巻ノ四百四 船の上の勉強会 の巻
翌朝、東の空が白みだしたころ東の遥か遠方に特徴的な山のシルエットが見えてきた。
「翼よアレが開聞岳だ!」
「大佐がそう思うんならそうなんでしょう。大佐ん中ではね」
「いやいや、誰が見たって開聞岳だろ。ねえ、船長殿?」
「そうかも知れませぬなあ。そうじゃないかも知れませぬが」
あんたにまでその口癖が感染しちまったのかよ! まあ、別にかまわないんだけどさ。大作は開聞岳を心の中のシュレッダーに放り込んだ。
「兵に食事をとらせろ。一時間後に攻撃を開始する!」
「こ、攻撃? 何を攻めると申されまするか?」
「マジレス禁止! 取り敢えずは佐多岬を目指して頂けますかな? んで、前回と同じように大泊に船を泊めて下さい。ここで水や食料の補給と休息を取ります。そこからは黒潮に乗って一息に紀伊の国を目指しますので覚悟しておいて下さいね」
「畏まりましてございます」
船長は深々と頭を下げると船首に向かって歩いて行った。
言われたことには黙って従う。それが彼の処世術なんだろう。大作は心の中で嘲笑うが決して会には出さない。
待つこと暫し…… と言うか、数時間ほど掛かって船は静かに大泊の砂浜に乗り上げた。
水主たちが忙しなく動き回っている間に大作たちは朝餉の支度を手伝う。
ここを出てしまうと数日間は揺れる船の上に缶詰だ。新鮮な食材は手に入り難いし凝った料理も作れない。そんなこんなでお園は普段以上に気合を入れて食事を作った。
いつもよりちょっとだけ豪華な料理を平らげ、食器を洗うのももどかしく船は逃げるように大泊を後にする。
九州東岸に沿って北上した前回とは違い、今回は北西へと真っ直ぐに進む。とは言え、暫くは大隅半島に沿って進むことになる。
内之浦宇宙観測所や志布志湾の沖合を通り、都井岬の先っぽを掠める。
この辺りで船は九州沿岸を離れ、太平洋を黒潮に乗って進んで行く。陸地がどんどん遠くなり、周りが三百六十度すべて海になった。
「アッ~! 無線のことを忘れてたぞ!」
「やっぱりねえ。さっきからそうなんじゃないかと思っていたのよ」
半笑いを浮かべたお園が小さく鼻を鳴らす。それを見た有象無象どもが我先にと付和雷同してきた。
「私めも思ってたわよ!」
「私も覚えていたわ!」
「私も、私も!」
「某も覚えておりました!」
忘れてたのは俺だけかよ…… って言うか、覚えてたんなら教えてくれたら良いのに。大作は頭を抱え込んで小さく唸る。
だが、くよくよしても問題は解決せん。たとえ遅れても何もしないよりはマシなはず。とりあえず通信テストを行うのが先決だ。
大慌てで無線機を取り出すと手早くセットアップを進める。勧めたのだが……
「ねえねえ、大佐。私めにやらせてくれないかしら?」
「私も、私も!」
「私もやりたいわ!」
「巫女頭領改め、修道女頭領の私が先じゃないかしら?」
「某もやってみとうございます」
みんなよっぽど手持ち無沙汰だったんだろうか。まるで餌を強請る池の鯉みたいに我先にと食い付いてくる。
「はいはい、喧嘩しないで。順番順番」
三人寄っただけでも姦しいのに四人の女と一人の少年が加わると筆舌に尽くし難い凄まじい威力だ。これはもう堪らんな。大作は素直にギブアップした。
「いいか、お園? レシーバーを耳に当てて電鍵を叩くんだぞ。いやいや、叩くってそういう風にじゃないよ。もっとやさしく頼む。乱暴にしたら壊れちゃうだろ」
「こんな感じかしら?」
「そうそう、上手い上手い」
やって見せ、言って聞かせてさせて見て、褒めてやらねば人は動かじ。
