巻ノ参百七拾弐 進め!周防灘を の巻
翌日、まだ空も暗いうちに目を覚ました一同は手っ取り早く朝餉を平らげる。大急ぎで片付けを済ませると大作たちを乗せた船は廿日市の港を出港した。
丁度良い塩梅の北風を帆に受けた貨物船『寧波』は海岸に沿って南西へと向かう。
港を出て数分と経たないうちに南から猛スピードで小早が近付いてきた。大作は単眼鏡を取り出すと観察を試みる。
「やっぱりなあ。来る時に付きまとってきた連中だよ。確か亀姫とか言ってたっけ?」
「周防大島の北にある浮島を根城にした宇賀島衆だって船長が申されてたわよねえ。性懲りもなく、また銭をせびりに来たのかしら。ついこの間、銭二貫六百文も取られたばっかりだっていうのに」
お園の瞳が憎悪に燃え、への字に結んだ口元からは見ているだけでも怒気が伝わってくる。とは言え、朝っぱらから血を見るような事態は勘弁して欲しい。ここは金の力で片を付けるのが良さげな雰囲気だ。
素早く考えを纏めた大作は秘密の隠し場所から銀塊を取り出して懐へと仕舞い込む。
待つこと暫し、ふと気が付けば亀姫と愉快な仲間たちの乗った小舟は目と鼻の先まで迫っていた。
「やっときましたね。おめでとう。このゲームをかちぬいたのはきみたちがはじめてです」
人を小馬鹿にしたような薄ら笑いを浮かべた大作は努めて平坦な口調で捲し立てる。
戸惑った様子で目を白黒させている亀姫の顔には『お前は何を言っているんだ?』と書いてあるかのようだ。だが、ほんの一瞬で見事に立ち直ると鷹揚に頷きながら相槌を返してきた。
「お、おう、そうであったか…… 久しいのう、和尚。確か大佐殿と申されたかな? 出雲詣では如何にござった?」
「真に無念なことなれど出雲詣では諸事情により中止となりました。安芸高田まで行ったところで戦をやっておりましてな。もうちょっといるつもりだったけどルパンが来たでしょ? メチャクチャになっちゃうからもう帰って来ちゃいました」
「ねえ、大佐。それってカリ城で不二子が言ってたセリフのつもりかしら?」
「はいはい、良く気が付いたな。偉い、偉い。まあ、そんなわけで亀姫様。我らは尻尾を巻いて逃げ帰る途中なんですよ。帰りは九州の沖合を反時計回りに進むつもりにございます。まずは瀬戸の海を西へと向かうつもりなれば案内のほど、宜しゅうお頼み申します」
大作は懐から銭二貫六百文に相当する銀塊を取り出すと恭し気に差し出す。小舟をギリギリまで寄せた亀姫は貨物船『寧波』にひょいと飛び移ると引っ手繰るように受け取った。
続々と乗り移って来た男たちは来た時と同じように船内や船外の積荷を調べて回る。だが、彼らの作業はどこか御座なりというか等閑というか。真剣さの欠片すら感じられない。
恐らくは往路で何の積荷も発見できなかったという経験が彼らの目を曇らせているのだろう。
お陰で大作たちの積み荷は何一つとして発見されることはなかった。
「では参ろうか。船を出せぇ~っ!」
「「「おぉ~っ!!!」」」
大きな帆一杯に風を孕んだ貨物船『寧波』は僅かに波立つ海原を滑るように進んで行く。どうやら潮の流れも理想的なタイミングらしい。
二艘の船は厳島と本土の間にある一キロほどの海峡を通過する。
「見ろ、お園! あそこにちょこっとだけ見えてるのが厳島神社じゃね? ほれ、単眼鏡を覗いてみ」
「美唯も! 美唯にも見せて頂戴な!」
「にゃあ! にゃあ!」
小次郎までもが歓声を上げるが猫に望遠鏡は無理なんじゃないのかな。大作は内心ではそう思いつつも決して口には出さない。
そんな阿呆な遣り取りをしている間にも船は狭い海峡を通過すると進路を南へと向けた。
