巻ノ四百拾弐 八月五日では遅すぎる の巻
砥石城の戦に飛び入り参加するため、大作たちは遥々遠く伊賀くんだりまでやってきた。だが、好事魔多しとはこのことか。どうにかこうにか兵を集める手筈を整えたと思った矢先、一同の前にまたもや新たな難題が立ち塞がった。
「ちょ、ちょっくら状況を整理してみようか。仮に今日が八月五日だとして砥石城まで何日くらいで行けるのかなあ?」
「そんなの分かるわけがないでしょうに。そも、砥石城って何処にあるって言うのよ?」
「いい質問ですねえ、ほのか。砥石城は有名な上田城から東に四キロほど行ったところにある山城だな」
「上田? 上田にお城なんてあったかしら? 私、そんなお城は見た事も聞いた事も無いんだけれど?」
蛸みたいに唇を尖らせて河豚みたいに頬を膨らませたお園が不満そうに呟く。
完全記憶能力者のお園にも知らないことがあるとは驚きだ。いや、『もしかしてアルジャーノンに花束を』みたいな感じでお園の知力が急激に低下しているんじゃなかろうな?
お園のほとんど唯一の長所とも言える完全記憶能力。もし、それが無くなるなんてことになったらそれこそ大惨事だぞ。大作は突如として訪れた不安に苛まれる。
「いやいやいや、お園。お前、頭は大丈夫か? そうだ! 今から俺が言う言葉を覚えてくれるかな? いいか? 桜、猫、電車」
「大佐こそいったいどうしたのよ。藪から棒に。私、上田には何編か行った事があるけれど。お城なんてついぞ見たことが無いわよ」
「でも、甲斐の上田城と言えば一部のマニアの間では大人気のお城じゃんかよ。数万もの徳川の軍勢を僅かな兵力で翻弄した上田城合戦とかでさ。あれって確か……」
「あのねえ、大佐。そも、上田は信濃国の小県郡よ。甲斐じゃないわよ」
がぁ~んだな、出鼻を挫かれたぞ。って言うか、あの辺りの地理なんてさぱ~り分からないんですけど。
大作はそんな本音をおくびにも出さない。ちなみに『おくび』という漢字は口の右側に愛と書く。JIS第三水準の難しい漢字だ。確か意味は『げっぷ』のことだっけ。そう言えば牛のゲップに含まれるメタンガスの地球温暖化係数は……
「大佐! ちょっと、大佐。聞いてるの? もしもぉ~し!」
「はいはいはい、聞いてますよ。聞いてますってば! でもなあ、お園。甲斐だろうが信濃だろうが上田城は…… アレ? 本当だ! 天正十一年(1583)に築城が始まったって書いてあるな。ってことは、もしかしてもしかすると今はまだ建っていないってことになるのかな? もしかしないでも。うぅ~ん、残念! まあ、このさい上田城のことはどうでも良いや。とにもかくにも、甲斐? 信濃? いま重要なのは砥石城まで何日で行けるのかだ。さぁ~あ、みんなで考えよう!」
大作は猫騙しのようにお園の眼前で勢い良く両の手をパチンと打ち鳴らす。
途端にお園が元から大きかった瞳をさらに一段とひん剥いて仰け反るようにスウェーした。
「うわぁ~っ! びっくりしちゃうわ、もう…… 大佐ったら、いきなり何て事をするのよ!」
「いやあ、めんごめんご。全く持って何の意味も無いんだけどさ。んでだな、地図によれば伊賀から砥石城までの距離は直線で二百六十キロくらい。六十五里ってところだな。実際の距離は中山道を通ったとして三百二十キロ。八十里くらいにはなりそうだ。ってことは一日に四十キロ、十里歩いたとして八日間の道程になるな」
「中山道って案外と険しい筈よ。まあ、大きな川が無いから足止めを食らったりする憂いは無いんだけれども」
