巻ノ参百八拾六 訪ねろ!青左衛門を の巻
翌朝、大作は二日酔いに悩まされることもなくスッキリ爽やかに目覚めた。目覚めたのだが……
「うわぁっ! 小次郎の奴、ゲロ吐いてやがるぞ! まいったなあ、まったくもう……」
「でも、板の間で良かったわねえ。もしもお布団の上だったら大事だったわよ。美唯、ちょっと雑巾を借りてきて頂戴な」
「美唯、分かった!」
少女は元気良く返事をすると颯爽と駆けて行く。
その後ろ姿を見送った大作は薄ら笑いを浮かべると小さくため息をついた。
「フッ、馬鹿どもには丁度良い目眩ましだ!」
「大佐がそう思うんならそうなんでしょう。大佐ん中ではね。それはさておき、お布団を畳んじゃいましょうよ。美唯が戻ってくる前に」
「はいはい、今やろうと思ったのに言うんだもんなぁ~っ!」
幸か不幸か猫のゲロは吐いてから長い時間が経過していたらしい。お陰で乾いてカピカピになっている。なので固形分を回収するのは簡単だ。後は固く絞った雑巾で丁寧に拭いてやれば何一つとして証拠は残るまい。
クンクンと臭いを嗅いでみるが特に気になるほどでもないようだ。黙っていれば東郷の連中にバレる心配もないだろう。って言うかバレなければ良いなあ。
大作は軽く頭をフルと猫のゲロを心の中の蓋付きゴミ箱へと放り込んだ。
例に寄って例の如く、朝餉は東郷重治(大和守)に陪席を許された。
朝餉にしてはそれなりに豪華な料理を頂いた後、一同はほうじ茶を飲んで寛ぐ。
「して、大佐殿。今日は此れから如何なされるのじゃ? もしや、これにて立ち帰るのではあるまいな?」
「真にお名残惜しいことではございますが此度はこれにてお暇させて頂きとう存じます。無線機の改良に関しては今後も鋭意努力して参る所存にございます。必ずや画期的な性能向上が図れることにございましょうて」
「左様であるか。まあ、大佐殿もお忙しい御身じゃろう。然れどもシールド用の銅板のこと、返す返すもお頼み申し候……」
重治は大作の手を弱々しく握り締めると掠れた声で囁くように呟いた。
大作は重治の大きくてゴツゴツとした手を強く握り返すと自信満々のドヤ顔で言い返す。
「Don't miss it! って言うかStay tuned! 無線のことだけに。それはそうと大和守様。火花間隙を冷却するためにアルコール蒸気を吹き付ける件ですけど、くれぐれも火事だけには用心して下さいね。火災保険とか大丈夫ですか?」
「良う分かっておるわ。案ずるには及ばぬ」
「では、これにて失礼をば仕りまする。また近い内にお邪魔させて頂きますんで、その時は宜しくお願いしますね」
挨拶もそこそこに大作たちは逃げるように鶴ヶ岡城を後にした。
斧渕の河原には昨日に乗ってきた物とは別の川舟が泊まっていた。
大作は持ち前の巧みな交渉術を駆使して虎居まで乗せて欲しいと訴え掛ける。訴え掛けたのだが……
「大佐様を虎居までお乗せする様、殿より仰せつかっております。ささ、お乗り下さりませ。れでぃ~ふぁ~すとで」
「そ、そうですか。まあ、そういうことなら遠慮なく乗せて頂くと致しましょうか」
お園、美唯、菖蒲、大作の順で舟に乗る。ちなみに小次郎は雄なので大作が抱っこして乗った。
屈強な船頭が力いっぱい櫓を漕ぐと川舟はどんぶらこ、どんぶらこと川内川を遡上して行く。
一同は相も変わらず阿呆な話に花を咲かせて時間を潰した。
太陽が真南に昇り、川内川が大きく左へと向きを変える。川舟は虎居城から少し南にある船着き場へ辿り着いた。
ここでも大作は性懲りもなく船頭に『心ばかりの礼』を手渡そうとする。手渡そうとしたのだが……
「儂は殿の命によりて大佐様をお乗せしたのじゃ。故に礼なぞ受け取る道理がござらぬ。平にご容赦のほどを」
取り付く島もないとはこのことか。船頭は頑として謝礼を受け取る気がないらしい。
だが、ここで引いたら格好が悪いぞ。それに『吐いた唾は飲めぬ』って言うし。意地でも礼を渡さねばならん。でもどうやって?