とは言え、最近の若い奴らは仕事を覚えた途端に転職しちゃうんだそうだけど。
「ちょっと、お園。そろそろ代わって頂戴な」
「いやいや、返信があるか確認してからだよ。もうちっとだけ待ってくれるかな?」
「ねえねえ、大佐。何かツーツー言ってるわよ?」
「それそれ、それをこの記録紙に書き付けるんだよ。早く早く!」
地図で確認すると船は鶴ヶ岡城から既に百二十キロくらい離れているはずだ。だが、意外や意外。未だに通信が維持できている。この無線機ってそんなに性能が良いのかなあ。もしかしてこれもスカッドのご利益かも知れんな。大作は草葉の陰で眠っているであろうスカッドに哀悼の意を捧げた。
北北東の風に対して紀伊の国は東北東の方角にある。如何に縦帆船とはいえ、風に向かって真っ直ぐ進むことはできない。
船長は水主たちに矢継ぎ早に指示を飛ばしてタッキングを繰り返す。その都度、進行方向を正確に測って記録することも忘れない。速度も計測して進んだ時間から距離を推定し現在位置を海図にプロットして行く。
潮流の影響がどれくらいあるかは分からない。だが、データだけは詳しく集めて置くにこしたことはない。
日が沈んで少ししてから月が昇ってきた。昨日の失敗に懲りた大作は『通信終了』の連絡をするまでは定時連絡を継続するようにとの通信を送る。待つこと暫し。鶴ヶ岡城から『了解』の返信が返ってきた。
「あとは睡魔との戦いだな。それか、誰かが夜じゅう起きていて無線機の番をしてくれる奴はいないかな?」
「……」
へんじがない、だだのしかばねのようだ。
お前らあんだけやりたがっていたのに、もう飽きたのかよ! まあ、こんな物は普通なら一度やっただけですぐに飽きそうだけどさ。大作は自分で言って自分で納得してしまった。
でも、夕餉でお腹が一杯になると眠くなっちゃうなあ…… ちょっとだけ。ほんの一瞬くらいなら仮眠しても良いかなあ? うん、大丈夫だろう。
ほんのちょっとだけ油断した大作は爆睡してしまった。
翌朝、すっきり爽やかに目覚めた大作は……
「し、し、しまったぁ~っ! 定時連絡を忘れてたぞ!」
「忘れたんじゃなくて寝てたんじゃないのかしら?」
炊きたてのご飯をお椀によそいながら覚めた目つきのお園が冷静な突っ込みを入れてくれた。
「そ、そ、そうとも言うな。とにもかくにも一晩中やるって言っておきながらすっぽかしちゃったんだ。謝るんなら早いに越したことはないかなあ。理由は無線機の不調とか何とか適当に誤魔化せば角は立たんだろうし。そうと決まれば善は急げと。・・・ー ・・・ー ・・・ー 」
大作は一心不乱に電鍵を叩く。叩いだのだが……
「返信が無いぞ。いったいどうしちまったんだろうな」
「返事が無いのは良い便りってことはなさそうね。もしかして、こっちからの通信が無いから聞くのを止めちゃったのかも知れんわね。それか、通信範囲から外れただけかも知らんけど。昼と夜で電離層の状態が異なるでしょう? 一般的に昼には高い周波数が良く反射されるけど、夜になると低い周波数の反射されるようになるとか何とか」
「うぅ~ん、返事が無いんじゃ判断のしようもないな。取り敢えず、確実に通信できたのは百二十キロほどだと確認はできた。今回のところはこれで十分な成果と言えるだろう」
大作は無線機のことを心の中のシュレッダーに放り込んだ。
朝餉を食べ終わった大作たちはお碗にお茶を注ぐ。食器の内側にくっ付いた米粒を沢庵で擦るようにして剥がすとお茶と一緒に飲み込んだ。
海の上では水が貴重だ。食器を洗うためだけに真水を使うだなんてとんでもない!
