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巻ノ四百弐拾八 クルミが無ければ豆を食べれば良い の巻

 また新たな一夜が明けて天文十九年八月二十六日となった。

 下社春宮の宿坊で一宿一飯の恩義を受けた大作と愉快な仲間たちはお世話になった方々に手厚く御礼を申し上げて神社を後にした。


「集合時間までは少し余裕があるな。この辺りで時間を潰すとしたら……」

「そんなことよりも、大佐。これからいったいどうするつもりなのかしら? 晴信が退いてくるまで一月もあるんでしょう? もしかして前乗りするの? それとも他に何か暇を潰す当てでもあるっていうの?」

「いや、あの、その…… その件に関しては皆が揃ってから考えてはどうじゃろな? 集合知って言葉を聞いたことあるだろ? 下手な考え休むに似たり…… じゃなかった、下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる。皆で雁首を揃えて無い知恵を振り絞ればちっとはマシな考えが出てくるかも知れんだろ? な? な? な?」

「そ、そうねえ。大佐が一人で考えるよりかは幾分かは良いかも知れんわね。そうじゃないかも知らんけど」


 そんな阿呆な話をしながら一同は集合場所へと歩いて行く。歩いて行ったのだが……

 例に寄って例の如く道に迷ってしまった!


「そんな阿呆な! 参道は一本道だぞ。迷うはずが無いじゃんかよ!」

「無いじゃんかよって言われても迷ったものはしょうがないわよ。泣き言なんざ聞きたくないわ。なんとかおし!」

「お前はドーラかよ!」


 大作とお園は人目も憚らず息のピッタリ合った夫婦漫才を披露する。ほのか、サツキ、メイ、藤吉郎たちは少し離れたところから生暖かい視線を送ってくるのみだ。どうやら戊辰戦争における欧米六カ国のように局外中立を守るつもりらしい。

 これは援軍を期待できそうにないな。大作は五稜郭で戦う近藤勇の如く、孤軍奮闘の捨て鉢的な覚悟を決める。


「違うわ、大佐。それは土方歳三でしょうに。近藤勇は板橋で斬首されたんですから」

「そ、そう言えばそうだな。そう考えると土佐藩の奴らってマジで腹立つよな。四国を制圧した暁には土佐の連中は一人残らず斬首にしなきゃ気が済まんぞ」


 大作の脳内で蔓延る空想上の土佐藩士たちが次から次へと断頭台の露と消えて行く。だが、切り落とされた首が小山のように積み重なったころ、救いの手が意外な方向から差し伸べられた。


「大佐様。昨日、皆と別れた所なれば彼方でございます」

「ほれ、すぐ其処に見えまする」


 大猿と小猿の指差す方向に目をみやれば見知った顔が鈴なりというか芋の子を洗うようにというか……

 ラッシュアワーの満員電車みたいにごった返している。

 目を凝らせた集団の中から頭一つ飛び出た大男が手を振りながら声を掛けてきた。


「おお、大佐殿。なかなかお姿が見えませぬ故、案じておりましたぞ」

「いやいや、百地殿。お待たせして申し訳ございませんな。ちょっと道に迷っちゃいまして。お恥ずかしい限りです」

「では、遅くならぬうちに砥石城へ向けて出立すると致しましょうか」


 言うが早いか百地丹波は荷物を抱えて歩き出そうとする。歩き出そうとしたのだが……

 大作は慌てて着物の裾を掴んで制止した。


「ちょ、ちょっと待って頂けますかな。実は折り入ってご相談したき儀がございまして。取り敢えず場所を変えましょうか。もうちょっと落ち着いてお話のできる所に参りましょう」

「移転するのね! 移転! 移転! 移転!」

「あのなあ、ほのか。いくら嬉しいからって覚えたての単語をそんな風に連呼するもんじゃないぞ。そういうのはここぞという時に使ってこそ値打ちが出るって物なんだ。言葉インフレで価値が下がっちまうぞ」

「あのねえ、大佐。それこそ『いま使わんでいつ使うと言うのだ!』でしょうに。とにもかくにも移転よ、移転。ささ、早く移転しましょう!」


 まるで何かに急き立てられるように一同は移動を開始した。とは言え、総勢百人を超える民族大移動だ。しかも人通りの多い参道の端っこときている。後ろの方はちゃんとくっ付いてきているんだろうか。迷子になってなけりゃ良いんだけれど。大作は考えるのを止めた。




