巻ノ四百伍 点てろ!茶を の巻
翌朝、大作が目を覚ますと船は既に紀伊水道を北上していた。
「漸う目を覚まされましたな、大佐様」
「おお、船長殿こそ朝早くからご苦労さまです」
「礼には及びませぬ。生業にござりますれば」
船長はニヤリと笑うとシン・ゴジラの國村隼さんみたいなセリフを吐いた。
「それで、船長。堺には何時ごろ着きそうですかな?」
「なんじごろ? うぅ~む…… 風任せではございますが、遅くとも日暮れまでには着くと思し召されませ」
「ほうほう、それは良かった。じゃあ、夕餉は堺で美味しい物が食べられそうですな」
「美味しい夕餉ですって?! 心ときめくわねえ。じゅるるぅ~っ!」
呼んでもいないのに食べ物の匂いを嗅ぎつけたお園が大きな瞳をキラキラと輝かせた。
「いやいや、風にも寄るんだってことを忘れんでくれよ。もしかしたら急に凪いじゃうかも知れんだろ? 過度な期待はしない方が良いぞ。希望を持たなければ失望することも無いんだから。良く言うだろ。『悲観的に準備し、楽観的に対処せよ』ってな。危機管理評論家の佐々淳行さんも申されておられるぞ。やっぱ、この人って佐々成政の子孫だったりするのかなあ?」
「さあねえ。大佐がそう思うんならそうなんじゃない。大佐ん中ではね……」
そんな阿呆な話をしている間にもお園は朝餉の支度をテキパキと始めている。
待つこと暫し。雑炊や魚の干物、得体の知れない漬物、エトセトラエトセトラ…… 船上の朝食にしては割かし豪華な料理が出来上がった。
一同はゆらゆらと揺れる船の甲板で汁物を零さないように気を付けながら食事をとる。
順風満帆で航海を続ける船は昼過ぎには紀淡海峡を通り過ぎ、大阪湾へと入った。
「淡路島の由良や友ヶ島には海軍の砲台があったんだぞ。そうそう、和歌山の深山にもあったんだっけ」
「確か泉州沖には関西国際空港もあったのよねえ。そうだ、藤吉郎。どうしてわざわざ海の上に空港を作ったのか知ってるかしら?」
「さ、さあ…… 某如きには見当も付きませぬ」
お園の無茶振りに藤吉郎が目を白黒させて狼狽えた。答えを知っているほのかとメイは揃って悪戯っぽい笑みを浮かべている。
「知らざあ言ってきかせてあげるわ、藤吉郎。それはねえ、二十四時間運用できる空港が作りたかったからなのよ。ちなみにエヴァにも関空は出てくるって知ってたかしら? 第拾六話『死に至る病、そして』ね」
「うぅ~む…… お園様は何から何までご存知なのですなあ。其れに比べて某は知らぬことばかり。お恥ずかしい限りにございます」
「そんな事は無いわ、藤吉郎。何かを始めるのに遅すぎるなんて事は無いのよ。閃いた! 今からみんなでエヴァの勉強会をしましょう。ほのか、サツキ、メイ。集まって頂戴な。勉強会を開くわよ!」
船旅も三日目にもなると暇を持て余して限界が近かったんだろうか。格好の暇潰しを見付けた一同は暫しの間、時が経つのも忘れてエヴァ談義に没頭していた。
風向きに恵まれたお陰もあったのだろうか。まだ日も高いうちに船は堺へと無事に辿り着いた。
環濠都市である堺の町は南北に細長く伸びており、海に面した西側を除く三方を堀に囲まれている。
港が位置するのは海岸のほぼ中央付近だ。江戸時代の地図では半島状に伸びた陸地に囲まれたヨットハーバーみたいになっているが、この時代にはそんな物は見当たらない。
江戸時代に海面が下がって戎島が現れたり、大和川が付け替えられて土砂が堆積したりで大きく地形が変わったせいなんだろう。
港湾管理者らしき男の指示に従って船が静かに砂浜に乗り上げる。水主たちが船から飛び降りると手早く固定作業に取り掛かった。
「んじゃ、船長殿。拙僧らはお先に失礼致します」
船長が港湾管理者と何やら話し込んでいるのを尻目に大作たちは町中に向かう道を目指して歩く。
港を町の境には門のような建物があり、短い槍で武装した門番みたいな男が立っている。だが、別に出入国審査をやっているわけではなさそうだ。特に見咎められることもなく通過することができた。
「フンッ! 半年前と同じだ。何の補強工事もしておらん!」
顰めっ面をした大作は心底から忌々しげに吐き捨てる。
