巻ノ四百参拾参 箱の中にも三年 の巻
大門峠の戦いから一夜が明けて天文十九年十月三日となった。
史実ではこの日に武田晴信(信玄)は諏訪上原城で衆議を開き、諸方へ書状を送ったんだそうな。
はたして、この世界線の晴信は生きているんだろうか。それとも死んでいるのだろうか。それが問題だ。
大作はマクベスになったつもりで左手を高く掲げる。
「あのねえ、大佐。何編も何編も言ったわよねえ? それはハムレットよ!」
「そ、そうとも言うな。って言うか、マジレス禁止! そもそも俺はシェイクスピア四大悲劇なんてどれ一つとして読んだこと無いんだもん。映画でならロミオとジュリエットを見たような気がしないでもないんだけどさ。あと、タイタス・アンドロニカスも見たっけ。随分とヘンテコな映画だったなあ。そうそう、中学の時に『間違いの喜劇』を全校生徒で劇場まで行って生で見たことことあるぞ。そう言えば……」
「どうどう、大佐。餅ついて頂戴な。私が悪かったわ。お願いだから話を晴信に戻してくれるかしら?」
「はいはい、分かりましたよ。戻せば良いんだろ、戻せば。いま戻そうと思ったのに言うんだもんなぁ~っ! んで、何だっけ? 晴信の生死についてだっかな。奴は今、箱の中で死んだ状態と生きた状態が重なり合っていると考えられる。三年後に箱を開けて中を観測した瞬間に波動関数が収束するって寸法だな」
「ふ、ふぅ~ん。だけども、大佐。この暗い箱の中で三年もの間堪え続けてきた晴信にただの戦争ではもはや足りないわ!! じゃなかった、密閉した箱の中だと息ができなくなって死んじゃうんじゃないかしら?」
例に寄って例の如く、ほのかが予想も付かない変化球を打ち返してきた。
だが、大作としてもこれくらいの突っ込みは十分に想定内のことだ。余裕の笑みを浮かべると人差し指を目の前で左右に揺らす。
「だったら息ができるように箱に穴をいっぱい開けておけば良いんじゃね? んで、水や食料もその穴にチューブを通してそこから供給してやろう。あと、排泄物もそんな風にして外に捨てるんだ」
「お風呂に入ったり、着物を洗ったりするのはどうすれば良いのかしら?」
「箱の中に大きな桶を置いて外からお湯を供給したらどうじゃろな。鋏や剃刀があれば散髪や髭剃りだってできるだろうし。あとは虫歯にならんように歯磨きに気を付けた方が良いじゃろな。歯医者さんまで箱の中に入れるわけには行かんし。まあ、外部との接触が限られているから感染症の心配はいらんだろうけど。とは言え、運動不足にだけは気を付けた方が良いかも知れんけどな。それから……」
大作は小首を傾げて考え込む。だが、下手な考え休むに似たりとはこのことか。何一つとしてマトモなアイディアが浮かんでこない。
と思いきや、捨てる神あれば拾う神あり。ぱっと顔を綻ばせたメイが早口で捲し立てた。
「灯りだって入用じゃないかしら? 真っ暗な箱の中に三年もいたら暗闇で目が退化してしまうかも知れないもの」
「って言うか、人間は紫外線を浴びないとビタミンDが不足してくるらしいな。そうすると体が吸収するカルシウムやリンの量が減って骨が柔らかくなっちまうんだとか。そもそも通常の食事だけでは欠乏症を予防できるほどのビタミンDを摂取できない。栄養強化された食品かビタミンDのサプリメントが必要かも知れんぞ」
「それよりか、紫外線LEDか何かで対応した方が良いんじゃないかしら。体内時計の同期とか近視の予防とかにも役立つはずだわ」
「うぅ~ん…… そうは言っても紫外線LEDは流石に無理筋じゃないかな。だけども紫外線を出すならLEDじゃなくても良いんじゃね? 蛍光灯でも何とかなるはずだぞ。普通の蛍光灯はガラスが紫外線を通さない。でも、石英ガラスを使えば紫外線を透過するらしい。ちなみに、第二次大戦中の潜水艦とかでも電球より健康に良いとかで蛍光灯が使われていたって話をネットで読んだことあるぞ。とは言え、紫外線を浴びすぎると皮膚ガンのリスクも高まる。加減を考慮せんといかんな。あと、目を傷めないようにサングラスとかも作った方が良いかも知れんぞ。そうなると……」
そういうわけで大作たちは諏訪の地における自由行動の一日を紫外線蛍光灯やサングラスに関する雑談で無為に消費して過ごした。
更に一夜が明けて天文十九年十月四日となる。
大作たちが予定時刻より少し早めに集合場所に辿り着くと既に黒山の人だかりができていた。
「大佐殿、お早いお着きで。皆、支度も済んでいつでも出立できまするぞ」
「おお、百地殿。おはようございます。そういうことでしたら善は急げですな。とっとと出発しましょうか」
「時に大佐殿。昨日、手の者を使って調べさせましたところ、晴信が討死したとの噂は木曽谷にまで広まっておる様子。我らが其の下手人と疑われるとは思いませぬが、帰りは違う道を通った方が良いやも知れませぬな」
「別の道? とは申せ、武田の本拠地がある甲府を通るわけにも参りませぬな? もしかして伊那谷を通ったらって話ですかな?」