大作は頭をフル回転させて無い知恵を振り絞る。そんな情けない姿を見るに見かねたんだろうか。お園が助け舟を出してくれた。
「いえいや、船頭様。貴殿は人に褒められる立派なことをなさいました。胸を張って宜しゅうございます。頑張ってね、おやすみ!」
「お、おやすみ? いやいや、まだ日が登ったところにございますぞ」
呆気に取られた船頭は口をぽかぁ~んとさせた。その一瞬の虚を突いてお園は大作の手から試作品の銭百紋金貨を奪い取ると船頭の手に押し付ける。唖然としたおっちゃんを残して一同は脱兎の如く逃げ出した。
無我夢中で疾走すること暫し。段々と走り疲れてきた大作は追手が掛かっていないことを確認したうえで歩を緩めた。
「どうやら生き残ったのは俺たちだけらしいな……」
「そうみたいねえ、大佐」
「ねえねえ、大佐。美唯、草臥れちゃったわ。小次郎を抱っこするのを代わって頂戴な」
「はいはい! 抱っこすりゃ良いんだろ、抱っこすりゃあ。今やろうと思ったのに言うんだもんなぁ~っ!」
大作は渋々といった顔で雄の三毛猫を受け取る。四人と一匹は青左衛門の鍛冶屋を目指して虎居の城下を進んで行く。
このまま山ヶ野に戻ろうかともおもったのだが、せっかく虎居に来たんだ。たまには青左衛門の顔を見るのも悪くないだろう。
ほぼ一月ぶりに歩いた町の様子は以前に比べると随分と活気に満ち溢れているような、いないような。いやいや、目に見えて景気が良さそうな雰囲気だ。
あちこちが人だかりで賑わい、荷物を積んだ馬が頻りに行き交っている。お陰で大作は馬糞を踏んづけてしまった。
「えんがちょ~っ!」
「いやいや、待てよ。馬糞を踏むっていうのはラッキーなことなんだぞ。運が付くとか言うだろ? 聞いたことないかな?」
「美唯、そんな運なら要らないわ!」
「そうよそうよ! 天は自ら助くる者を助く。運命は自らの手で切り開かなきゃ!」
何が彼女たちの心の琴線に触れたんだろう。見れば菖蒲までもが禿同といった顔で激しく頷いている。
とは言え、このままでは男の沽券に関わるぞ。何とかしてこの場を取り繕わねば。このまま言い包められたら世間体が悪すぎるぞ。何でも良いから屁理屈を捻り出さねばならん……
しかしなにもおもいつかなかった!
「だ、だったら。だったらもう…… 閃いた! だったら俺は自分の意思で馬糞を踏んだんだ! ざまあ見たかラ王! 俺は最後の最後まで蜘蛛の大作!」
「どうでも良いからその馬糞塗れの草鞋を脱ぎなさいな! 臭くて臭くて堪らないじゃない!」
「そうよそうよ! 早くしないと足まで臭くなっちゃうんだから」
大作は唇を噛み締めながら黙って草履を脱ぐことしかできなかった。
幸いなことに予備の草履なら沢山ストックを持っている。そもそも草鞋という物はそれほど長持ちする訳ではないのだ。備えあれば憂いなし。死して屍拾う者なし!