 砥川に沿って歩くこと暫し、一同は諏訪湖の河畔に辿り着いた。


「みんなで丸く輪になって頂けますかな?」

「そりゃあ輪は丸いに決まってるわよ、大佐。四角い輪なんて見た事も聞いた事もないわ」

「いやいや、ほのか。位相幾何学(トポロジー)的には似たような物だろ。ほれ、これを見てみ。マグカップもドーナツも広い括りでは同じなんだよ」


 大作はWikipediaの位相幾何学の項目に載っているgif画像をスマホに表示させる。

 マグカップがドーナツ(トーラス)に連続変形していく動画だ。


「そ、そんなの屁理屈じゃないの! まやかしも良い所だわ! だったら皆でマグカップになれって言うのも同じ事だって言うの?」

「ま、まぐかっぷ? 其は如何なる物にござりましょうや?」


 百地丹波が丁度良いタイミングで話の腰を折ってくれる。トポロジーの話で一日が潰れてしまいそうな嫌な予感に冷や冷やしていた大作はほっと安堵の胸を撫で下ろす。

 バックパックからチタン製マグカップを取り出すと、取っ手に指を引っ掛けてクルクルと回して見せた。


「マグカップと申すは食器の一種にございます。水や茶など液体を容れられる大き目な筒状の器に取っ手がくっ付いた物を指しますな。元々、マグ(mug)という言葉は蓋の無い片手付きの円筒形カップを指していたそうな。故にマグカップという和製英語は重複表現ですな。タジン鍋…… じゃなかった、チゲ鍋とかと同じにございます」

「あのねえ、大佐。いま、どうして言い直したのかしら? もしかしてタジン鍋のタジンって言葉の意味が分からなかったのかしら?」

「いや、あの、その……」


 この場合、どう答えるのが正解なんだろう。大作は最適解を求めて超高速で思考する。思考したのだが……

 答えが出ないうちにお園が言葉を継いだ。


「時間切れよ、大佐。タジンっていうのは古代ギリシアのフライパンね。アラビア語で浅い土鍋を意味するらしいわ。だからタジン鍋っていうのも重複表現なのよ。あと、大佐も言った通りチゲは鍋料理って意味だからこちらも重複表現ね」

「はいはい、分り易い解説をどうもありがとう。もう沢山、お腹いっぱいだよ。さて、マグカップの意味が分かったところで話を元に戻して……」

「では、大佐。『どおなつ』とは如何なる物にござりましょうや?」


 今度は怖すぎるくらいに真剣な表情を浮かべた大猿がドスの効いた声で問いかけてくる。

 って言うか、普通に怖すぎるんですけど。お前はドーナツに親でも殺されたのかよ! 大作は心の中で突っ込みを入れながらスマホでドーナツに関する情報を探し求めた。


「えぇ~っと…… ドーナツの語源は十六世紀のオランダ語でDough(ドウ)っていうのはパン生地(きじ)のことでNut(ナッツ)は木の実のことだよな。名前の通りにナッツ。この場合はクルミンを入れた揚げ菓子のことを指していたらしい。当時は単にoile koekとか呼ばれてたんだとさ。これが十七世紀前半の北米移住者たちの間でドーナツを呼ばれるようになったんだ。ってことは、あと百年は経たないと世の中に現れないんだな。ちなみにアメリカ英語ではdonut。イギリス英語だとdoughnutなんだとさ」

「ねえねえ、大佐。そのドーナツは輪の様な形をしていたのかしら?」


 ほのかがまたしてもどちて坊やの本領を発揮してくる。


『気になるのはそこかよぉ~っ!』


 大作は心の中で絶叫するが決して顔には出さない。余裕のポーカーフェイスを浮かべると親指と人差し指で輪っかを作った。


「リング状のドーナツが世に現れたのは十九世紀の中頃のことだ。しかし、こういう形になった理由については諸説混在で本当のところは判然としない。ざっと調べただけでも以下の四つの説が見つかったぞ。一つ目はグレゴリーっていう船長のお母さんが作る揚げパンはいつも生焼けだった。仕方がないから真ん中を指で刳り貫いて食べていたので穴あきパンになったっていう説だ」

「刳り貫いた所もちゃんと食べたのかしら? もし捨ててたら勿体無いお化けが出ちゃうわよ」

「スタッフが美味しく頂いたんじゃね? 食べ物を粗末にすると視聴者からクレームが殺到しそうだもん。とは言え生焼けだと美味しくは無さそうだけどな。とにもかくにもグレゴリー船長はちゃんと食べたはずだ。他ならぬお母さんが作ってくれたドーナツなんだもん」

