巻ノ参百六拾四 進め!音戸の瀬戸を の巻
宇賀島水軍の小早に先導された貨物船『寧波』は伊予灘を北へ北へと進んで行く。
進むこと暫し。二神島の西を掠めるように通り過ぎると左前方に諸島が見えてきた。そのまま諸島の東を通過すると情島と津和地島の中間を北上する。
時間帯がアレなのだろうか。潮流がかなり強いらしい。だが、勝手知ったる他人の庭(確信犯的誤用)という奴だろうか。亀姫とやらの水先案内のお陰もあって船は危なげなく広島湾へと進んで行く。
幾つか並んだ小さな島の向こうに大きな島が姿を表した。旧日本海軍連合艦隊の停泊地でもあった柱島だ。
「戦艦陸奥が爆沈したのは島の南東のあの辺りらしいな。ほんの一瞬の大爆発で千二百名以上が亡くなる大惨事だったらしいぞ。今でも艦橋や艦首を除いた艦の前部、船体の四分の一が海底に沈んでいるんだとさ」
「今でも?! 今でも彼処に戦艦陸奥は沈んでいるっていうの?」
「いやいや、今は沈んでいないぞ。二十一世紀にはって話だよ」
「ふぅ~ん。ってことは四分の三は引き上げられたってことかしら?」
お園はちょっと不服そうな顔で小首を傾げる。だが、大作は余裕の笑みを浮かべると滔々と淀みなく話し始めた。
「そういうことだな。ちなみに引き上げた鉄は屑鉄としてリサイクルされたらしいぞ。っていうのも戦後になると溶鉱炉がどれくらい磨耗しているのか調査するために耐火煉瓦にコバルト60を混ぜるようになったんだとさ。だけど戦前に作られた陸奥の鉄材にはコバルト60なんて混じっていないだろ? だから放射線測定が必要とされる現場ではこれが貴重なんだとさ。環境放射線を遮蔽するためにな。各種研究機関や原発、医療の関係者から陸奥鉄とか呼ばれてるそうな」
「ふぅ~ん。死ぬほどどうでも良い話を聞かせてくれてありがとう、大佐」
そんな阿呆な話をしている間にも船は柱島の東を通り過ぎる。次に目の前に現れたのはそれまでよりもずっと巨大なだ。
「地図を見た感じだとアレが倉橋島とかいう島らしいな。多分だけど。『音戸の瀬戸』って聞いたことあるか? 物凄く狭い海峡で本州と切り離された島なんだとさ」
「音戸の瀬戸? それって確か平清盛がたったの一日で切り開かれたとかいう所よね? あのお話って真のことなのかしら」
「俺に聞かれても知らんがなぁ~っ! でも、ネットに書いてある話が本当だとするとそもそもこの海峡は本土と繋がったことはないらしいな。海底地形の調査で分かってるらしいぞ。仮にもし繋がってたとしても花崗斑岩みたいに物凄く硬い岩だから人の力で開削するなんてとてもじゃないけど無理な相談だし。とは言え、地元の人たちは本気で信じてるみたいだぞ。だからそもそも話題にしないほうが吉かも知れんな」
「そ、そうなんだ。まあ、純真な子供の夢を壊すような真似はしないに越したこと無いわよねえ」
そうこうする間にも船は順風満帆で航海を続ける。暫く北上すると今度は倉橋島の島影から江田島の南西の先っぽが姿を現した。
船は大黒神島との間に広がる幅一キロほどの海峡をすり抜けて進んで行く。
「江田島は海軍兵学校の代名詞ともいえる島だぞ。そして大日本帝国海軍が解体された後にも海上自衛隊第一術科学校や海上自衛隊幹部候補生学校が置かれているんだ。詳しいことは知らんけど」
「えぇ~っ! 知らないの? 私だって知らんわよ。そも、大佐が知らないことを私が知るわけないでしょうに」
「美唯も! 美唯も知らないわよ! 良くもまあ、そんなんで大佐が務まるものねえ」
お園と美唯がタッグを組んでここぞとばかりに攻め立ててくる。コーナーに追い込まれた大作は防戦一方だ。
だが、このままでわ終われんぞ。起死回生の一発逆転を狙ってお得意の話題反らしで強行突破を図る。
「いやいや、本当に申し訳ないんだけど俺は旧海軍や海自は専門外なんだよ。それにほら、もうすぐ厳島だぞ。お前らは厳島神社には参ったことあるのかな?」
「あのねえ、大佐。あるわけがないでしょうに……」
ちょっと、というか大いに呆れた顔のお園が深いため息をついた。隣で小次郎を抱えた美唯も禿同といった顔で激しく頷いている。
