巻ノ参百八拾壱 父の名はドン・ファン の巻
結成して間もない入来院水軍はよちよち歩きのヒヨコみたいな状態にすぎない。そんな醜いアヒルの子のような彼らを指導育成してくれる指導教官、有田源三郎をゲットした大作たちは久見崎への帰路につく。帰路についたのだが……
順風満帆で東シナ海を南下していた貨物船寧波を突如として強烈な暴風雨が襲う。このままでは危険が危ない。どげんかせんと…… どげんかせんといかん!
転覆という最悪の事態を避けるため、船は野母崎半島の先っぽに位置する横島への避難を決断する。だが、命からがら逃げ延びた先で出会ったのは想像もしない人物であった。
一同は暴風雨の吹き荒れる砂浜を足早に歩いて貨物船寧波へと移動した。狭苦しい艫矢倉に移動すると車座に座って世間話に興じる。
「こちらは私と共に布教を行っておるコスメ・デ・トーレス神父にございます。生まれはイスパニアのバレンシアでしたかな?」
「如何にも。以前はメキシコにおったのですがイスパニアの艦隊と共にモルッカまで参りました。そこでザビエル司祭に出会い、イエズス会に入会いたしました」
ザビエルから話を振られた中年男は得意気な顔で答える。
会話が途切れるのを待っていたかのように隣に座った若い男が口を挟んできた。
「私はフアン・フェルナンデス修道士にございます。私がザビエル司祭にお会いしたのはインドのゴアでありましたな」
「そうじゃった、そうじゃった。フェルナンデス修道士は確かイスパニアのコルドバ生まれだったかのう?」
「左様にございます。リスボンからインドへと流れて参りました」
フェルナンデス修道士とやらの年の頃は二十代後半といったところだろうか。イエズス会ズッコケ三人組の中では一番の若手らしい。とは言え、日本語の流暢さではもっとも優れているようだ。
他の二人には若干のたどたどしさがある。だが、フェルナンデス修道士の日本語はまるでネイティブの日本人かと見紛うレベルだ。
「ふぅ~ん、そうなんですか。それにしても皆さん日本語がとってもお上手ですねえ。特にフェルナンデス修道士。あなたは何でそんなに上手なんですか? 小さなことが気になってしまう。拙僧の悪い癖でしてなあ」
「にほんご? ああ、この国の言葉のことにございますか。それはもう、苦労して覚えたのでございます。宣教師たる者がその地の言葉を操れねば布教など出来よう筈もございませぬよって。そも、宣教師になれるのは異国の言葉を操るに長けた者と決まっておりますれば」
「それにしても上手すぎるんじゃありませんか? 皆さん日本に来られて一年かそこらでしょう? いったいどこで覚えられたんですかな? もしかして駅前留学とかいう奴ですかな?」
「そのことなればインドのゴアと申す地において此方の弥次郎より手ほどきを受けました」
フェルナンデス修道士の視線の先には小柄だが屈強な体つきをした中年男性が胡座を組んで座っていた。
真っ黒に日焼けした男は鋭い視線を向けながら軽く頭を下げる。
「某は弥次郎と申します。以後、お見知りおきのほどを」
「弥次郎さんですって? なんだかヤジロベエみたいなお名前ですね。こちらこそ宜しくお願いいたします。こいつは妻のお園。んで、連絡将校の美唯。世にも貴重な雄の三毛猫の小次郎です。良かったら抱っこさせてあげても宜しゅうございまうすよ。さあさあ、どうぞどうぞ」
「いやいや、結構にございます。ご遠慮させて頂きます」
ちょっと迷惑そうな顔をした弥次郎が体をのけぞらせる。もしかして猫アレルギーなのかも知れんな。
大作は心の中のメモ帳に『弥次郎は猫が苦手かも知れない』という情報を書き込んだ。
「ところでザビエルさん。貴方は何処のご出身なんですか? やっぱお二人と同じイスパニアなんですかな?」
「いやいや、私はナバラ王国の生まれにございます。ナバラ王国の生まれにございますが……」
「どしたんですか? もしかして何ぞやらかして国外退去処分にでもなったとか?」
「滅相次第もございません。真に悔しい話ですがナバラ王国は私が九歳のころ、イスパニアに滅ぼされてしまったのでございます。宰相を務めておった我が父、ドン・フアン・デ・ハッソが亡くなったのも丁度その頃のことでしたな」
悔しそうな顔のザビエルは声のトーンを落として独り言のように呟いた。
何だか雰囲気が暗いなあ。大作は淀んだ空気を入れ替えようと努めて明るい声で言い返す。
「ドン・ファンですって?! そんな名前の人って本当にいるんですねえ。まあ、我が国にも紀州のドン・ファンっていうお方がいらっしゃいましたけど。もしかして遠い親戚だったりしませんかな?」
「さ、さあ…… この地に縁者がおるとは聞いたことがありませぬな。時に大佐殿。我らの布教に合力を頂けるとのお話、どこまで信じて宜しいのでしょうか? 大佐殿はどこからどう見ても僧の格好をしておられますぞ。それにお園殿は巫女にございますな。我らがデウス様の教えを広めるのに手を貸して頂けるとは如何なる道理にございましょうや?」
閑話休題とばかりにザビエルが話題を急転回させる。余りにも急激な方向転換に大作は思わず振り落されそうになってしまった。
「えっ、えっ、えっ?! 何ですって? 坊主と切支丹が組んだからといって何の障りがございましょうや? 拙僧が良く知っているお坊さんなんてクリスマスにチャリティーバザーとかを普通にやってましたぞ。そも、日の本の国は八百万の神々の住まう国。神様と仏様だって仲良くやっておられるんです。そこにデウス様が一人加わるくらい屁でもございません。仲良くできんはずがありますまい。それとも何ですか? デウス様とやらはそんなに心の狭いお方なんでしょうかな?」
