巻ノ参百七拾四 解け!記憶の封印を の巻
久見崎への帰路を急ぐ貨物船『寧波』は関門海峡を抜けて響灘へと入り大島に停泊した。
大作、お園、美唯、小次郎は夕食後の腹ごなしに宗像神社『中津宮』を目指して浜辺を散策する。
だが、道に迷った一同の眼前に現れたのは沖合にある小さな岩場、干洲へと伸びる不思議な道だった。
この道を手を繋いで渡った二人は結ばれる。そんな胡散臭い伝説を真に受けた大作たちは即座に実行する。実行したのだが……
「たったいま通ってきた道が無いんですけどぉ~っ! 普通、干潮から満潮って六時間くらいは掛かるんじゃなかったっけ? 何でこんなに早く潮が満ちたんだ? わけが分からないよ……」
「あっという間に潮が満ちたんでしょう? だったらあっという間に潮が引くかも知れんわよ。暫く待ってみたらどうかしら?」
「いやいや、潮汐作用っていうのは月の重力の影響なんだぞ。どう考えてもそれは無いだろう。取り敢えず、この木が生えている所までは海水が上がってくることはないはずだ。そうなると潮が引くまでここで頑張るしかないな」
「えぇ~っ! あと六時間もこんな所にいなきゃならないの? そんなにいたら真夜中になっちゃうわよ。船の方々だって私たちの事を案じてるんじゃないかしら」
お園は目まぐるしく表情を変えながら不満を口にする。隣では禿同といった顔の美唯と小次郎が何度も無言で頷く。
「あのなあ…… そりゃあ俺だってこんな所にいたくはないぞ。だけども他にどうすれば良いっていうんだよ? 何か代案でもあるのかな? あるなら言ってみ? さあさあ!」
「そ、そうねえ。だったら…… だったら誰かが向こう岸まで海を泳いで行って助けを呼んでくれば良いんじゃないかしら?」
両の手のひらを肩の高さで掲げたお園が半笑いを浮かべる。その表情からは真剣さの欠片も感じられない。大作は急に真面目に相手をするのが阿呆らしくなってきた。
「その誰かっていうのは具体的には誰なんだ?」
「そ、そりゃあ美唯じゃない誰かよ」
「私も嫌よ。こんなに暗くなってから海に入るだなんて真っ平御免よだわ」
「にゃあ! にゃあ!」
予想していたとはいえ、激しいブーイングの嵐が吹き荒れる。大作は堪らずマトリックスみたいに上体を仰け反らせて回避した。
「はいはい、分かった、分かった、分かりましたよ! とは言え、このまま手をこまねいて…… こまぬいて?」
「確か『こまねく』は『拱く』が変化した言葉だったんじゃなかったかしら。たぶんだけど」
「たぶんかよ! んで、何の話だったっけ? ああ、そうそう。海を泳ぐのは嫌だって話だったな。だったら…… だったら筏でも作ってみるか? 幸いなことに僅かだけども木が生えてるぞ。こいつを切り倒して適当に組み立てれば人が乗れるくらいの筏は…… 無理だな。でも、小次郎なら乗れるかも知れんぞ」
「にゃあ!」
途端に小次郎が魂から捻り出すような呻き声を上げた。言葉の意味は良く分からんが断固として拒否するという強い意志だけはしっかりと伝わってくる。
「うぅ~ん。アレも駄目、これも駄目って言われてもなあ。せめて反対するなら代案を出してくれよ」
「そうねえ…… だったら大きな声で助けを呼んでみたらどうかしら?」
「いや、あの、その…… こんなに離れてるのに聞こえるとは思えんのだけれど」
「あら、大佐。反対するなら代案を出して頂戴な」
これ以上はないほどのドヤ顔を浮かべた美唯が顎をしゃくる。ムカッっとした大作は発作的にぶん殴ってやりたくなった。
だが、暴力では何も解決しない。むしろ状況を悪化させるだけなんじゃなかろうか。なけなしの精神力を総動員して何とか衝動を抑え込むのが精一杯の抵抗だ。
「だったら…… だったら発光信号はどうじゃろな? LEDライトでSOSを発信してみるとか。『・・・ーーー・・・』っていうアレだよ。ピンクレディーのUFO…… じゃなかった、サウスポーでもないな。何だけ?」
「だからSOSでしょう? たったいま自分で言ったじゃないの」
「いやいや、分かっててわざとボケたんですから。とにもかくにもSOSは世界共通の救難信号なんだ。通じないはずがないだろ? さて、ここで一つトリビアを紹介しようかな。ちなみにトリビアっていうのはラテン語で三叉路のことなんだ。昔のローマには三叉路がやたらめったら多かったとか。だからどこにでもあるありふれた所って意味で使われるようになった。そのうちにどうでも良いつまんないことを指すようになったんだとさ」
