巻ノ四百参拾四 目指せ!中村を の巻
一夜が明けて天文十九年十月四日。大作たちは相も変わらず伊那谷を南に向かって進んでいた。
天竜川の河岸段丘や断層崖は想像を絶するようなスケールだ。しかも標高差が五十メートルを超えるような段丘を横切るように左右から大田切川や中田切川、与田切川といった支流が流れ込んでくる。
休憩舎の崖を真っ直ぐに登り降りするわけにも行かない。お陰で道は大きく迂回するように折れ曲がっている。実際に歩く距離は地図で見るよりもずっと長くなってしまった。
「川舟に乗れたら良かったのになあ」
「此度ばかりは人数が多過ぎるわ。かと言って、私たちだけが舟に乗るのも悪いし」
「まあ、今日中には飯田まで行けるんじゃね? そうすると明日には中津川。明後日には春日井。明々後日には熱田に着けたら良いなあ。んで、そこから船に乗れば鈴鹿の辺りまでは歩かずに済む。後は二日も歩けば伊賀に帰れるぞ」
「だけども、大佐。伊賀から堺まで、また二日は歩かなきゃならないわね。そこから筑紫島まで船に幾日も揺られるし。んで、久見崎から川舟で一日。虎居から山ヶ野までもう一日。いったいどれほど歩かなきゃならないのかしら。私、もう嫌になってきたわ」
がっくりと肩を落としたお園が盛大なため息をつく。周りに居並ぶ女性陣たちも禿同といった顔で激しく頷いた。
だが、藤吉郎だけは他者への共感能力に深刻な欠陥でも抱えているのだろうか。何とも形容のし難い薄ら笑いを浮かべると、さぱ~り分からんというように小首を傾げた。
「どしたん、藤吉郎? もしかしてお前は『歩くの大好きぃ~っ!』とかいうアレか? トトロのエンディングテーマみたいに?」
「いやいや、大佐。お言葉にござりますがトトロとは何の関わりもございません。某とて歩く事を殊更に好ましゅう思うておる訳ではございませぬ。然れども……」
「んじゃあ、いったい何なんだ? 歩くのが好きじゃないって言うんなら皆と一緒に嫌そうな顔をしろよ。それが仲間って物だろ? 違うかなあ?」
「いやいや。いま言おうと思うておったのに申されるのですからなぁ~っ! お聞き下さりませ、大佐。前にも一度、言上仕りましたが某には小竹と申す弟がおり、今は尾張国の中村で百姓をしております。身内の某が申すのも何ですが、此れが中々の知恵者にござりまする。山ヶ野に呼び寄せて某の手伝いをさせれば必ずや大佐のお役にも立つと存じまする。宜しければ少しばかり寄り道して中村へ寄っては頂けませぬでしょうか?」
言うが早いか藤吉郎は激しく揉み手をしながらぺこぺこと何度も頭を上げ下げする。
こいつにはプライドって物が無いんだろうか。きっと無いんだろうなあ。大作は深い溜息をつくと小さくかぶりを振った。
「はいはい、分かりましたよ。行きゃあ良いんだろ、行きゃあ。んで、その中村っていうのはいったいどこにあるんだ?」
「那古野城から西に一里ほど行った庄内川の側にございます」
「城の近くだと? うぅ~ん…… そうなると大人数で動くのは憚られるなあ。しょうがない、ここで解散するとしようか。聞いての通りです、百地殿。帰路の途中になりますが、此処で暫しの別れと致しましょう。百人の兵を率いて伊賀まで帰って頂けますかな?」
「心得ましてございます。大佐殿も気を緩むこと無きように。然らば御免!」
言われたことには黙って従う。それが彼の処世術なんだろうか。
百地丹波は不平不満はおろか、疑問の一つすら口にすることなく風の様に立ち去ってしまった。立ち去ってしまったのだが……
「大猿殿と小猿殿。お二方も一緒に行ってもらっても良かったんですけど?」
「いやいや。我ら二人は伊賀に戻るまでの間、大佐殿をお守りせよと固く申し付けられております。故に大佐殿のお側を離れる訳には参りませぬ」
「そ、そうなんですか。それじゃあまあ、勝手にして下さいな」
大人数と分かれて身軽になった大作と愉快な仲間たちは一路、南西に向かって進む。
歌ったり踊ったり馬鹿話で時間を潰しながら歩くこと丸一日。飯田村を通り過ぎ、阿智村に着いたところで一泊となった。
翌日も朝早くから歩き出し、険しい山道を浪合村から平谷村へと抜ける。つたの滝を眺めながら昼休憩。少し進むと右側から堂之入川が合流してきた。
「本物の武田信玄はこの辺りで亡くなったらしいな。ほれ、見てみ。そのうち此処にこんな宝篋印塔が建つんだ。寛文年間(1661-1673)のことらしい」
「ふぅ~ん。こんな寂し気な所で亡くなったのね。お気の毒に」
「そりゃあ三年もの間、死を伏せておきたくもなるわよねえ」
