巻ノ参百参拾七 自分、不器用ですから…… の巻
ひょんなことから思いも掛けずに始まってしまった北条VS豊臣のトップ会談はのっけから迷走状態に陥る。陥っていたのだが……
そもそも大作には和平を結ぶつもりなど毛頭無かった。スキンヘッドなだけに。
「先ほど太閤殿下は申されましたな。伊豆、相模、武蔵を安堵しても良いと。それって裏を返せば上野、下野、上総、下総を割譲しろって話ですよね? 残念ながら我々としてはその条件での妥協は難しゅうございますな」
「な、何じゃと?! 伊豆、相模、武蔵の安堵では足らぬと申すか? いったい何が望みなのじゃ? そも、儂は太閤では無いぞ。未だに関白を辞してはおらぬからな」
「いや、あの、その…… 気になるのはそこですか? ぶっちゃけた話、拙僧は上野、下野、上総、下総がどうなろうと知ったこっちゃないんですよ。所詮は他人事ですしね。とは言え、負けたわけでもない我々が一方的に領土を失うだなんて阿呆な話を飲める筈もありません。例えば…… 例えばですけど代わりに三河、遠江、駿河、甲斐、信濃を貰えるって言うんなら考えんこともないですけどね」
大作は人を小馬鹿にしたような薄ら笑いを浮かべながら鼻を鳴らす。無論、本気でこんな話をしているわけではない。ただ単に和平交渉をぶち壊したいだけなのだ。深い考えなどこれっぽっちもあろうはずが無い。
しかし、そんな本音を知る由もない秀吉は大作の真意を図りかねて急に真剣な表情になってしまった。
こういうシリアスな雰囲気は嫌だなあ。そんなことよりも饗しとやらの方はどうなってるんだろう? さっさと食う物を食って帰りたいんですけど。
大作は助けを求めるように黒田官兵衛と千利休にアイコンタクトを送ってみる。けれども返ってきたのは曖昧な微笑みだけだった。
狭くて薄暗い平三畳の茶室の中を重苦しい沈黙だけが満たして行く。
Help! Help me! 大作は心の中で絶叫するが決して顔には出さない。
だが、捨てる神あれば拾う神あり。茶室の奥の茶道口が静かに開くと一人の中年男が顔を覗かせた。
「父上、お待たせ致しました。料理をお持ち致してございます」
「おお、少庵か。関白殿下、料理の支度が整うております。ここは一つ、飯でも食って気を平らかになされては如何にございましょうか?」
「うぅ~む、そうじゃな。古より腹が減っては戦は出来ぬと申すか。良い、此方へ持って参れ」
秀吉の返事を待っていたかのように中年男は畳に膝を付いたままの姿勢で茶室の奥へと這い進んできた。手にしているのは漆塗りの椀が載った膳だ。
「左京太夫様、督姫様。随分とお待たせ致しました。お召し上がり下さりませ」
「おお、待ちかねておりました。お腹が減り過ぎて目が回るかと思いましたぞ」
「大佐、食前の祈りをお願いしても良いかしら。ちゃちゃっとやって頂戴な」
「はいはい、分かりやしたよ。では僭越ながら…… 全知全能なる我らが神よ。今日の糧に感謝してこの食事をいただきます。ここに用意されたものを祝福し私たちの心と身体を支える糧として下さい。私たちの主、イエス・キリストによってアーメン。いっただきまぁ~す!」
「いただきまぁ~す」
一の膳に並んでいる椀の蓋をそっと開く。真っ白い湯気がぱっと立ち上がると同時にとっても美味しそうな香りが部屋全体に広がった。
ずらりと並んだメニューの数々は白米の御飯に汁物、湯引きされた蛸、鯛の焼き物、膾、鮒寿司、香の物、エトセトラエトセトラ……
戦国時代のお米といえば大唐米とかいうインディカ系の赤米が一般的だ。パサパサしているうえに味が薄い。粘り気が全く無いので米を食っているという実感がまるでしない。
だが、天下人が食っているような米は品質がまるで違うらしい。きちんと精米しているのも大きな要因なんだろうか。とっても食感が良いし、噛んでいるうちにほのかな甘みが……
「って、あかんやろぉ~! この米って堺の豪商、山上宗二が売りつけた毒入り米なんじゃなかろうな?」
「ちょっと待ちなさいな、大佐! 毒入り米ですって? 確かその話は沙汰止みになった筈よ。まさか私に黙って勝手に事を進めたんじゃないでしょうね? 私、言ったわよねえ? 食べ物を粗末にすると地獄に落ちるって……」