「へぇ! へぇ! へぇ! 美唯、また一つ賢くなっちゃったわ」
ドヤ顔を浮かべた美唯が物凄い勢いでへぇボタンを連打した。
だが、隣のお園は浮かぬ顔をして小首を傾げている。
「ねえ、大佐。トリビアのトリビアはどうでも良いからSOSに纏わる小ネタを聞かせて頂戴な。って言うか、小ネタを聞かせてくれないと悪戯しちゃうわよ」
「何じゃそりゃ? とは言え、ここで引いたら男が廃るな。そんじゃあ取っておきのトリビアを一つ聞かせて進ぜよう。どういうわけでSOSっていう文字の組み合わせが救難信号になったのか? その理由は反対側から見てもSOSって読めるからだって話を昔、テレビで見たような気がするんだ。昔の通信士はレシーバーで音を聞きながら記録紙にペンで筆記してただろう。それを他の人が反対側から見てもすぐるSOSに気付けるようにって配慮だとか何とか」
「ふぅ~ん。それって救急車の車体前方に書いてある文字が鏡写しになってるのと似た発想ね」
「アレは前の車がバックミラーで見たときに分かりやすいようにって配慮なんだけどな。ところがギッチョン! WikipediaでSOSのことを調べてもそんな話はどこにも出てこないんだな。きっとガセネタだったんだろうな」
途端にお園と美唯の表情が見たこともないほど険しくなった。なんて感情の起伏の激しい奴らなんだろう。そんなんじゃポーカーで勝てないぞ。大作はとびっきりのポーカーフィエスを浮かべながら次なるトリビアを披露する。
「話は変わるんだけど遭難符号の『・・・ーーー・・・』っていうのは実はSOSじゃないって知ってたか?」
「SOSなのにSOSじゃない? それって禅問答か謎掛けなのかしら?」
「いやいや、文字通りの意味だよ。本来の遭難符号『・・・ーーー・・・』は途中で区切ったりしない一つの纏まりなんだ。だけどもモールス符号にそんな長い符号はないだろ? だから『・・・』のSと『ーーー』のOで表したのは偶々なんだとさ。だから『・・・ー』のVと『ーー・・・』の7かも知れないし、E、U、T、D、Eだと言っても間違いじゃない。他にも3BとかVTBとかIWNIでも構わん。要は相手に通じればどれでも良いんだよ」
「そ、そうなんだ…… 何だか知らんけどSOSの値打ちがちょっとだけ下がった様な気がするわね」
「さて、こんなところでどうじゃろ。俺のトリビアはご満足頂けたかな?」
大作は卑屈な笑みを浮かべると両の手のひらを肩の高さに掲げた。だが、好奇心の塊みたいな二人の瞳の奥には邪悪な炎が燃え滾っているような、いないような。
こいつらに生半可なトリビアは返って逆効果だったのか? だったら覚悟を決めねばならんかも知れんな。そうじゃないかも知らんけど。
捨て鉢的な覚悟を決めた大作は無い知恵を振り絞って頭をフル回転させる。
「だったら…… だったらこんなのはどうじゃろな? ピンクレディーのSOSって曲を知ってるか? あの曲のイントロで『・・・ーーー・・・』って音が流れるだろ? でも、ラジオではこの部分は放送できなかったんだ。何でかって言うと……」
「そんなの決まってるじゃない。電波でSOSを流したら真の救難信号と紛らわしいからでしょう?
違うかしら?」
「よ、良く知ってたな。偉い、偉い。ちなみに1999年にモールス符号による遭難信号取扱は廃止された。お陰で今は普通に放送できるようになった。めでたし、めでたし」
「そう、良かったわね…… って、これっぽっちも良くないわよ! 私たち、いつまでこんな小さな岩場にいなきゃならないのかしら? もううんざりだわ。早く何とかして頂戴な!」
「にゃあ! にゃあ!」
女三人寄れば姦しいと言うけれど、女二人と雄の三毛猫一匹でも意外と姦しいなあ。大作は思わず頭を抱え込みたくなる。だが、狂人な…… じゃなかった、強靭な精神力を振り絞ってどうにかこうにか抑え込む。
「俺だって何とかできるなら何とかしたいよ。って言うか、だからLEDライトでSOSを発信しようって言ってるんだろう? 違うかな?」
「はいはい、分かったわ。だれも嫌だなんて言っていないでしょうに。それじゃあV7でも3BでもVTBでもIWNIでもEUTDEでも何でも良いわよ。とにもかくにも早くして頂戴な。私、なんだか厠に行きたくなってきたわ」
「美唯も! 美唯も厠に行きたくなってきたわ!」
「にゃあ! にゃあ!」
ここは地獄かよ〜! 大作はもう本当に心の底からどうでも良くなってきた。って言うか、もうどうとでもなれぇ~っ!