「だからって、死亡届を出さなくて良い言い訳にはならんけどな。戸籍法第八十六条っていうのがあって、人が亡くなったら届出義務者であるその親族や同居人等が役所に届け出なけりゃならんのだ。死亡の事実を知った日から七日以内にな。んで、正当な理由が無くそれを怠った場合は戸籍法第百三十五条により五万円以下の過料に処せられる」
「五万円? それって確か銭三百文くらいだったかしら?」
「そんなもんだろうな。それに死亡届の他にも手続きが必要なんだぞ。国民年金なら十四日以内、厚生年金なら十日以内に届けを出さなきゃならん。黙って受給を受けていたら遺族の不正受給として詐欺罪に問われる可能性があるんだ。ここ、試験に出るから良く覚えとけよ!」
そんな阿呆な話をしている間にも辺りは急に薄暗くなってくる。大作たちは河原から少し離れた空き地で一泊した。
翌日は少し強い風が吹き、薄曇りで肌寒かった。一同は疲れた足を引きずるように川沿いを南下する。
左に見える山の上に城ヶ峰城(根羽男城)が建っているのを横目に進んで行くと根羽村が現れた。
道が矢作川にぶつかって右に折れ曲がる。一キロほど西に進むと途轍もない巨木がぽつ~んと寂しく立っていた。
「見ろ、古文書にあった通りだ! この木こそ『月瀬の大杉』だ! 何とびっくり、樹齢は千八百年にもなるそうだぞ」
「それって二十一世紀の話でしょう? だったら今はまだ樹齢千四百年くらいよね」
「いやいや、それだって十分に凄いんじゃね? 弥生時代から生えてるってことだぞ。取り敢えずは記念写真でも撮っとこうか。はい、チーズ!」
短い休憩の後、川から離れて山道へと分け入って行く。急な坂道を南へ登って杣路峠を越える。三河足助で一泊。
翌日も険しい山道をひたすら歩き続けて漸く岡崎に入る。そこで三州街道が東海道に合流してきた。
この辺りで大作の疲労が頂点に達し、意識が朦朧になってしまった。
「もしもし、大佐。ノックしてもしもぉ~し! 大佐、しっかりして頂戴な!」
「ふぁ? ここはどこ? 私は誰?」
「大佐は大佐。此処は尾張国の中村よ。さあ、漸く藤吉郎の家に着いたんですから確りして頂戴な」
「な、な、な、何ですとぉ~っ!」
我に返った大作が辺りを見回すと古ぼけてはいるが、そこそこ立派なお寺が建っていた。
人っ子一人としていない境内は静まり返っている。隅っこの方では面倒臭そうな顔をした小坊主らしき少年が箒を手に掃き掃除をしていた。
「もしかして、もしかしないでもここが藤吉郎の家なのか? そう言えば、子供のころ寺に預けられそうになって逃げ出したとか何とか」
「いやいや、其れは他の寺にございます。此処は妙行寺と申す日蓮宗の寺でして、某の家は此の裏手にございあます。ささ、此方からお出で下さりませ」
勝手知ったる他人の家といった感じで藤吉郎はお寺の横手を進んで行く。破れかけた垣根を勝手に潜って寺の外へと出る。
「某が生まれた折には此の井戸で産湯を沸かしたそうにございます」
「そ、そうなんだ。本当にどうでも良い豆知識をありがとうな。お礼に俺からも一つトリビアを教えてやろうか? どうしても聞きたいって言うんなら教えてやらんでもないぞ?」
「いやいや、某は左程は聞きとうもございませぬ。大佐がどうしても教えたいと申されるなら、聞かぬでもありませぬが」
「まったくお前は素直じゃないなあ。まあ良いや。教えてやろう。今さっき通った妙行寺っていうお寺はあの加藤清正が生まれた所なんだとさ。ちなみに父親は鍛冶屋清兵衛って人らしいぞ」
大作は退屈凌ぎにスマホで見付けた本当にどうでも良い小ネタを得意気な顔で披露する。
スルーするのは可哀想だとでも思ったのだろうか。藤吉郎は渋々といった顔で反応を返してくれた。
「おお、鍛冶屋の清兵衛殿ならば良う存じておりまする。彼方に見えるお屋敷にございますな。然れど……」
「然れど…… 然れど何だ? 言いたいことがあるんなら、はっきり言えよ」
「いやいや、大佐が途中で遮らねば今頃は言い終えておりましたぞ。然れども加藤清正と申されるお方は存じ上げませぬ。いったい如何なる御仁にござりましょうや?」
「知らんのか? 加藤清正を。確か虎退治で有名な人じゃなかったっけかな? とは言え、まあ知らんで困ることはないだろうけど。何せ生まれるのは今から十二年も先の話なんだもん。んで? そんなことよりも藤吉郎。お前の家はいったいどれなんだ?」
狭っ苦しい路地を挟んで並んでいるのは粗末で荒れ果てた荒ら屋の数々だ。
藤吉郎は黙って進んで行くと一軒の前で立ち止まって大声を張り上げる。
「おっかあ、帰ったぞ! 藤吉郎じゃ! お客人をお連れした。白湯でも入れて給れ。おっかあ?」
だが、待てど暮せど家の中から返事が返ってくることは無かった。




