巻ノ四百拾八 立てろ!歩哨を の巻
どうにかこうにか鈴鹿の関を越えた一同は鈴鹿川に沿って東に進んで行く。
日が沈む直前、滑り込むように亀山に辿り着くことができた。民家から適当に距離を取った川岸が丁度良い具合に見つかったので一泊することになった。
「一日に四十キロ。十里くらいは進みたかったけど今日は実質八時間くらいしか歩けなかったからしょうがないか。明日からは一日十時間は歩いて四十キロ進むのをノルマにしよう」
「それって確かロシア語で規則とか基準っていう意だったわよねえ?」
「そうそう、それそれ。良く覚えていたな。流石は完全記憶能力者。いよっ! 日本一!」
大作は両手を叩いて大袈裟に囃し立てる。だが、お園の意識は既に食欲の方向へ全振りされているらしい。歯牙にも掛けぬといった顔をすると追い払うように手のひらを振った。
「煽てたって何にも出ないわよ。さて、それじゃあ夕餉の支度をしましょうか」
「いや、それはKP勤務の者にやってもらおう。何てったって俺たちは作戦行動中の軍隊なんだからな」
「あら、そうなの。でも私は叡慮しておくわ。巫女軍団の娘たちならいざ知らず、伊賀で集めた兵に夕餉の支度を任せるのは勘弁して頂戴な。私、誰が作ったのか分からない物を食べるのは嫌なのよ。私が食べる分は私が拵えるから大佐は勝手にしなさいな」
朝から歩きっぱなしで草臥れているから虫の居所が悪いんだろうか。お園はぶっきらぼうに呟くと布袋の中をゴソゴソと漁り始めた。
大作は慌てて駆け寄ると腫れ物に触るように慎重に言葉を選んで話しかける。
「いや、あの、その…… だったら俺も一緒に作るよ。初めての二人の共同作業です! ってな、あはははは……」
「これっぽっちも初めてじゃないけどね。蒲鉾とか安倍川餅とか色々と作ったじゃないの」
「そ、そう言えばそうだな。だが、初心忘るべからずだ。俺たちの原点に回帰して日本一の夕餉を作ろうじゃないか」
「日本一? 随分とスケールの小さな話ねえ。三国一。いいえ、世界一の夕餉を作るわよ!」
「俺たちの夕餉は世界イチィィィィ~ッ! いや、宇宙イチィィィィ~ッ!」
勝手にヒートアップして行く大作とお園をサツキやメイ、ほのか、藤吉郎といった有象無象たちは生暖かい目で見守っていた。
夕餉が済む頃には日もすっかり暮れてしまい、辺りは薄暗くなってしまった。
「サツキ、メイ。夜は交代で歩哨を立ててくれるかな?」
「ほしょう?」
「哨っていうのは見張りって意味だな。哨戒機とかの哨だよ。歩きまわるのが歩哨。んで、歩かずに突っ立ってるのが立哨。だって、みんな揃って寝てたら何かあった時に困っちゃうだろ?」
「ああ、物見の事ね。其の辺りの事ならば憂えずとも大事ないわよ。父上だっていらっしゃるんだし」
お前がそう思うんならそうなんだろう。お前ん中ではな。
大作は心の中で毒ずくとお園と一緒にテントに入って安らかな眠りについた。
八月とはいえ夜だし、そもそも戦国時代は小氷期なので現代より幾分かは涼しい。お陰で野宿にしては快適な一晩を過ごすことができた。
翌朝、すっきり爽やかに目を覚ました一同は空が暗いうちに朝餉を済ませると時を惜しむかのように出発する。
「今日は平地だから昨日よりは楽に歩けるな。どこまで行けることやら」
「長島の辺りまでは参れましょう。然れども……」
「然れども何ですかな、百地殿?」
「長島は願証寺をはじめ幾十もの寺院やら道場が建っており、数多の本願寺門徒衆がおります。周りにも幾つもの砦を拵えて守りを固めておる上に伊勢、尾張、美濃から参った百姓やら漁師やらの門徒衆は十万を超えるそうな。儂らは諏訪神社を詣でるという体で旅をしておりますが万一、正体を見破られることあらば厄介な事になるやも知れませぬな。長島は避けて通るが宜しゅうございましょう」
百地丹波の言葉は形の上では提案という形を取ってはいる。だが、いつになく真剣な視線からは拒絶を許さないという無言の強いプレッシャーが犇犇と伝わてきた。
