巻ノ参百七拾九 風が吹くとき の巻
肥前、壱岐の水軍衆として有名な松浦党の宗家、相神浦松浦氏。その御当主にあらせられる松浦親(丹後守)の下を訪ねた大作は棚から牡丹餅と言うか瓢箪から駒と言うか…… 行き当たりばったりの出たとこ勝負で相神浦松浦氏との間で代理店契約を結ぶことに成功する。成功したのだが……
「うぅ~ん…… 勝手に代理店契約なんて結んじゃって良かったのかなあ。俺、何だか心配になってきちゃったよ……」
「あのねえ、大佐。いったいいつまでくよくよしているつもりなのよ。今さら言うても詮無きことでしょうに」
「だけどなあ…… 青左衛門に何の断りも入れずに契約しちゃったんだぞ。もしあいつが物言いを付けてきたらどうしよう。俺、あいつを説得する自信なんてないんだけれど……」
「なぁ~んだ、大佐ったらそんなつまらない事を憂いていたの? そんなの事後承諾で構わないわよ。それにいざとなれば契約書に不備があったとか何とか適当に理由を付けて契約を破棄しちゃえば良いんですし。何がどう転んでも私たちに損は無いわ。だってルールは私たちが作るんですもの」
「そ、それはそうなんだけど。でもその場合、アイツの始末はどう付けるんだ? 何ぞ良いアイディアはあるのかな?」
大作は眼前で忙しなく動き回る青年の姿をぼぉ~っと眺めながら渋面を浮かべる。若者の年齢は二十代前半といったところだろうか。
彼の名は有田源三郎。相神浦松浦氏から派遣して頂いた訓練教官的な立場のお方だ。
誕生して間もない入来院水軍を一人前に育てるためには必要不可欠の人材といえる。
だが、お園にとってあの男は数ある消耗品の一つにしか過ぎないらしい。満面の笑みを浮かべると呟くように囁いた。
「帰り道で行方不明になるのは良くある事よ。カリオストロ伯爵も言ってたじゃない」
「……」
半月にも及ぶ歳月と千キロを超える長い長い航海の果て、漸く手に入れた貴重な人材。そんな大切なキーパーソンを契約書類の不備みたいに詰まらない理由で失うのは勿体無いなあ。絶対に勿体無いお化けが出るぞ。大作は頭を抱え込んで小さく唸る。
どげんかせんと、どげんかせんといかん。何とかして青左衛門の代理店契約の件を認めさせねばならん。あるいは代理店契約を破棄しつつも別の方法で松浦親のご機嫌を取る方法を見付けねば。若しくは有田源三郎を引き抜きというかヘッドハンティングというか入来院で召し抱えるという手もあるか? そうだ、閃いた! だったらもう……
「大佐殿!」
迷走しかけていた大作の思考が突如として現実へと引き戻される。声のする方へと目を見やれば誰あろう、話題の中心人物である有田源三郎が間近に立っていた。
「ああ、有田殿。如何なされましたかな?」
「何やら西の方で空模様が怪しゅうなって参りましたぞ。此処は一つ大事を取って船を一時、陸に上げては如何にござりましょうや?」
「ふ、船に陸に上げるですと? 船頭多くして船山に上るなどと申しますが本当にそんなことができるんですかねえ?」
「いやいや、大佐殿。お戯れを申されまするな。彼方に見えております横島が宜しゅうござりましょう。あの島はゴツゴツとして見えますが、向こうの端には船を泊められる砂浜がございます故」
有田源三郎の言葉は一応、提案の形を取ってはいる。だが、鋭い口調からは有無を言わせぬ強い意志が伝わってくるかのようだ。
彼の視線の先を追っていくと遥か彼方、野母崎半島の先っぽに凸凹した平べったい島が浮かんでいる。
「凸凹しているのに平べったいですって? それってどんな形なのかしら?」
「それは自分の目で見て判断してくれよ。ほれ!」
大作は単眼鏡を美唯の手に押し付ける。
だが、一難去ってまた一難。今度はお園が鋭い突っ込みを入れてきた。
「浮かんでいるって言ったけど、真に浮かんでいるわけじゃあないんでしょう?」
「そりゃそうだよ。ひょっこりひょうたん島じゃあるまいし。とにもかくにも、あの島を目指してレッツラゴーだ!」
真面目に相手をするのが阿呆らしくなってきた大作は早々を白旗を上げた。
気が付けば隣にはいつの間にか船長が立っており、何か指示を求めるかのようにこちらの顔色を伺っている。
「あの、その、いや…… 船の運行に関する決定権は船長に全てお任せしておりますぞ。拙僧はそれについていちいち文句を言うつもりは毛頭ございません。有田殿の意を汲むも汲まざるも船長の思し召しのままに。己の信ずるがまま、ご随意になされませ」
「御意! では皆の衆、あの島を目指すぞ。今宵は早目に船を泊めて嵐をやり過ごすと致そう」
「へい!」
号令一下、水主たちが忙しなく動き出す。帆の角度を調整する者、舵を取る者、上陸に備えて何やら支度を始める者、エトセトラエトセトラ…… みんなちがってみんないい!