「フンッ! 所詮、奴は消耗品に過ぎん……」
「あのねえ、大佐。言ってて虚しくならないの?」
「べ、別にそんなことはないぞ。いやいや、本当にだぞ!」
「そう、良かったわね。さて、青左衛門様の鍛冶屋が見えてきたわよ。鉄砲の事をどうやって誤魔化すのか心積もりは決まったのかしら?」
お園がほんのちょっとだけ意地悪そうに微笑んだ。負けじと大作も人を小馬鹿にしたような薄ら笑いを返す。
「いやいや、誤魔化すだなんて人聞きの悪いこと言わんでくれよ。ちゃんと誠心誠意、正直にご説明させて頂きますから。さてと…… 頼もぉ~う! 誰かある! 出会え、出会え!」
「へい! おやおや、誰かと思えば大佐様ではござりますまいか。随分とご無沙汰しておりましたな。鉄砲のコンバットプルーフは如何な塩梅でございましたかな?」
小屋の中から青左衛門がひょっこり顔を現した。若い鍛冶屋はニヤニヤと愛想笑いを浮かべながら近づいてくる。
「おやおや、青左衛門殿。久方ぶりにございますな。鉄砲の件でしたら上首尾に終わりましたぞ。只今、詳細なレポートを作成中ですので纏まり次第お手元にお届け致します。ただ……」
「ただ? ただ、何にございますか? 何ぞ我らの鉄砲に障りでもございましたかな?」
青左衛門は大作の顔色を伺うように上目遣いで鋭い視線を向けてくる。その余りに強烈な眼光に大作は思わず一歩だけ後ずさってしまった。
「あの、その、いや…… 障りと申すほどのことはございませんが、些末な…… ほんの些細な…… 何って言えば良いのかな? うぅ~ん、閃いた! 改善提案! そう、改善提案がございましてな。そこで急遽として追加テストを行った方が良いんじゃないかという意見が各方面から寄せられまして。そんなわけで松浦半島の相浦松浦に預けて参りました。勿論、預けっぱなしじゃありませんよ。音羽の城戸って人を覚えてらっしゃいますか? あの御仁を見張りにつけておりますれば何の心配もございません。万一、何かあったらあの男が責任をとります。煮て食うなり焼いて食うなりご随意に致されませ」
大作はさり気なく全責任を音羽の城戸へと転嫁する。だが、若い鍛冶屋の関心は別の所へ向けられているようだ。暫しの沈黙の後、声のトーンを一段ほど落として絞り出すように呟いた。
「さ、左様にございまするか…… うぅ~む、其れは弱りましたな。実を申さば既に先行量産型の生産ラインを立ち上げておりまする。大佐様と一月近くもお話ができておりませんでした故、やむを得ず某の一存で決めさせて頂きました。何せ入来院や東郷は言うに及ばず、肝付からも注文が届いておりまして。現時点でのバックオーダーが三百丁を超えております」
「さ、左様にございますか…… それは大変なことですな。まあ、せいぜい頑張って下さりませ。そうそう、一つ言い忘れておりました。拙僧の独断で申し訳ありませんが相浦松浦と代理店契約を結んで参りました。宜しゅうございますかな?」
青左衛門は一瞬、虚を突かれたような顔で呆ける。だが、即座に立ち直ると小首を傾げた。
「だ、だいりてんけいやく? にございますか? まあ、大佐様が宜しいのならば宜しいのではござりますまいなか? 其れよりも申し上げたき儀が数多ございましたぞ。某も段々と思い出して参りました。大佐様がお留守の間に色々とございましてな。まずは今井殿より届きし石炭にございますが煙たくて煙たくて仕様がありませんぞ。斯様に臭うては使い物になりませぬ。大佐様が申されておられた無煙炭とやらは如何相成りましたかな?」
「そ、そうですか。そいつは残念でしたな。今井殿には私の方から再度お願い申し上げておきましょう」
「まだまだ他にもございますぞ。えぇ~っと…… 蒸気ハンマーに用いるピストンとシリンダーのクリアランスについて伺いたいのですが……」
こんな調子で大作は日が暮れるまで青左衛門の質問攻めに遭った。お陰で山ヶ野に帰るという当初の予定は実現不可能となってしまう。
どうにかこうにかやり過ごし、無事に開放されたのは太陽が沈むころだった。精も根も尽き果てた大作と愉快な仲間たちは材木屋ハウス(虎居)を目指して重い足を引き摺るように歩き始めた。