「そうね。そう思いたいわね」


 こんな答えで納得が行ったのだろうか。ほのかは小さく頷くと話の先を促した。


「続いて二つ目の説はまたまたグレゴリー船長のお話だ。この人は船を操縦しながらもドーナツを食べたかった。そこで操舵輪の突起に引っ掛けられるように穴あきドーナツを作ったっていう説だ」

「操舵輪って?」

「えぇ~っとだなあ…… これこれ、こんな奴だよ。ほれ、輪っかを回す時に力が掛け易いように棒が外側にまで飛び出ているんだな。ここにドーナツの穴を入れれば引っ掛かって床に落っこちないだろ?」

「そ、そうねえ。でも、それじゃあ幾つも引っ掛けられないわよ。二つか、せいぜい三つが関の山じゃないかしら」

「いやいや、ドーナツなんて三つも食えばお腹が一杯になるんじゃね? 俺、中学生の時に物凄いお腹が空いてたんで鯛焼きを四個食べようと思ったんだけど三つでギブアップしたことがあるぞ。まあ、お茶が無かったのも敗因だったんだけどさ」

「そうじゃないのわ、大佐。何て言ったら分かって貰えるかしら…… 操舵輪とやらに引っ掛けなくとも、さっさと口に入れちゃえば良いと思うのよ。それと、操舵輪って言うのは片手では操れないの? それか、操舵輪に籠でも括り付けて置けば良いんじゃないかしら? それに……」


 ほのかがまるで重箱の隅を突くように屁理屈の絨毯爆撃を繰り広げてくる。その一言一言が大作のSAN値をガリガリと音を立てて削って行く。


「はいはい、ほのか。餅つけ。これは多々ある諸説の一つに過ぎないんだ。いちいちマトモに相手をしていても疲れるだけだぞ。話半分くらいに聞き流すのが吉だぞ。んじゃ、三つ目の説。それはクルミ無し説だ。ナッツがクルミのことを指すってさっき言ったよな? 当時のヨーロッパではドーナツの真ん中にはクルミが乗ってるのが普通だった。だけどもアメリカではそんな物は手に入らん。仕方無しに穴を開けて誤魔化したんだ」

「何で? 何で穴を開けたら誤魔化した事になるのかしら? そんなの返って変だわ。クルミが無いんなら豆でも乗せて置けば良いのに」


 今度はマリー・アントワネットかよ! ほのかのドヤ顔を見ているだけで大作は胃に穴が開きそうになってくる。


「あのねえ、大佐。その逸話はアントワネットじゃないらしいわよ。一説によればルイ十六世の叔母さんヴィクトワール内親王の言葉みたいね」

「はいはい、そうだなあ。そう言えばコロンブスの卵だって別の人の話らしいな。あと、ワシントンの桜の木の話だって嘘っぱちだし。世の中は何でもかんでもフェイクニュースだらけで嫌になっちまうぞ」

「んで、大佐。ドーナツの諸説っていうのは其れでお仕舞いなの?」

「まあまあ、話は最後まで聞けよ。ヒーローは遅れてやってくるもんだろ。佐々木小次郎…… じゃなかった、宮本武蔵みたいにな。第四の説っていうのはインディアンの矢説だ。ある時、ネイティブアメリカンが矢を放つとパン生地のど真ん中に当たったそうな。それがそのまま油の中に落ちて穴あきドーナツになりましたとさ。何とも嘘っぽい話だな。うぅ~ん……」


 大作は自分で言ってて阿呆らしくなってきた。こりゃあ駄目かも分からんな。やはりドーナツの正体は永遠の謎なのかも知れん。

 そんな諦めの空気を敏感に感じ取ったのだろうか。ちょっと不満気な顔をしたお園が声を荒らげた。


「全く持ってこれっぽっちも納得がいかないわ! 狙ったわけでもないのに急に矢が飛んできて揚げる前のパン生地とやらの真ん中に当たってそのまま油に落ちたですって? 阿呆も大概にして頂戴な!」


 ですよねぇ~っ! 大作は心の中で禿同するが安易に同意して良いものなんだろうか?

 分からん、さぱ~り分からん。


 と思いきや、大作の苦悩をまるで理解していない有象無象たちが堰を切ったように一斉に口を開いた。


「そも、食べ物を粗末にすると地獄に落ちるわよ」

「某も同じ思いにございます」

「全く持って其の通りかと……」


 多勢に無勢とはこのことか。お園、ほのか、サツキ、メイ、藤吉郎、大猿、小猿、百地丹波、エトセトラエトセトラ……

 その他大勢の名前も無いモブ兵たちまでもが言いたい放題を言ってくる。大作は黙って頭を抱え込むことしかできなかった。


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