大作も何か手伝うことでもないかと辺りを見回す。見回したのだが…… ぼぉ~っと突っ立っているだけだと邪魔にしかならなそうだ。小さく首を竦めると足早に艫矢倉に引っ込むことしかできなかった。
大作、お園、美唯と小次郎は狭くて薄暗い艫矢倉に籠もって時間を潰す。待つこと暫し、時間の経過と供に徐々に船の揺れが強くなってきた。
「ねえねえ、大佐。私たち前にもこんな目に遭ったわよねえ。答志島から安濃津へ行く折に船が沈みそうになったわ。この船は大事ないのかしら?」
「何とかなるんじゃね? いざとなりゃ、あの時みたいに俺が『Amazing Grace』を歌っても良いしな」
「歌うってことは、その『あめえじんぐれいす』って言うのは歌なのかしら? 美唯、そんな歌は聞いたこともないわよ。教えて頂戴な、大佐」
「どうどう。餅付け、美唯。教えてやるからさ。ただし、その時間と場所の指定はしていないぞ。だから我々がその気になれば教えるのは十年後、二十年後ということも可能だろうということ……」
「えぇ~っ! 美唯、いますぐに教えて欲しいわ! 美唯、待つのが大嫌いなのよ! 教えて、教えて、早く、早く! Hurry up! Be quick!」
「はいはい! 分かった、分かった、分かりましたよ!」
そんなこんなで何の脈絡もなく三人と一匹は嵐で揺られる船の上で『Amazing Grace』を合掌する羽目になってしまった。
頭から一小節ずつ区切って大作がサックスを吹き、お園が歌って聞かせる。美唯は納得が行くまで何度も何度も練習を繰り返す。
やがて小一時間もすることにはすっかり歌をマスターしてしまった。
「これならどこで歌っても高得点間違いなしだな。変に小節をきかせたりせず、メロディーに忠実に歌うように心掛けろ。あと、キーが合わないと思ったら遠慮せずに調節するんだ。それから……」
そんな阿呆な話をしている間にも我らが貨物船『寧波』は横島とやらに到着したようだ。軽い衝撃と共に船の揺れがピタリと止まった。
「さて、下船の支度でも始めるとするかな」
「どうなのかしら、大佐。このまま船に残った方が良いかも知れないわよ」
少しだけ開けた引き戸の隙間から外の様子を伺っていたお園が不安げな声を発する。
いったい何事が起こっているんだろう。大作も興味津々といった顔で隙間に顔を寄せた。寄せたのだが……
何だか知らんけど物凄い暴風雨なんですけど。これはもう堪らん。とてもじゃないが外になんて出られそうもない雰囲気だ。
殺気立った顔つきの水主たちが帆や櫓が風で飛ばされないように固定するものもどかしく、大急ぎで船底へと退避しようとしている。
「お園の言う通りだな。暫くはこのまま待機するしかなさそうだな。夕餉は残り物を適当に温め直して済ますとしよう」
「えぇ~っ!」
「食べる物があるだけでも有り難いと思わなきゃ。文句を言わずに食え!」
河豚みたいに膨れっ面をしたお園を宥めすかしながら大作は百円ライターで竈に火を起こした。
鍋に海水と真水を適当な割合で混ぜ合わせて沸かす。冷たくてカチカチになったご飯をそっと入れてお箸で掻き混ぜる。萎びかけた得体の知れない野菜屑を細かく千切って適当に放り込む。
「美味しゅうなあれぇ~! 美味しゅうなあれぇ~! 美味しゅうなあれぇ~!」
ただただひたすら呪文のように唱えながら掻き混ぜる手は決して止めない。なぜならば焦げ付くのが怖くて堪らないからだ。
「竈はガスと違って火加減が簡単に調節できないのが困っちゃうよなあ。せめて囲炉裏の自在鉤みたいに火との距離だけでも自由に調節できたら便利なのに」
「そうは言ってもあんな物、揺れる船の上で使える筈もないわよ。上からぶら下げるだけじゃ駄目ね。下からも引っ張って確と押さえておかなくちゃ。だったらこういうのはどうかしら」
お園はタカラトミーのせんせいを取り出してペンを手にすると一瞬だけ考え込む。次の瞬間、白い盤面にサラサラとペン先を滑らせて……
その時、歴史が動いた!
木と木が強く擦れ合って軋む音、分厚い板が真っ二つに圧し折れる音、巨大な質量と固さを持った物体が激しく衝突して潰れる音、エトセトラエトセトラ……
ほんの刹那の間に凄まじい轟音が響き渡った。だが、音の大きさとは相反して艫矢倉に加わった衝撃は大した物ではなかった。
「何なんだろうな、いったいぜんたい? もしかして飛行機でも落ちたんじゃなかろうな?」
「そうかも知れんわね、そうじゃないかも知らんけど。とにもかくにも大佐、早く見てきて頂戴な。こんなんじゃ、ご飯が喉を通らないわよ。雑炊の火加減なら美唯が見て置いてあげるから」
「そうよそうよ。大佐、ささっと行ってぱぱっと見てきて頂戴な。大佐の分はちゃんと残しておいてあげるから」
「はいはい、分かりましたよ。いま見に行こうと思ったのに言うんだもんなぁ~っ!」
思いっきりブー垂れながらも大作は重い腰を上げた。のそのそと這い進んで引き戸を開ける。艫矢倉の外は相変わらず物凄い暴風雨が吹き荒れている。
だが、直後に目に飛び込んできた衝撃的な光景は大作の脳裏から夕餉のことを吹き飛ばしてしまうほど衝撃的な物だった。