自棄糞というか捨て鉢というか…… 自暴自棄になった大作は荷物を頭上高く抱え上げると真っ暗な海へと踏み出した。
「ここはついさっきまで陸地だったんだ。だったらそんなに深いはずがないだろう。きっと歩いて渡れるはずだ。助けを呼んでくるから首を長くして待っていろ。キリンみたいにな」
「ミャンマーのカレン族みたいにして待ってるわ!」
「美唯も! 美唯も鶴みたいにして待ってるわね!」
「にゃあ!」
アルパカみたいに首の長い猫を想像した大作は思わず吹き出しそうになったが空気を読んで必死に我慢した。
散々に迷った末、やっとの思いで船に辿り着く。大作の姿を認めた船乗りたちが慌てた顔で駆け寄ってきた。
「大佐様、ご案じ申し上げておりましたぞ。いったい何方へ参られたかと憂いておりました」
「ちょっとしたトラブルに遭いましてな。お園と美唯と小次郎が沖合の岩場に取り残されております。救助のために小舟なぞ出しては頂けませぬか?」
「心得ました! 三太、ひとっ走り行って漁師から小舟を借りて参れ」
「へい!」
「急げ!」
若くて小柄な男がどたどたと駆けて行く。待つこと暫し、海自の短艇くらいの小舟がやってきた。
「まったぞ、小次郎!」
「こ、小次郎? 某は三太でございます。小次郎とは猫の名ではござりますまいか?」
「いやいや、マジレス禁止。それより早う舟を出して下さりませ。岩場はあっちの方ですぞ。慌て過ぎて岩にぶつけないよう気を付けて」
「心得ましてございます!」
返事だけは威勢が良いが当てにして大丈夫なんだろうか。とは言え、今はこれが精一杯。こいつに命を預ける他はない。
真っ暗な大海原をLEDライトの灯りだけを頼りに舟を進める。波風に煽られた小舟がゆらゆらと揺れた。
「おぉ~ぃ! お園ぉ~っ! 美唯~っ! 小次郎~っ!」
「……」
へんじがない、ただのしかばねのようだ。いやいや、まだそんなに時間は経っていない。大作は頭を激しく振って縁起でもない考えを頭から追い払った。追い払ったのだが……
「大佐様、小さな岩場とは彼方の事にございましょうや?」
「木が生えていて小さな祠が建っておりますな。アレで間違いはないみたいなんですが。だけど誰もいないみたいなんですけど?」
依然として浜辺との間には百メートル以上の大海原が広がっている。だが、どこをどう探しても二人と一匹の姿は見受けられない。
もしかしてトイレが我慢の限界に達したのだろうか。それとも自力で海を渡ったのだろうか。
考えたくはないが急な大波にでも攫われたのかも知れない。だとしたら生還は絶望的だな。大作は早くも諦めの境地に到達する。
だが、そんな大作の気を知ってか知らずか。若い水主の口から衝撃的な言葉が飛び出した。
「時に大佐様。お園、美唯、小次郎とは何方にございましょうや?」
「えっ、知らないで探してたんですか? いやいやいや、久見崎からずぅ~っと一緒に乗っていた二人の娘と雄の三毛猫ですけど?」
「いやいや、大佐様は初手からお一人にございましたぞ。娘も猫もおりませなんだ。何かの思い違いではござりますまいか?」
「いや、あの、その…… 拙僧ってずっと一人でしたっけ? もしかしてアレですかな、独りぼっちじゃ寂しいからってイマジナリーフレンドみたいなのを空想で作り上げていたって奴だったりして。そう言えば、二話でそんなことを考えていたような、いなかったような。ひょっとして河原でお園に会ってから後のことが全部、俺の妄想だったってか? そんな、そんな阿呆な……」
超展開ここに極まれりだな。いやいや、これで目を覚ましたら病院のベッドに寝ているっていうのも悪くない。んで、ベッドの脇にお園がいるわけだ。うん、それで行こう。そうと決まれば話は早い……
その時、歴史が動いた! バックパックに入れていたスマホから聞き慣れたメロディーが流れ出す。この曲はかの有名な『メロディーチャイムNO.1 ニ長調 作品17 大盛況』だ。震える手でスマホを取り出すと画面には『スカッド』の名前が表示されている。
「もしもし、私リカちゃん!」
「あはははは、相変わらずご機嫌だね。生須賀君。いや、ムスカ大佐とお呼びした方が良いのかな?」
「どっちでも結構ですよ。何と呼ばれようと僕は僕ですから。そんなことより、これはいったいどうなっているんですか? なんだか記憶に靄が掛かったようにボヤケてるんですよ。僕はいったい何時から独りだったんですか? どこまでが本当で何からが妄想なのか区別がつかないんですけど?」
「うぅ~ん、ちょっと記憶の封印が解けかかっているみたいだね。君がいま感じている感情は精神的疾患の一種なんだ。鎮める方法は僕が知っているよ。僕に任せてくれ」
途端に大作の意識はバッテリーが切れたスマホみたいにプッツリと途切れてしまった。