だが、お園の鋭い観察眼は大作の節穴みたいな目とは違って僅かな差異も見逃さないらしい。半笑いを浮かべながら悪戯っぽい口調で返してきた。
「そうかしら、大佐。堀の幅が少し広くなっているみたいよ。それに掘りの手前と向こう側のそれぞれに柵が組まれているわ。何だか知らんけど随分と立派な構えになっているんじゃないかしら?」
「お、お園がそう思うんならそうなんだろう。お園ん中ではな」
例に寄って例の如く、阿呆な話をしながら大作たちは堺の町を歩いて行く。歩いて行ったのだが……
「前に来たときに比べて随分と様変わりしてるんじゃね?」
「だからさっきからそう言ってるでしょうに! お屋敷も人も随分と増えたみたいねえ。それに妙な格好をされた方も大勢いるわよ」
視線の先を追ってみれば南蛮人や明の商人と思しき異国人が徒党を組んで闊歩している。
こいつは関わり合いにならん方が吉だな。大作は慌てて視線を逸らすと精一杯のさり気なさを装って徐々に遠ざかった。
「んで? 私たちはいったい何処へ向かっているのかしら?」
「んん~っ、良い質問ですねえ、ほのか。でも、ちょっと考えたら分かるんじゃね? 俺たちが堺で知っている唯一の人物と言えばあいつしかおらんだろ?」
「もしや、天王寺屋の津田宗達様にございますか?」
ドヤ顔を浮かべた藤吉郎が食い付き気味に話に割り込んできた。
『貴様に発言を許した覚えは無い!』
大作は心の中で絶叫するとガン無視を決め込む。一同は暫しの間、黙って歩を進める。幾つかの通りを渡って角を曲がると漸く見知った屋敷が姿を現した。
「ここがあの男のハウスね! 頼もぉ~ぅ!」
「また、大佐ったら…… 藪から棒に大きな声を出さないで頂戴な」
お園が小さく舌打ちし、他の面々もあからさまに呆れた顔をしている。
待つこと暫し、店の奥から手代と思しき格好をした青年が姿を現した。
「へい、お待たせ致しました。って、大佐様ではござりますまいか! 何時、此方へ参られました?」
若い男は以前、海難事故のデータ集計を行った時に手伝ってもらった手代の一人のようだ。大作は自分の記憶にイマイチ自信が持てない。だが、何とはなしにそんな気がしてならない。
「そりゃあ、『今でしょ!』ってね。えへへ、今に決まってますでしょうに」
「さ、左様にございまするか。ささ、此方へどうぞ。まずは足など洗って下さりませ。すぐに主を呼んで参りまする」
手代は水の入った大きな盥と薄汚れた雑巾を足元に放置したまま廊下を奥へと駆けて行った。
「フンッ、馬鹿どもには丁度良い目眩ましだ!」
「あのねえ、大佐。津田様の前では余り無礼な振る舞いをしないで頂戴ね。お願いよ。御馳走が食べれる…… 食べられるかどうかの瀬戸際なんですからね」
「はいはい、分かってますよ。俺だってちゃんとしようと思ったらちゃんとできるんだからな」
「ちゃんとしようとしないから困ってるんでしょうに」
ワイワイと騒ぎながら雑巾で足を拭いていると背後から急に声が掛かった。
「大佐様、お園様。お久しゅうございますな。皆様方もお変わりのう」
「おお、津田殿。急に押し掛けて申し訳ございませんな。ちょっと伊賀まで野暮用がございまして。んで、不躾なお願いですが今晩泊めては頂けませぬか? 一番安い部屋で結構ですから。あと、夕餉と朝餉も付いてたら言うこと無いんですけど」
「あはははは! 何を申されまするやら、大佐様。一番良い部屋と格別なる馳走を支度致しまするぞ。大佐様にご指南頂いた海上保険や先物市場で堺は今や日の本の国で一番の金融センターとなりました。算盤や羅針盤も売れに売れておりますぞ。それに数多の鉄や銅、鉛を商って頂き報謝に堪えませぬ。大佐様には返しても返し切れぬ程の恩義がござりますれば。ささ、どうぞ此方へ参られませ。夕餉の支度が整うまで茶でも振る舞わせて頂きましょう」
一同は津田宗達の後ろに金魚の糞みたいにくっ付いて歩いて行く。案内されたのは左程は広くもない畳敷きの和室だった。
まあ、この時代に洋室なんてあるはずも無いんだけれども。いやいや、西洋に行けば幾らでもあるんだろうけどさ。そう言えば……
「ささ、大佐様。上座へどうぞ」