「如何にも。所謂、塩の道を通れば尾張へと抜ける事が叶いまする。如何なされますかな?」
そう言ったきり、百地丹波は小首を傾げて口を噤んでしまった。
知らんがなぁ~っ! 大作は心の中で絶叫するが決して顔には出さない。
まあ、ニンジャマスターが手の者を使って調べた結果、そう判断したって言ってるんだ。これは黙って信じるしかないだろう。大作は考えるのを止めた。
「百地殿の判断にお任せします。では、参りましょうか」
「畏まりましてございます。第一小隊、出立いたせ。以後、間隔を開けて後に続け」
いつもの如く、十人ほどの小集団に分かれて歩み始める。数分の間隔で十隊が動き出すのには小一時間を要した。
こんなんで大丈夫なんだろうか。長い長い旅路のことを考えると頭が痛い。大作は動き出す前から早くも気が重くなってしまった。
一同は諏訪湖から流れ出る天竜川に沿って細長い平野を南へと進む。
途中には驚くほど狭い谷間もあったりしたが二時間ほど歩くと少し開けた土地が現れた。
「ここはたぶん辰野だな。たぶんだけど」
「たぶんなの?」
「源氏蛍の名所、松尾峡で有名な所だぞ。さだまさしの『風の篝火』とか島倉千代子の『ほたる小唄』とか水森かおりの『辰野の雨』とかさ。知らんのか?」
「聞いたことないわね。他に何かないの? 何でも良いから言ってみなさいな」
何もない山道を歩き続けてよっぽど退屈していたんだろうか。ちょっと不機嫌そうな顔をしたお園が挑発するかのように顎をしゃくる。
とは言え、こんなの無茶振りも良いところだろう。大作としても辰野なんて地名は見るのも聞くのも初めてのことなのだ。
「えぇ~っと、そう言われてもなあ。だったら…… たったらこんなのはどうじゃろ? 戦艦大和の第六代艦長だった有賀幸作と戦艦武蔵の第二代艦長だった古村啓蔵はどっちも辰野町の出身なんだ。人口がたった二万人しかない小さな山村が大和型戦艦の艦長を二人も輩出してるだなんて不思議な話だろ? そうは思わんか? な? な? な?」
「ふぅ~ん。そう、良かったわね」
けんもほろろとはこのことか。お園は一欠片の興味すら持ってくれなかったようだ。だが、同時に追求の手も緩まったようだ。大作はほっと安堵の胸を撫で下ろす。
天竜川の西側を暫く歩いて行くと徐々に河岸段丘が姿を現した。対岸には上ノ平城と思しき山城が見えている。
川に沿って一心不乱に歩くこと三時間。東側から三峰川が合流してきた。
川岸には数艘の渡し船が暇そうに屯している。あれが高遠方面へ行く人たちを乗せる天竜の渡しなのだろうか。
天竜川には西側からも何本もの川が合流してくる。所謂、田切地形という奴で結構な高低差があり、橋も架かっていないので通り辛いことこの上ない。お陰で思ったほど進めないうえ、疲労も非常に大きい。
そういうわけで、この日は大田切川を越えて赤須村まで進んだところで一泊となった。
「この辺りは二十一世紀では駒ヶ根市だな。ちなみにここはケンウッド創業の地なんだぞ。本社機能を他所に移した後も長いこと事業所を置いていたんだけど、今では…… いや、未来では移転しちゃったそうだ。それと、養命酒の工場があるらしいな。養命酒発祥の地は隣村の中川村なんだけどさ。そんなわけで養命酒のCMには駒ヶ根工場が良く出てくるんだ」
「ふ、ふぅ~ん」
「山本五十六は海軍兵学校三十二期だけど、同期に塩沢幸一っていただろ? 堀悌一と首席を争った天才の。あの人の実家は養命酒なんだとさ。四男だったそうな。だから山本五十六は『おい、養命酒』とか呼んでたらしいな」
「そう、良かったわね……」
どうやらこの話題はお気に召さなかったらしい。どげんかせんと、どげんかせんといかん。
何か興味を持ってもらえそうな話題な無いものか。焦った大作は必死になってスマホの中から情報を漁る。漁ったのだが……
「そう言えば、もうちょっと行った先に大御食神社っていうのがあるらしいぞ。美女ヶ森っていうのがあるんだとさ。もしかして美女がうようよいるんだろか?」
「あのねえ、大佐。それは応神天皇の御世に神霊の御告げで熱田から草薙の剣の霊代と美女社の宮簀媛をお迎えしたかららしいわよ。日本武尊が赤須の里に駐連遊ばされたとか何とか」
お園がここぞとばかりに無駄蘊蓄を披露する。って言うか、またしても日本武尊かよ。奴は俺の行く先々に地の果てまで付いてくるストーカーかよ!
大作はちょっとイラっときたが強靭な精神力で持って何とか抑え込んだ。
だが、そんな大作の内心の葛藤を知ってか知らずか女性陣が囃し立てる。
「それに美女だったら此処に大勢いるじゃない」
「そうよそうよ。私たちじゃあ飽き足りないとでも言うの?」
「もしかして、大佐。美女社の宮簀媛にも懸想してたんじゃないでしょうねえ?」
「大佐、某も控えておりますぞ」
いやいやいや、藤吉郎だけはノーサンキューでお願いします。
大作は心の中の扉をパタンと勢い良く閉じると確りと鍵を掛けた。