「ど、どうなんでしょうなあ。全知全能の神、デウス様に限ってそんなことは無いと信じたいですが……」
「そもそも神様って本当に全知全能なんでしょうかねえ? 拙僧はそもそもその前提が間違っているんじゃないかと思うんですよ。たとえばこんな話を聞いたことはございますかな? 『神様は自分が持ち上げることができないほと思い岩を創造できるか?』っていうパラドックスを」
「そ、それはできるのではござりますまいか? 何せ全知全能の神様ですから!」
ザビエルはほんの一瞬だけたじろいだ顔になった。だが、即座に立ち直るとドヤ顔を浮かべ、まるで勝利宣言でもするかのように言い放つ。
と思いきや反論の声が意外な方向から聞こえてきた。
「そうなのかしらねえ? 美唯、思ったんだけど全知全能っていうのは何でもできるってことでしょう? だったら重い岩が持ち上げられない神様って全知全能じゃないと思うのよ。違うかしら?」
「ぐぬぬ。ならば、ならば…… 神様がお作りになられた時にはご自身で持ち上げられないほど重い岩であった。されど、その後の鍛錬によって重い岩を持ち上げられるようになった。そう考えれば何もおかしなところはござらぬと思うが? 如何であろうか?」
ザビエルは首を傾げながらも独自の理論というか屁理屈というか…… 謎の論理展開をこね回す。だが、その表情からは自分自身でもイマイチ納得が行っていないという感情が伝わってくるほどだ。子供だましの無理やりな言い訳だと本人も薄々は分かっているんだろう。
これ以上、追い詰めるのは止めといた方が良いんだろうか? やり込め過ぎて嫌われたら今後の活動に支障が出るかも知れんしな。大作はヒートアップしそうな議論に冷水を浴びせようと……
その時、歴史が動いた! それまで沈思黙考を続けていたお園が突如として口を開いたのだ。
「そも、神様なんていないのよ。もし、いるっていうんならたった今、目の前に連れてきて頂戴な。さあ、さあ! Hurry up! Be quick!」
「いや、あの、その…… 一応お前は巫女ってことになってんだぞ。その発言はどうなんだ? って言うか、そもそもこれは思考実験なんだからさ。そんな大前提を引っ繰り返すようなことを言われても困っちゃうぞ。もしも全知全能の神様がいたらどうかっていう例え話なんだからさ」
「だったら全知全能の神様はいるんじゃないの? だって、もしも全知全能の神様がいらっしゃったらっていう例え話なんでしょう? いなかったらお話の前提が成り立たないわよ。私、間違った事を言っているかしら?」
「美唯もそう思うわ! 何だか難しくて良く分からんけど!」
「にゃあ! にゃあ!」
何で俺が攻撃されなきゃならんのだろう? やってられんわぁ~っ! 大作は考えるのを止めた。
閑話休題。
大作はザビエルとの宗教論争というか屁理屈合戦というか…… とにもかくにも得意の話題反らしで敵前逃亡した。
まんまと術中に嵌ったザビエルは艫櫓の引き戸を少しだけ開くと空模様を伺いながら呟いた。
「時に大佐殿。我らはいったい何処に向かっておるのでしょうか? 見たところ南に向かっておるようですが」
ザビエルは南の空に高く上がった太陽を見上げながら小首を傾げる。嵐が過ぎ去って再び広がった晴れやかな青空には雲一つとして浮かんでいない。
「それは着いてからのお楽しみと致しましょう。天候に問題が無ければ夕方までには到着の予定です。それよりもこの時間を利用して細かい作戦を立てておきませぬか?」
「さくせん? にございますか」
「懸命の努力にも関わらずザビエル殿の薩摩における普及活動は失敗した。これは動かしようの無い事実ですよね? まずはこれを認めないことには話が始まりません。その上で問題点を見つけ出し、改善点を探るのです。さぁ~あ、みんなで考えよう!」
大作は両の手をポンと打ち鳴らす人を小馬鹿にしたような薄ら笑いを浮かべた。
暫しの間、沈黙が場を支配する。やがて痺れを切らしたお園が嫌々といった顔で口を開いた。
「久々のブレインストーミングね。確か批判厳禁、他人のアイディアに乗っかるんだったかしら? それじゃあ私から行くわよ。ザビエル様、真にご無礼ながらその置物は些かみすぼらしゅうございませんか? いま少しばかり着飾った方が宜しいかと存じます」
まずはファーストバッターのお園が鋭い口火を切る。その鋭い舌鋒には遠慮会釈の欠片も見受けられない。
だが、取り敢えず話の切っ掛けは作れたようだ。後はこれを上手い具合に繋いで行けば何とかなる。大作は否定的にならないように気を使いながら頭をフル回転させる。フル回転させたのだが…… しかしなにもおもいつかなかった!
「そ、そうだな、お園。清貧だか何だか知らんけど質素も過ぎれば貧乏臭いのと代わらん。白装束みたいに究極の簡素な美を追求してみるのも悪くないかも知れんな。美唯、お前は何か思いつかんのか?」
「そ、そうねえ…… 美唯はそも、切支丹の神様っていうのが良い分からないわ。まずはそこから説いて頂戴な」
「キ、キリスト教の歴史を初めから説明しろだって? 本職のカトリックの司祭の前でか? マジかよ……」
大作は頭を抱え込むと小さく唸り声を上げた。