『贅沢は敵だ!』
大作は心の中で絶叫するが決して顔には出さない。
その時、歴史が動いた! 急に現れた船長が遠く左前方を指差しながら声を掛けてきた。
「大佐様、足摺岬が見えて参りましたぞ」
「足摺岬? それってどこでしたっけかな。ああ、白山洞門とか天狗の鼻とか色々あるところですね」
「金剛福寺がある所よ。堺から筑紫島に渡る折にも前を通ったわよねえ」
大作はバックパックから単眼鏡を取り出して覗き見る。目を凝らしてみれば鋭く突き出た岩場と周辺に点在する無数の岩礁が視界を覆い尽くしていた。
「都井岬から足摺岬までの距離は二百二十キロくらいですから…… 速度は九ノットってところですね。途中から風向きが良くなったのと黒潮のお陰でしょうかな」
「仰せの通りにございます。斯様に早う付くとは思うてもおりませなんだ。これならば明るい内に室戸にまで参れましょう」
お前がそう思うんならそうなんだろう。お前ん中ではな。
大作は心の中で呟くが決して顔には出さない。大げさに驚いた振りをしながら両手を広げた。
「素晴らしい、船長殿! 貴殿は英雄だ! 大変な功績だよ! バン、バン、カチ、カチ、アララ?」
「船長殿。『骨折り、大義にございました』と大佐は申されておられます」
「さ、左様にございますか……」
お園の解説に納得が行ったのか行かなかったのか。船長は分かったような分からんような顔をしながら黙って船尾へ戻って行った。
「どうやら黒潮大蛇行の影響は心配無さそうだな。もしそうだったら進路がもっと南に流されていたはずなんだもん」
「黒潮大蛇行? それってどれくらい大きな蛇なのかしら?」
大作の何気ない一言にお園が素早く反応する。もしかして長過ぎる船旅で疲労と不満が爆発寸前まで溜まっているのかも知れんな。あるいは暇を持て余して退屈が限界なんだろうか。
兎にも角にもガス抜きが喫緊の課題だろう。大作は腫れ物に触るように慎重に言葉を選ぶ。
「良い質問ですねえ。たぶんだけど瀬田の唐橋の下に済んでた大蛇くらい大きいんじゃないのかなあ」
取り敢えずは言葉のジャブだ。すっかり気を良くした大作は前のめりになって話に食い付く。
だが、お園から返ってきたのは想像を絶するほど強烈なレスポンスだった。
「いやあねえ、大佐。瀬田の唐橋の下に住んでいたのは竜王だったはずよ。確か瀬田の唐橋に大蛇が寝そべっていたせいでみんな困ってらしたのよ。そしたら通りかかった俵藤太(藤原秀郷)様が気にせずにに大蛇を踏んづけて通っちゃったのよ。そしたら晩になって綺麗なお姫様が訪ねていらしたのね。んで、姫様の正体は琵琶湖に住んでいらした龍神様で、お昼に俵藤太が踏んづけた大蛇もこの姫様だったのよ」
「そ、そんな話だったっけかなあ? 俺、あんまり良く覚えていなかったよ。でも、姫はどうして大蛇なんかに化けていたんだろうな。そういう趣味でもあったのかなあ」
「それは大蛇を見ても怖がらないような益荒男を探していたんですって。姫様は三上山の大百足を退治して欲しかったのね。俵藤太がそれを引き受けて三上山に行ってみると山を七巻半もする大百足が現れたのよ。俵藤太は得意の矢を射るんだけれど大百足にはこれっぽっちも通じないの。んで、お仕舞いの一本の矢に唾を付けて八幡神に祈念して射ったら見事に大百足を貫いたとか何とか。めでたしめでたし」
何がそんなにおめでたいのだろうか。俵藤太に取っては勝利の美酒に酔うような話かも知れん。だが、大百足は殺されるほど酷いことをしたわけでもないだろうに。話し合いで平和的に解決することはできなかったんだろうか。
そんな大作の気も知らず、ほのかやメイ、サツキ、藤吉郎たちはほっと安堵の胸を撫で下ろしている。
終わり良ければ総て良し。大作は黒潮大蛇行を心の中のシュレッダーに放り込んだ。
「なあなあ、ほのか。サツキやメイ、ついでに藤吉郎も聞いてくれ」
「つ、つ、ついでとは如何な物言いにございましょう? 某とて幹部要員の端くれ。ついで扱いは些か腑に落ちぬ思いが致しますが?」
「めんごめんご、そんな突っかかるなよ。今のは失言だった。お詫びして訂正致します。藤吉郎、お前は怒った顔より笑った顔の方が可愛いぞ」
「さ、左様にございますか……」
若干、引き攣った笑顔を浮かべる藤吉郎を無視して大作は強引に話を引き戻す。
「お園、ほのか、サツキ、メイ、藤吉郎(順不同) ここらで暇つぶしに勉強会と洒落こんでも良いかなぁ~っ?」
「「「いいともぉ~っ!」」」
全員がノリノリで返事を返してくれる。と思いきや、サツキだけがイマイチ乗り切れていないような、いるような。
大作はサツキの真正面に回り込む。暫しの間、両の瞳をじっと見詰めてから繰り返した。
「勉強会と洒落こんでも良いかなぁ~っ?」
「い、いいともぉ~っ!」
サツキはちょっと引き攣った笑顔を浮かべながらも元気にレスポンスを返してくれる。
少しだけ気を良くした大作のテンションもちょっとだけ上がった。
「今日の不思議のテーマは黒潮だ。最大で幅百キロ、速い所では流速が四ノットにもなる巨大海流の流量はなんとあの南米アマゾン川の百倍をも超えるんだそうな。この膨大な潮流はどういうメカニズムで発生しているのか? そのエネルギーはいったいどこから供給されているのか。力学的な観点から謎に迫ってみようではないか!」
「……」
へんじがない、ただのしかばねのようだ。
いきなり最初から飛ばし過ぎたのが敗因か? いや、まだだ。まだ終わらんよ! 無駄蘊蓄の力こそ人類の夢だからだ!
