならない。

 と思いきや、好事魔多し。背後から近付いてくる気配に振り向いてみれば満面の笑みを浮かべたほのかがちょこんと立っていた。


「ねえねえ、大佐。ところで『らむさあるじょうやく』っていうのは如何なるじょうやくなのかしら? そろそろ教えて貰いたいんだけど?」

「お、お前は本当にブレない奴だなあ…… しょうがない、説明しようか。ラムサールっていうのはイランにある街の名前だな。そこで1971年の2月にとある国際会議が開かれたんだ。んで、湿地に関する条約が採択されたんだとさ。確か正式名称は『特に水鳥の生息地として国際的に重要な湿地に関する条約』って言うんだけれども……」


 こうして大作と愉快な仲間たちを載せた船は伊勢湾を滑るように南へ向かって進んで行った。


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