「そ、そうなんだ。俺は小さいころに家族旅行で行ったことあるな。海の上にある巨大鳥居ってどうして倒れないと思う? 前にテレビで作ってるところをやってたぞ。あと、どうやって渡るんだかさぱ~り分からん謎の太鼓橋があったな。そうそう、鹿もウヨウヨいたっけ。とにもかくにも見どころ一杯だったな。そうだ! 時間があったら帰りに寄ってみようか?」
「そうねえ、時にゆとりがあればねえ」
「美唯も! 美唯も寄ってみたいわ!」
「にゃあ! にゃあ!」
こうして一同は例に寄って例の如く、無為な一日を過ごす。過ごしていたのだが…… その間にも船は目的地を目指してひた走る。
日が西の空に大きく傾いたころ、船は滑るように廿日市の港へと辿り着い……
「は、は、廿日市ですと?!」
「そうよ、大佐。亀姫様とやらはそう申されていたわよ。もしかしてちゃんと聞いていなかったのかしら?」
「いや、あの、その…… はい、聞いていませんでした!」
まさかゴール直前でこんな大失態を演じてしまうとは。穴があったら埋めたいぞ。『百里の道を行く者は九十九里を半ばとせよ』なんて言うけれど油断大敵とは正にこのことか。大作はツルツルのスキンヘッドを両手で抱えると小さく唸る。
「ねえねえ、大佐。廿日市にはいったい何があるのかしら?」
「さ、さあ。何じゃろな。とにもかくにも物凄い遠回りになっちまったってことだけは確かだぞ」
「そ、そうなの? それで? 私たちはこれからいったい何をどうすれば良いのかしら」
「どうするもこうするも…… ここから東に向かうしかないんじゃろうな。あんまし気が進まんけど」
吐き捨てるように呟くと大作は船首に移動して大声を張り上げる。
「亀姫様~! 亀姫様~! ありがとうございました。案内はここまでで結構です。我らは黄金山の方に用事ができましたのでここで失礼いたします」
「おお、そうか。廿日市には寄らずとも良いのか? 出雲へ参るならば此処の方が都合が良かろうに」
「いやいや、折角のお申し出ですが我らは如何にしても黄金山へ参らねばなりませぬ故に」
「左様か。ならば此処で分かれじゃな。然れど小早川水軍には用心を致すが良いぞ。奴らは我らほど優しゅうはないからのう」
「え、えぇ~っ!」
大作は急遽予定を変更して廿日市への入港を決断した。
「では、和尚。我らの案内は此処までじゃ。旅の無事を祈っておるぞ。そうそう、帰りにも此処を通るつもりならば帆別銭を忘れるでないぞ」
「お、往復割引とか無いんですかな? 無い? そうですか。では、これにて御免!」
亀姫の指揮の下、宇賀島海賊の連中は大急ぎで帰路についた。何せもう日が大きく傾いているのだ。
我々も可及的速やかに今晩のことを考えねばならん。大作は船の周りで忙しなく働く男たちの中から船長を探して声を掛けた。
「船長! 船長! 船の中でもお話しましたが我ら五十人はこれより二週間程度の予定で作戦行動に入ります。留守番を一人残しますので仲良くしてやって下さいな。それと伝令を使って毎日やり取りを致しますので我らのことはご心配なく。その間、皆様方は船のメンテナンスですとか反省会とかイメージトレーニングとかエトセトラエトセトラ…… 自分たちでやれることを見つけて何でもチャレンジして下さいな。入来院水軍に指示待ち人間は不要です。必要とされるのは自分で考えて行動できる人間ですから」
「さ、左様にござりまするか。では、万事その様に取り計らいましょう」
「そうは言ってもこんな時間に出発はできませんな。今夜はここで一泊して明朝出発といたします。んじゃあ、お園。夕餉の支度でもしようか」
今日は二十日ではなかったが廿日市にはどういうわけだか大きな市が立っていた。堺の賑やかな街並みほどではないが虎居みたいな田舎とは大違いの盛況さで満ち溢れている。
物見遊山を兼ねて一同は街に繰り出すと明日からの旅に備えて必要と思われる物資の補給に奔走した。
夕餉を終えると大作たちは明日からの移動に備えて早目に床に就く。一方、久々に陸に上がった船乗りたちは夜遅くまで羽目を外して大騒ぎしていた。
翌朝、爽やかに目を覚ました大作は朝餉を済ませると忍びたちを呼び集める。
「これより我々は安芸高田を目指して移動を開始いたします。まずは石川殿」
「へい。儂は何をすれば宜しかろう?」
「貴殿にはお留守番組をお願いいたします。船乗りたちが裏切らぬよう見張っていて下さりませ」
