巻ノ四百拾壱 武田晴信を討ちたいか~! の巻
伊賀上野の地において百人の兵を集めるという困難かつ壮大なミッションを大作はどうにかこうにか無事に成功させた。
もうこれで思い残すことは何も無い。見るべき程の事をば見つ! 今はただ自害せん!
いやいや、自害はしませんけどね。
「それでは皆さん、本日はお忙しい中をご足労頂き感謝に堪えません。出発の日が決まりましたら改めてまたご連絡致します。それまでは健康に気を付けてお過ごし下さい。では、本日はこれにて失礼をば仕ります」
用が済んだら長居は無用。三十六計逃げるに如かず。後は野となれ山となれ。一同は泥棒の様にコソコソと村を後にした。
「思ったより簡単に片付いたな。もっと手間取るかと思ってたよ」
「言うても此処はいがですもんね。他所の国まで出掛けて戦で一旗挙げようってお方が大勢いても驚くには当たらないわよ」
「いやいや、真にもってその通りにございますな」
半笑いを浮かべた百地丹波が嬉しそうに相槌を打つ。でも、それって喜ぶようなことなんだろうか。平地が少ないうえに土地が痩せてて農業に不向きだから傭兵で食っている。そんなことを自慢気に言うだなんて自虐ネタじゃないのかなあ? 大作は決してアスペルガーではないのだが、百地丹波の気持ちがさぱ~り理解できない。
でも、きっと彼らには彼らなりの独自の価値観があるんだろう。無いかも知らんけど。
遠くに屋敷が見えてきた辺りで百地丹波は野暮用があると言って脇道へ逸れて行った。
残された一同は漠然とした不安感に苛まれながらも屋敷を目指す。
恐る恐るといった顔で座敷の敷居を跨ぐと寝ぼけた顔のサツキとメイが出迎えてくれた。
「おかえりなさい、大佐。私たち今さっき起きたところなのよ」
「何も食べずに寝たからお腹が空いて空いてしょうがないわ。今から何か食べるけど大佐たちも一緒に食べる?」
「おお、そうか。ちょっと早いけど俺たちも昼餉にしようか?」
お園や藤吉郎、ほのかに不満は無いらしい。黙って頷く三人を確認したサツキは台所へと早歩きで去って行く。
残りの面々はメイの後ろに金魚の糞みたいにくっついて移動した。
「ところで大佐。百人の兵は集まりそうなの?」
「ああ、そっちは何とかなったよ。そんなことより問題は鉄砲の訓練だな。伊賀ではまだ、鉄砲を撃てる奴なんてほとんどいないんだろ?」
「そりゃそうよ。何丁かはあるけれど、誰でも撃てるなんて代物じゃないわね。玉薬にしたってとっても珍しい物なんだし」
「そうなるとやっぱり事前の訓練が必要になるな。最終訓練は現地でやるとしても、最低限の取り扱い方法くらいは知っていないと村上の連中を訪ねた時に不審がられそうだもん。そうなると……」
大作はスマホを取り出すと『高臼斎記』とかいう資料を探し出して目を通す。通したのだが……
八月五日:武田方から長坂虎房が出陣。
十日:足軽衆も出陣。和田城から城兵が逃散。
十九日:武田方の本隊も出陣。夜遅くに長窪へ到着。
二十四日:今井藤左衛門と安田式部少輔が砥石城を偵察。
二十五日:大井上野介信常や横田備中守高松、原美濃守虎胤たちも砥石城を偵察。
二十七日:武田方の本隊が長窪を出陣。海野口の向ノ原へ着陣。
二十八日:砥石城から遠くない屋降に本陣を置く。
二十九日:正午ごろ晴信(信玄)が城の側まで行き、矢入れを行う。
九月一日:埴科郡の清野氏が武田方に降る。
三日:武田方が砥石城の間際まで本陣を進めて待機。
九日:夕刻より武田方が攻撃開始。
十九日:高井郡の須田新左衛門が武田方に降る。
二十三日:朝方、晴信に『村上義清と高梨政頼が和睦。共同で埴科郡寺尾城を攻撃中』という清野氏からの文が届く。晴信は真田幸隆や勝沼信元を清野氏への援軍として派兵。
二十八日:夜になり真田幸隆が帰還。村上と高梨の連合軍は寺尾城から撤退。
三十日:晴信は軍議を開いて砥石城からの撤退を検討。
十月一日:夜明けを待って撤退を開始。気付いた村上方は直ちに追撃戦を仕掛ける。終日の激しい戦闘で武田方は大損害を被る。日が暮れること戦闘終了。武田方は望月の古地にて宿営。終夜雨。