「余裕を見て十日ってところかな? 武田方の兵が砥石城に近付くのは八月二十四日ごろだから…… 今から一週間以内に出発すればギリギリ先に着けそうだな」
「だけども、武田の兵だって砥石城を目指してるんでしょう? 途中で鉢合わせするかも知れんわね。知らんけど!」
ほのかから不意に鋭い突っ込みが入る。
その発想はなかったわ! 大作は素直に感心したが咄嗟に余裕のポーカーフェイスを浮かべた。
「我々は例に寄って例の如く、今回も巡礼を装うつもりだ。行き先は…… 諏訪大社とかで良いんじゃね? 俺、御柱祭って奴を一度で良いから見てみたかったんだよな」
「あら、大佐。御柱祭なら一昨年にやったばっかりよ」
「なん、だと…… 私もつくづく運の無い男だな。って言うか、アレって毎年やってるんじゃなかったのかよ。んで? 次はいったい何年後なんだ?」
「御柱祭は七年に一度だから次は四年後ね」
「ふ、ふぅ~ん…… いやいやいや! さっき一昨年にやったって言ったよな? んで、次は四年後? それだと六年しか経ってないんじゃね? お前、たったいま言ったじゃんかよ。七年に一度だって。小さなことが気になってしまう。僕の悪い癖なんですよ」
大作は得意満面といった顔でほくそ笑む。だが、お園は不思議そうに小首を傾げるのみだ。
もしかして本当にお園の知力が急激に劣化してるんじゃなかろうな。それってヤバくね? 大急ぎで認知症の専門医を受診した方が良いんじゃなかろうか。そう言えば……
「あのねえ、大佐。七年に一度っていうのは数えでの話よ。間が何年開いているかって言えば六年なんだけれど。でも、それを七年に一度って言うんだから仕方がないでしょうに」
「そ、そうなんだ。それは知らぬこととは言え失礼をば致しました。えぇ~っと、それじゃあ次は御柱祭は今年が天文十九年だから天文二十三年ってことだな。まあ、それまで天文が続いているかは知らんけど!」
「安堵して頂戴な、大佐。天文は二十四年(1555)まで続くわ。厳島の戦いの後、二十日くらいまでは天文二十四年よ。ちなみにその後の弘治はたったの四年しか続かないんだけど。ここ、試験に出るから覚えておいてね!」
お園は一息に捲し立てるとこれ以上はないドヤ顔を浮かべて胸を張る。だが、ほのかや藤吉郎は黙って頷くのみだ。
これはもう駄目かも分からんな。大作は素直に負けを認めることにした。
「えぇ~っと…… そろそろ話を戻して良いかな? まあ、そんなわけで出発は一週間後の十二日にしようか。十日掛けて二十二日までに砥石城へ到着する。武田方より二日前に村上方と接触できるだろう。寝床と食料の世話をしてもらう代わりに合力を約束するって寸法だ」
「そんなに上手く事が運ぶのかしら? 村上方は容易く私たちの事を信じて下さるとも限らないわよ」
「その時はその時だな。もういっそ、武田と組んで村上を討つっていうのも一興か? いやいや、そんな鬼みたいな顔をしなさんなよ、お園。可愛い顔が台無しだぞ。んじゃあ、こうしよう。村上と手を組めない場合は砥石城と上田城の…… いやいや、上田城はまだ無かったんだっけ。砥石城から撤退中の武田方を待ち伏せしてボコボコにしちゃおう。撤退中の敗残兵をタコ殴りにするなんて世の中で最も楽な仕事だぞ」
「そう、良かったわね……」
これだけやっても駄目なのか? 女心と秋の空っていうのは分からん物だなあ。大作は頭を抱えたくなってきた。
いや、まだだ! まだ終わらんよ! ラピュタの力こそ人類の夢だから!