「裏切る? 船長も千手丸殿も信ずるに足る御仁とお見受け致しましたが? 何ぞ怪し気な振る舞いでもございましたかな?」
眉を顰めた五右衛門は声を潜めて囁くように呟いた。
大作もそれに合わせるかのように声音を低くすると小さな声で応える。
「今のところ特に怪しいところはございませぬ。とは申せ、用心するに越したことはないでしょう。万一に備えての予防措置と思し召されませ」
「畏まりましてございます」
これにて一件落着。大作は船の面倒を石川五右衛門に丸投げした。
「続いて音羽殿。貴殿には拙僧と行動を共にして頂きたい」
「こうどうをともに?」
「同行をお願い致すとの意にございます」
阿吽の呼吸でお園が合いの手を入れる。大作は無言で軽く頷いて謝意を示した。
「うむ、心得た」
「それから…… ハンター協会の四十人には八人ずつ五チームに分かれて頂きます。それぞれに忍びが一人ずつ付いて指揮を執って下さい。人選はお任せいたします」
「ち~むとは組の意にございます。何方が何れの組を率いるから皆様方でご随意にお決め下さりませ」
「分かり申しました」
皆が揃って深く頷く。だけどもこいつら本当に意味が分かってるんだろうか。大作は不安で不安でしょうがない。
「これで残りは三人ですな。その方々には交代で伝令をお願いいたします。廿日市と安芸高田は直線距離で十二里くらいですから忍びの皆さんなら半日もあらば移動できますよね?」
「……」
「では、急いでチーム分けを行って下さい。五分間隔で一チームずつスタートしましょう」
「御意!」
弾けるように忍びたちが移動し、テキパキと即席の班編成が成されて行く。待つこと暫し、やがて第一班が動き出した。
大作は黙ったまま背筋をピンっと伸ばして敬礼する。お園や美唯も見様見真似でそれに倣った。
第五班を見送って数分が経過する。いよいよ大作たちにも出発の時が巡ってきた。
「それでは千手丸殿。行って参ります。船のこと、返す返すも宜しゅうお頼み申します……」
大作はチビっ子小姓の手を力なく握り締めると弱々しい声で囁くように呟く。最早、恒例行事と言っても差し支えないほどのお約束のやり取りだ。
千手丸もその辺りのことは良く分かっているらしい。確りと手を握り返すとこれ以上は無いほどのドヤ顔を浮かべて胸を張った。
「お任せ下さりませ。大殿よりお預かりした大事なるこの船は千手丸が命に代えてもお守り致しまする」
「マ、マジレスされても返事に困るんですけど…… まあ、何かあったら伝令に伝えて下さいな。それでは枕を高くして吉報をお待ち下さりませ」
「行って参ります」
「お達者で」
「にゃあ!」
お園や美唯、小次郎が口々に分かれを告げる。大作は千手丸の姿が見えなくなるまで時々振り返っては手を振った。
十分も歩かないうちに千手丸の姿は視界から消えてしまった。まもなく山並みが眼前に迫ってくる。一行は山裾に沿って北へ北へと歩を進める。
右手に広がるのは巨大な川の中州と周辺の広大な湿地帯だ。その風景はどことなく開発され尽くす前の江戸を彷彿させる。
こんなにも豊かな大自然の宝庫が数十年後には埋め立てによって破壊されてしまうとは情けない。何とかして環境を保護することはできんもんじゃろか。
いやいや、毛利に大ダメージさえ通れば奴らの中国統一は大幅に遅れるはずだ。そうなれば広島に新たな城を作る余裕なんてなくなるだろう。そもそも輝元が広島城の築城を始めたのが天正十七年(1589)だっけかな? もしかして何もしないでも余裕ありありなんじゃね? って言うか、井上氏なんて死のうが生きようがどうでも良いような気がしてきたんですけど?
「いったいどうしたの、大佐? さっきから何をぶつぶつ言ってるのかしら」
「いや、あの、その…… もしかして俺たちのやってることって全く持って無駄なことなんじゃなかろうかって思ったんだよ」
「あらまあ、漸く気が付いたの? 私、大佐に始めて会った日には気が付いていたわよ」
「美唯も! 美唯も気が付いてたわよ!」
「にゃあ! にゃあ!」
「そ、そうだな。本当を言うと俺もそんな気がしてたんだよ」
大作は力なく微笑むことしかできない。
とにもかくにも、一同は安芸高田を目指してひたすら歩き続けた。