「どうどう、餅付け。俺はこれっぽっちも悪くないんだぞ。だって相州乱破が勝手に独走したことなんだもん。関東軍の暴走とかと同じ構図だろ? そんなわけで文句があるんなら風魔小太郎に言ってくれるかな?」
「そ、そうなのかしら? だけども使用者責任っていうのがある筈よ。民法第七百十五条に書いてあるじゃない。『ある事業のために他人を使用する者は被用者がその事業の執行について第三者に加えた損害を賠償する責任を負う』ってね。とは言え『ただし、使用者が被用者の選任及びその事業の監督について相当の注意をしたとき、又は相当の注意をしても損害が生ずべきであったときは、この限りでない」とも書いてあるんだけども」
流石は完全記憶能力者のお園だ。ドヤ顔を浮かべると長ゼリフと一息にまくし立てた。
だが、大作はその言葉を右から左へと聞き流す。だって知ったこっちゃないんだもん。お園の手からご飯の入った椀を受け取ると膳へと戻した。
「利休殿、ご馳走様でした。数々の料理、美味しゅうございました。拙僧はもう走れません」
「も、もう食べ終わったと申されまするか? まだ、二の膳、三の膳、与の膳、五の膳、菓子の膳が残っておりますが……」
「菓子の膳ですって! それってどんなお菓子が出てくるのかしら? 妾は其れを頂きとうございます。ねえ、大佐。大佐もそうでしょう? ね? ね? ね?」
「そ、そうだな。利休殿、折角ご用意頂いた料理ですがキャンセルをお願いしても宜しゅうございまするか。言い忘れておったのですが拙僧らはダイエット中でしてな。医者から糖質や脂質を厳しく制限されておるのですよ。そんなわけですので菓子の膳とやらを出して下さりませ。ささ、早うして下され。Hurry up! Be quick! 太閤殿下も依存はございませんな?」
「う、うむ。左京大夫殿が是非にと申すなら止むを得んか」
「しょ、しょうがありませんなぁ。お待ちくださりませ。少庵、菓子の膳を持って参れ」
千利休は小さくため息を付くと振り返って息子に命じた。
言われたことには黙って従う。それが彼の処世術なんだろう。大作は心の中で嘲り笑うが決して顔には出さない。
待つこと暫し。一の膳が下げられると同時に菓子の膳が一同の眼前へと並べられる。
「お待たせ致しましたな。求肥餅にございます。酢と塩で味付けしてございますれば、抹茶と合わせて食して下さりませ」
「ぎゅうひ? まさかとは思いますがそれって牛の皮のことでございますか?」
「いやいや、牛の革など食せる筈もござりますまい。求肥をご存知ありませぬか? 米粉を水に浸して沈んだ物を……」
「こ、米粉? いま、米粉と申されましたかな? それってもしかするともしかして米の粉だったりしませんか? まさかその米は堺の豪商、山上宗二から買った物ではござりますまいな?」
軽いパニックになりかけた大作は荒い息をつきながら興奮気味に捲し立てる。
その仕草がよっぽど面白かったのだろうか。千利休は笑いを噛み殺すようにくぐもった声で答えた。
「如何にも、左様にございます。然れども山上殿の米に何ぞ障りでもござりましょうや? 豊臣方の陣においては将も兵も揃って山上殿の米を食らっておりますが?」
「そ、そ、そうなんですか…… それはとっても残念なことですなあ。食べたいのは山々なんですけど拙僧どもは宗教上の制約がありましてな。それにアレルギーとかの問題もあって食することが叶わぬようにございます。折角ご用意頂いたというのに申し訳次第もござりませぬ」
「左様にございまするか。真に『あれるぎい』とやらは厄介なものにございますなあ」
「そのうち機会があればアレルギーフリーな求肥を豊臣と北条の手で共同開発とか致しましょう。もちろん儲けは折半ですよ。では、太閤殿下。今宵はここまでにしとう存じます。領土交換の件は次回までの宿題ということにしときましょう。ちゃんと考えておいて下さいね。んじゃ、これにて失敬!」
言うが早いか大作は脱兎の如く茶室を後にしようとする。しようとしたのだが……
素早く手を伸ばしてきたお園に首根っこを掴まれてしまった!