「そんなわけで一週間後の出発に向けて……」
「ところで大佐。鉄砲はどうするつもりなのよ? 兵だけが手ぶらで行ってもどうしようも無いんじゃないかしら?」
「ぎ、ぎくぅ! いや、いいところに気が付きましたね、ほのか。それはその、何て言うのかなあ。ど、どうにかならんじゃろか?」
「どうにかって何をよ?」
あまりと言えばあんまりな見落としを指摘された大作は穴があったら埋めたい気分だ。とは言え、これを何とかしないことには伊賀くんだりまでやってきたことが丸っ切りの無駄足になってしまう。
それだけは何としてでも避けなければならん。どんな卑怯な手を使ってでも!
「た、たとえば無線で連絡することはできないのかな? 高い山に登ってアンテナも高く上げてさ。んで、送信出力も目一杯にすれば何とかなるんじゃね?」
「さあ、どうなのかしらねえ。でも、伊賀から東郷様の鶴ヶ岡城まで百六十里もあるのよ。よっぽど条件が良くないと無理じゃないかしら? それに通信テストを止めて幾日も経ってるわ。東郷様が受信を止めていたらどうしようもないわね」
「う、うぅ~ん…… となると人を遣って伝えるしかないか。百地殿にお願いして足の速い奴に一っ走り堺まで行ってもらう。んで、船長に手紙を渡して久見崎まで戻ってもらう。そして山ヶ野から運んだ鉄砲百丁と弾薬を数万発ほど船に積み込んで戻ってきてもらう。陸路で伊賀まで運ぶとすれば何日くらいじゃろうか?」
「忍びが堺まで走って一日。船が久見崎まで行くのに四、五日かな? 西に向かう時は黒潮に乗れないからな。山ヶ野までは一日で行ける。鉄砲や弾薬の手配は済んでるはずだから川舟に積み込んで久見崎まで持ってくるのに二日くらいか? 船に積み替えて再び堺へ向けて出港。今度は黒潮に乗れるから三日でこれるかな? 堺で馬に積み替えて伊賀まで二日は掛かるな。そうすると……」
大作は両手の指を折りながら数を数える。数えたのだが…… 分からなくなってしまった!
だが、捨てる神あれば拾う神あり。すました顔のお園はまるで呼吸をするかのように自然な口調でさらりと行ってのけた。
「十四日掛かるわね。今日が八月五日だから鉄砲が届くのは八月十九日くらいってことよ。それから急いで砥石城に行っても着くのは八月二十九日ごろになるわね」
「そ、それって晴信(信玄)が城の側まで行って矢入れを行ったっていう日じゃんかよ! そのタイミングで百人の兵が砥石城に入れるもんじゃろか?」
大作は自分の記憶に自信が無くなってきたのでスマホを開いて目を通した。
「九月一日には埴科郡の清野氏が武田方に降るんだな。埴科郡っていうのは砥石城のすぐ北西だ。三日には武田方が砥石城の間際まで本陣を勧めて待機する。そうなると南の上田原や東にある平地も通れそうにない。そうは言っても攻撃開始は九日の夕刻だから余裕が無いわけでもない」
「城攻めまで六日あるわね。だったら無理して砥石城に入らなくての良いんじゃないの? どうせ村上義清様とやらはお留守なんだから。確か寺尾城の高梨政頼を攻めてるんだったわね」
「そうだなあ。諦めるなら早い方が良いか。それじゃあ、誰か足の速い人を探して堺の港に泊まっている船まで文を届けて頂こうか。えぇ~っと、入来院水軍Z艦隊の弐番艦の名前は何だっけかなあ?」
「あら、大佐。忘れちゃったの? 船の名前は『名前はまだ無い』よ」
「いや、あの、その…… 『名前はまだ無い』って船を探して文を届けてくれって頼まなきゃならんのか? 勘弁してくれよぉ~っ!」
大作はツルツルのスキンヘッドを抱えて小さな唸り声を上げることしかできなかった。