とは言え、ここですんなり言う通りにするのも癪に障るなあ。安っぽいプライドを刺激された大作は特に理由もなく反発したくなってしまう。
所謂、理由なき反抗って奴だな。理由なき反抗と言えば……
「理由なき反抗ってジェームス・ディーンの遺作だったかしら? 確かチキンレースの場面が出てくるんだけど、映画公開の一月前に自動車事故でお亡くなりになったのよねえ? まだお若いっていうのにお気の毒な話だわ」
「いやいや、ジェームス・ディーンの遺作はジャイアンツだよ。確か亡くなる一週間前に撮影が終わったんじゃなかったかな? んで、映画公開は翌年だったはずだ。ちなみに事故の十三日前に安全運転を呼びかける公共CMを収録していたらしいな。かと思えば事故の二時間前にはスピード違反で切符を切られたりもしているし。本当に良く分からんお人だなあ」
「ふぅ~ん。やっぱり自動車事故って怖いのねえ。今の世には自動車が走っていなくて本に良かったわ」
ほのかの相槌に対してサツキやメイ、藤吉郎たちが揃って禿同といった顔で頷く。
だが、その考えは思慮が足りていないんじゃないのかなあ。漠然とした反発心を覚えた大作は反論の糸口を見つけようと頭をフル回転させる。
「そりゃあ、車が無ければ自動車事故は起こらんだろう。だけども物事は一事が万事トレードオフなんだぞ。彼方立てれた此方が立たぬだ。たとえば救急車のお陰で助かる命がどれくらいあると思う? 救急車の年間出動件数は六百万回くらいにもなるんだぞ」
「そうかしら、大佐。大した怪我や病気でも無いのにタクシー代わりに救急車を呼ぶ人も多いって聞いたわよ。サイレンを鳴らさないで来てくれって頼む人も多いんだとか何とか」
「そんな話をいったい誰に聞いたんだよ? ああ、萌か。でもなあ、年間六百万回も出動してるんだぞ。それにいくら交通事故の死亡者が毎年減ってるとは言え数千人は亡くなってるんだ。いくら何でも千回出動して一回すら人の命を救えないなんてことはないだろ?」
大作は独自の理論というかナニをナニした。だが、お園は今一つ納得が行かないといった顔をしている。
これはもう駄目かも分からんな。いや、まだだ! まだ終わらんよ! 救急出動こそ人類の夢だから!
「そうだ! 消防車のことを忘れんでくれよ。出動台数までは分からんけど火災等の出動回数は年間百万回を超え、出動述べ人員は一千万人近いらしいぞ。要するに三十秒に一回くらいは出動してるんだ。火事の時に消防車が来なかったらどれだけの人が焼け死ぬと思う? たぶん、いや絶対に交通事故で死ぬ人より多いはずだぞ」
「そうなのかしら? 二十一世紀の世界では毎年何十万人もの方が交通事故で亡くなっているんでしょう? 二十世紀だけで三千万人もの死者を出したそうじゃないの。これって第一次世界大戦と第二次世界大戦を足したくらいの数じゃないかしら?」
「いやいや、それは論点をずらしているだろう? 車が無ければ農業だって機械化できない。作物の運搬だって比較にならんほど手間だ。トラック輸送なくしては人類の繁栄はありえなかった筈だぞ。違うか?」
「そんな話をするんなら交通事故死者だけじゃなくて排気ガスに含まれる窒素酸化物とか地球温暖化とか広範囲な負の影響についても目を向けるべきじゃないかしら? もっとトータルな視点から自動車の功罪を検討するべきだと思うわよ」
「いやいや……」
「まあまあ……」
大作とお園の議論というか討論というか…… ディベートはどんどんヒートアップして行く。
鈴鹿や四日市を通り抜け、安楽川や内部川、三竜川、朝日川、員弁川の浅瀬を渡る。
ディベートに加わることのできないサツキ、メイ、ほのか、藤吉郎、百地丹波たちは少し離れた所で無駄話に興じていた。興じていたのだが……
唐突に百地丹波が大きな声を上げた。
「大佐殿。揖斐川が見えて参りましたぞ。その向こう木曽川、長良川にございます」
「…… どれが揖斐川ですって? 木曽川と長良川は?」
大作の眼前に広がっていたのは網の目のように入り組んだ川の流れと歪な形をした沢山の島だった。