押して駄目なら引いてみな。大作は素早く方針転換を計った。
「取り敢えずコリオリの力で偏西風が生まれる。流石にこのメカニズムにまで遡って説明する必要は無いよな? な? な? な?」
「そ、そうねえ。大佐がそう思うんならそうなんでしょう。大佐ん中ではね」
「もし分かっていない奴がいたら後で各自自習するように。んじゃ、先に進むぞ」
どうやら同意は得られたようだ。大作は軽く頷くと話を進める。
「地球の自転によって偏西風や貿易風が拭く。風が吹けば桶屋が儲かり、エクマン輸送が発生する。要するに北太平洋の真ん中に向かって海の水が吹き寄せられる。すると周りに比べて真ん中の水位が上がる」
「海が真ん中だけ盛り上がるって言うの? 妙な事もあったものよねえ。そんなの私、見たことも聞いたことも無いわ」
「妙も何も、あるんだからしょうがないだろ? って言うか、周りから寄せてくるんだから盛り上がるしかないじゃんかよ。とにもかくにも偏西風と貿易風は年がら年中いつでも吹いている。だから北太平洋の真ん中はいつでも盛り上がっているんだな」
「ふ、ふぅ~ん」
何が不満なんだろう。ほのかが不貞腐れたように口を尖らせた。
サツキとメイは我関せずといった顔で視線を反らしている。
お園に至っては興味の欠片すら無さそうに遠く海の彼方を見詰めるばかりだ。
どうやら熱心なリスナーは藤吉郎だけらしい。
だが、たった一人でも熱心に聞いてくれている者がいる限りは説明を続けねば。いや、むしろ一人しかいない大切なリスナーだからこそやる気が出るってものだ。
大作はターゲットを藤吉郎ただ一人にロックオンすると少しだけ口調を強めた。
「そんなこんなで高水位の状態は維持し続けられる。すると大気の流れと同じ現象が起こる。つまり北半球では台風が反時計回りになるみたいに盛り上がった海面の周りでも時計回りに潮の流れが起きるんだ。亜熱帯循環の正体はこいつだ。黒潮っていうのは北太平洋の中緯度海域で時計回りに流れる亜熱帯循環の一つに過ぎないんだな、これが」
「先ほど海が盛り上がると申されましたな。いったい如何ほどの高さにござりましょうや?」
ただ一人の貴重なリスナーである藤吉郎から唐突に質問が飛び出した。
これはいい加減なことは答えられん。大作は慌ててスマホで情報をチェックする。
「えぇ~っと…… だいたい二メートルくらいみたいだぞ。七尺ほどってことだな」
「なんですって! たったの七尺なの? 大佐ったら、そんなちっぽけな事で大騒ぎしていたの?」
「いやいや、お園。この広い広い太平洋がずぅ~っと向こうまで全部が全部、盛り上がっているんだぞ。これがどんだけ凄いことだか分からんのか?」
「さぱ~り分からんわ(笑)」
そんな阿呆な話をしている間にも船は四国の遥か南沖合を順風満帆で進んで行った。
太陽が西の空へ大きく傾いたころ、船は室戸岬の遥か沖合を通り過ぎた。
進路を北西へと変える。丁度良い具合に風は南南東から強く吹いている。
呼んでもいないのにタイミング良く姿を表した船長がドヤ顔で告げた。
「夜が明ける頃には紀州の沖合に着いておることでしょう。風向きにも寄りますが明日の内には堺に着く事が叶うと思し召されませ」
「何だか知らんけどとんでもなく速かったですねえ。くれぐれも事故にだけは気を付けて下さりませ」
「心得ております。大船に乗ったつもりでご安堵召されませ。五百石ほどの」
人を小馬鹿にしたような薄ら笑いを浮かべた船長は思いっきり顎をしゃくると振り返りもせずに船尾へと戻って行った。