思考のループに陥りかかった大作の灰色の脳細胞が宗達の声で現実に引き戻される。目を凝らせば少し薄暗い部屋の中には何人かの人影が見えた。
宗達が手で指し示しているのが上座のようだ。地味だが上品そうな模様の座布団が敷いてある。
でも、すんなりここに座って良いものなんだろうか。茶席のルールなんて知らんけど、一回か二回くらい遠慮するものなのかも知れん。家康に上座を進められた秀頼だって辞退してたしなあ。
もしかして、三顧の礼みたいに三回進められてから座るのが吉かも知れん。そうだ、そうに違いない。
素早く考えを纏めた大作は卑屈な笑みを浮かべながら深々と頭を下げた。
「いやいや、津田様。本日は拙僧が客人にござりまする。ならば此方側に座るが道理。違いますかな?」
「何をおっしゃいますやら、大佐様。此度の茶席の亭主は千宗易殿にございます。大佐様は正客にござりますれば此方に座って頂かねば」
「そうは申されますがな、津田殿。拙僧にも拙僧の都合という物がござりますれば……」
「いい加減にしなさいな、大佐! 津田様が困っておられるわよ。四の五の言わず、とっとと座りなさいな!」
鶴の一声とはこのことか。お園の逆鱗に触れるのだけは真っ平御免の大作は慌てて席に着いた。
言われたことには黙って従う。それが大作の処世術なんだからしょうがない。
それにしてもこんな所で千宗易に邂逅を果たすとは思ってもみなかった。前に聚楽第で会ったのは小田原征伐の時だったから四十年も前…… じゃなかった先のことになるのか。
道理で若いはずだ。大永二年(1522)生まれらしいから今年で二十八歳らしい。大作は無遠慮に千宗易の顔をジロジロと見詰める。
その視線の意図を勘違いしたのだろうか。千宗易は手元にあった茶碗を僅かに持ち上げると口を開いた。
「此の茶碗は珠光茶碗と申しましてな。嘗て村田珠光殿が用いられておられた名物にございます。青磁とは思えぬ変わった色合いをしておりましょう?」
そんなことを言われても大作は青磁に関する知識なんて皆無に等しい。果たして本当に価値がある物なのかどうかもさぱ~り分からん。
何だか薄汚れて汚らしいなあ。斑になった模様のお陰でちゃんと洗っていないみたいに見えるんですけど? メラミンスポンジで擦ったら綺麗になったりして。こんなんじゃあダイソーで百十円(税込み)で売ってる茶碗の方がよっぽどマシなんじゃなかろうか。
熟慮のうえにも熟慮を重ねた末、大作は重い決断を下した。
「申し訳ございませんが厚生労働省の感染症対策ガイドラインに基づいて茶器の回し飲みは遠慮させて頂きとう存じます。拙僧どもはこれを使ってお茶を飲ませてもらいますんでお気遣いなく」
ドヤ顔を浮かべた大作はバックパックからチタン製マグカップを取り出すとお園へ手渡し、自分もチタン製コッヘルを手にした。
「さ、左様にございますか。然らば如何様にもご随意になされませ」
千宗易は開いた口が塞がらないといった顔をしながらも黙って茶を点てて……
「違うわ、大佐。お茶は立てるって言うのよ。ちなみに抹茶を入れることを手前って言うわね」
唐突なお園の突っ込みに大作は開いた口が塞がらない。だが、今回ばかりは相手が悪かったな。何せここには茶聖と呼ばれた茶道界の大ボス、千宗易がいらっしゃるのだ。
「あのなあ、お園。茶を点てるだとか点前みたいに点っていう字を使うようになったのは江戸時代も後期に入ってからのことなんだぞ。だから…… そうだな、俺が間違ってたよ。この時代は茶を立てるが正解なんだっけ」
過ちては改むるに憚ること勿れ。大作は米搗き飛蝗のようにペコペコと頭を下げた。
その仕草がよっぽど面白かったのだろうか。お園は得意満面の顔で鼻を鳴らす。
「でしょ、でしょ? ちなみに明から伝わった点茶を『茶ヲ点ズ』って読み下したことに由来しているそうね。それと茶人としても高名な幕末の井伊直弼大老は点前って書いて『たてまえ』って読んでたんですって。そうそう、こんな話もあるわよ……」
こうして話題はあらぬ方向へと脱線して行く。話に付いて行くことができない千宗易はちょっと寂しそうな笑顔を浮かべながら黙々と抹茶を掻き混ぜていた。