「今度は岩国基地が見えてきたぞ!」
「何処? そんな物、何にも見えないわよ?」
「いやいや、マジレス禁止。この時代にそんな物があるわけないだろ? だよなあ? だけども未来ではあの辺りに岩国錦帯橋空港とか海上自衛隊岩国基地とか米海兵隊岩国航空基地とかが作られるんだぞ。US2とかF/A-18とかF-35Bとかエトセトラエトセトラ…… 夢が広がリングだろ? そうは思わんか?」
「そう、良かったわね……」
姫小島を掠めるように通り過ぎ、南へと向かう。眼前に屋代島が通り道を閉ざすかのように立ち塞がっている。
船は大きく進路を右へと変え、陸地に沿って進んで行く。暫くすると本土と屋代島の間に広がる海峡が見えてきた。
大島瀬戸とかいう最大流速十ノットの急流が船を襲う。と思いきや、幸いなことに船は潮の流れに乗っているようだ。
「未来ではここに…… って言っても半世紀も昔の話なんだけど1976年に大島大橋っていう橋がここに架かるんだ。当初は有料道路だったんだけど二十年経って償還期限が終了すると無料開放されたらしいな。今では…… って未来の話なんだけれど徒歩や自転車で渡ることもできるんだぞ。凄いとは思わんか!」
「むりょう? それってタダってことよねえ? だけどもタダより高い物はないんじゃなかったかしら?」
「そうは言うがな、お園。別にタダで渡れる橋なんて今どき珍しくも何ともないんだぞ。あのレインボーブリッジだって歩いて渡るだけならタダだしさ。俺、歩いて渡ったことあるんだぞ。んで、話は変わるけど大島大橋は最近では珍しくなったトラス橋なんだ。この無骨な感じが何とも堪らんよなあ。正に昭和の橋って感じだな。ちなみに高さは界面から三十二メートルくらいあるから貨物船やフェリーが下を潜っても余裕がある。と思いきや、2018年にはドイツ船籍の貨物船がぶつかって送水管と光ファイバーが損傷。全島が断水してインターネットにも繋がらなくなる大惨事があったそうな」
「それはまた、随分と難儀なことねえ……」
無事に大島瀬戸を通り過ぎた船は笠佐島の脇を通って南へ向かう。室津半島の先っぽをぐるっと回ると長島が見えてきた。
先行する宇賀島水軍の船が船足を落として近付いてくる。振り返った亀姫が両手を振り回しながら大声を上げた。
「さて、和尚。我らの案内はこれまでじゃ。あれに見える祝島を過ぎれば下関まで二十里ほどの間に島一つとしてござらん。今の時節は風も穏やかじゃから何の憂いもなかろう。じゃが海の上では何があるやも分からん。気の緩むこと無きよう用心して参られよ」
「亀姫殿もお気を付けて」
「貴方にも良い風が吹きますように」
「美唯も! 美唯も良い風が吹くわよ!」
「にゃあ! にゃあ!」
大作の適当な相槌に乗っかるようにお園や美唯、小次郎までもが後を追う。
亀姫と愉快な仲間たちは分かったような分からんような顔をしながらも、ぐるりと船先を返すと猛スピードで帰って行った。
それから暫くの間は退屈な時間が続く。船は順風満帆に周防灘を進み、行き交う船は疎らだ。大作は時折、すれ違う船に手を振ってみるが何の反応も帰ってはこない。
『つまんねぇ~奴だなぁ~っ!』
大作は心の中で絶叫するが決して顔には出さない。ただただ余裕のポーカーフェイスを浮かべるのみだ。
やがて太陽が西の空に傾いてくる。そろそろ今晩の停泊先を決めねばならん。
いやいやいや! いくらなんでもちょっと遅いんじゃね? そういう大事なことはもっと早く決めとかなきゃ。
「船長、今宵は何処に船を泊めるおつもりでしょうや?」