二日:晴信、大門峠から諏訪に入り、湯川(茅野市)に着陣。
三日:晴信、諏訪上原城で衆議を開催。諸方へ書状を送る。
六日:晴信、上原城を出発。
七日:晴信、甲府へ帰還。
「うわぁ~っ! 文字ばっかりでさぱ~り頭に入ってこなんですけど……」
「藪から棒に大きな声を出さないで頂戴な、大佐!」
「いやいや、すまんこってすたい。とは言え、お園。お前の声も大きかったぞ。って言うか、余りにも情報量が多過ぎて俺の灰色の脳細胞が悲鳴を上げてるんだよ。要するにこれってどういうことなんだろうな? 情報を取捨選択するとしたら何に着目すれば良いのかな?」
「どれどれ、えぇ~っと……」
スマホの画面に視線を落としたお園は数秒間ほど考え込む。と見せかけて、実は何にも考えていなかったりしてな。想像した大作は思わず吹き出しそうになる。だが、空気を読んで必死に我慢した。我慢したのだが……
「ぷぷぷっ。ぷぅ~っ、くすくす……」
「あのねえ、大佐! 私は忠実だって思案しているのよ? それなのに巫山戯るだなんて非道じゃないの! 戯れなら他所でやって頂戴な!」
「悪い悪い。ちょっくら緊張を解き解そうとしたんだよ。んで? 何処が歴史のターニングポイントだと思う?」
「そうねえ…… って言うか、史実だと武田は手酷い負け戦だったのよねえ? それを大佐は勝ち戦にしたいってわけでもないんでしょう? 晴信を討ち果たすって事で良いのよねえ?」
大作の手元へスマホを返しながらお園は確認するようにじっと目を覗き込んできた。
深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ!
いつになく真剣な眼差しを向けられた大作は思わず視線を反らしてしまう。だが、お園は畳み掛けるように言葉を繰り出してくる。
「私だって武田を討ちたい気持ちは同じよ。でも、そうなると誰を何時討つのかが大事よね。晴信ただ一人を討つ事を目指すのか。それとも武田方の兵を一人でも多く討つのか。それとも、そのどちらも合わせて狙うのか」
「いや、あの、その…… ぶっちゃけた話、今度の戦の目的は鉄砲のコンバットプルーフだろ? だから極論すると晴信なんて雑魚一人、死のうが生きようがどうでも良い些事に過ぎんのだ。って言うか、武田が勝つか負けるかすら知ったこっちゃない。いやいや、そんな鬼みたいな顔をしなさんなよ。折角の美人が台無しだぞ。お園が武田を滅ぼしたいっていうのは良く理解できてますから。だから今回、砥石城の戦を実験の舞台に選んだんだからさ」
「あっそう。それを聞いて安堵したわ。まあ、ただでさえ武田が大負けした戦よ。そこに私たちの鉄砲が百丁もあるんですもの。どうやったって史実よりも悪い事になる筈もないわ。ただ一つだけ、気に掛かることがあるんだけど」
お園は言葉を区切ると悪戯っぽい笑顔を浮かべる。黙って聞いていたほのかや藤吉郎たち有象無象が思わず身を乗り出した。
「それっていったい何なのよ、お園。勿体ぶっていないで早く言いなさいな」
「某も気になって気になってしょうがありませぬ。早う申して下さりませ」
二人の反応に気を良くしたのだろうか。ドヤ顔を浮かべたお園は顎をしゃくると得意げに話しを続けた。
「どうどう、餅ついて頂戴な大佐。今日は八月五日だって知ってたかしら? 史実の通りなら武田方から長坂虎房が出陣してるはずよ。十日には足軽衆まで出陣が始まるし、二十八日には砥石城の側に本陣を置くって書いてあるわ。遅くともそれまでに砥石城に着かなきゃ村上方と話をすることもできないわね」
「いや、そんなはずは。だって砥石崩れは十月十日だから…… ちょっと待てよ。もしかして俺、西暦と和暦をごちゃまぜにしてたのか? 嘘だと言ってよ、バーニィ……」
「ところがどっこい…… 夢じゃありません……! 現実です……! これが現実……!」
が~んだな。出鼻を挫かれたぞ。大作は頭を抱え込んで小さく唸ることしかできなかった。