「あの辺りが宜しゅうござりましょう。丁度良い塩梅の砂浜が続いておりますぞ」
「そ、そんなに簡単に決めちゃって良い物なんでしょうか? って言うか、あそこって何処なんでしょうね」
「あ、ささ。名までは存じておりませぬが船を泊めるには何の障りもござりますまいて」
こんな行き当たりばったりに船を泊めて良いもんじゃなかろうか? とは言え、もはや代替地を探す時間的な余裕も失われつつある。ここは涙を呑んで妥協するしかなさそうだ。
大作が海よりも深く後悔している間にも貨物船『寧波』は砂浜に近付くと静かに乗り上げた。
すぐさま船を飛び降りた水主たちが慌ただしく船を固定する。
「地図を見た感じ、ここは宇部だな。たぶんだけど」
「たぶんなの?」
「二十一世紀にはあの辺りに山口宇部空港があるから地形がちょっと変わっちゃってるんだよ。だけどあそこに国東半島が見えてるだろ? 向こうに見えてるのはたぶん門司だし。だからここは宇部だと思うんだよなあ」
「ふぅ~ん。大佐がそう思うんならそうなんでしょう。大佐ん中ではね」
地名のことなんて本当はどうでも良かったんだろう。お園の追求はそこであっさりと終わってしまった。
気を利かせた船長が近くの漁村まで行って物々交換で食材を手にいれてきてくれた。お陰でこの日の夕餉もそこそこ豪華な物を食べることができた。
翌朝は風向きや潮の流れの影響もあって少しだけのんびりした出発となった。宇部らしき海岸をゆっくりと離れた貨物船『寧波』は再び周防灘を西へと向かう。
「今日はどこまで行けるんだろうな。オラ、ワクワクしてきたぞ!」
「私は夕餉の方が気になるわ。何が食べれる…… 食べられるのかしら」
「美唯も! 美唯も気になるわよ!」
「にゃあ! にゃあ!」
よっぽど風と潮流に恵まれたのだろうか。一時間も経たないうちに関門海峡が目前に迫ってくる。
予想通りというべきか、呼んでもいないのに地元の海賊衆らしき小舟が猛スピードで近付いてきた。
大作は小さくため息を付くと秘密の隠し場所から銀塊を幾つか取り出す。面倒な交渉事は船長に任せて高みの見物を決め込んだ。
「見てみろ、お園。右に見えるのが火の山だぞ。あそこからの夜景は日本夜景遺産に認定されていて、一千万ドルの夜景とも言われているんだとさ」
「一千万ドルって言うと…… 銭八千貫文くらいかしら?」
「そ、そんなにも! 美唯、びっくりしちゃったわ」
「ちなみに駐車場は無料だけど展望台が老朽化してるらしい。登るなら気を付けた方が良いぞ」
「ふぅ~ん、分かったわ。んで? あっち側に見えてる山は何なのかしら?」
振り返ったお園が海峡の反対側に聳える山を指差す。僅か六百メートルほど離れた対岸には火の山よりも少しばかり低い山が聳えていた。
「あっちは古城山だな。門司城って城があるみたいだぞ。下関要塞の一部だった古城山砲台や堡塁が残っているらしいな」
「門司なのに下関要塞なの? それって変じゃないの?」
「さあなあ…… それを俺に言われても知らんがな。ちなみにこっち側にも無料駐車場があるから安心して良いぞ」
「そう、良かったわね」
真面目に相手をするのが阿呆らしいとでも思われたのだろう。お園は素っ気ない返事をするとそれっきり黙り込んでしまった。
S字型に折れ曲がった狭い海峡を船は進む。急激に変化する潮流と風に翻弄されながらも船長は必死に鈴先案内人の指示に従う。
舵を取ったり帆を動かす水主たちで船の上はさながら戦場のような慌ただしさた。船上だけに。
大作たちには邪魔だけはしないように隅っこに小さく座って大人しくしていることしかできなかった。