小柄な体からは信じられないような怪力だ。僧衣の襟を掴んだ腕はまるで万力みたいに強い力でガッチリとホールドされている。
「ちょっと待ちなさいな、大佐。折角、利休様がご用意して下さった料理やお菓子の品々に手も付けないでお暇するだなんて大層と無礼なことじゃないかしら? 勿体ない精神は何処へいっちゃったのよ。フードロス削減の観点から見てもとてもじゃないけど看過できないわ。きちんと得心の行く様に説いて頂戴な!」
「どうどう、餅付け。お園の気持ちはもっともだな。って言うか、俺だって全く同じ思いだぞ。とは言え、これにはマリアナ海溝のチャレンジャー海淵よりも深い理由があるんだ。後で絶対にちゃんとした説明をするから今だけは黙って従ってくれ。とにもかくにも、まずは小田原城へ帰ろうよ。な? な? な?」
「しょうがないわねぇ~っ! これは一つ貸しよ」
「何じゃと! 左京大夫殿はもう帰ると申すのか? 忙しない奴じゃのう」
余りにも急激な話の展開に全く付いてこれていない秀吉が目を白黒させている。だが、急に我に返ると唖然とした顔で小首を傾げた。
大作は本気でイラっとしたが鋼の精神力を持って何とかそれを抑え込む。こういう時は怒った方が負け。マトモに相手をした奴が馬鹿を見る。適当にスルーするのが一番と相場が決まっているのだ。
いまやお得意となった卑屈な笑みを浮かべながら上目遣いに顔色を伺う。
「拙僧は太閤殿下ほど器用ではございませんのでな。健さんの『不器用ですから……』みたいなものだと思って下さりませ。それに北条には余人を持って代えがたい優れた人材が雨後の筍みたいに揃ってまして。だもんでトップは高度な意思決定のみに集中できる体制が整っておるのですよ。貴方とは違うのです!」
「何でも人任せにするじゃと? 斯様な仕儀で政が務まるものか! 左様な事をしておるから北条は今や風前の灯火の如き……」
「はいはい、御高説は存分に賜りましたよ。そんなに語りたいなら自伝でも出版したらどうですか? 年寄りの戯言に付き合ってるほど私も暇じゃないんで。これで本当にお暇させて頂きますね。んじゃ、See you later!」
大作は今度という今度こそ疾風のように茶室を後にする。お園も取り敢えずは大人しく従ってくれているらしい。
躙り口の外に綺麗に並べてある草履の中から自分の物を見付けると素早く履いて小走りに駆け出す。ただし全力疾走はしない。余りにも急いでいると周りから目立ってしょうがない。分速で言うと百メートルくらいの早歩きを目処にして早歩きをする。
「どうやら生き残ったのは私たち二人だけみたいね」
「あのなあ…… そのセリフは俺の専売特許だと思うんですけど?」
「あら、いつ何処で誰がそんなことを決めたのかしら? 何年何月何日? 地球が何回回った時?」
「そりゃあ俺がいま決めたに決まってるだろ。だって俺は自由奔放な蜘蛛…… じゃなかった、雲の大作だからな。俺は俺の好きなように生きる! ざまあ見たか、秀吉! 俺は最後の最後まで雲の大作!」
「大佐ったら今日も相変わらずご機嫌ね。だけども、黒田様に押し麦をお渡ししなくても良かったのかしら?」
お園の口調が余りにも平然としていたので大作は一瞬、虚を衝かれる。だが、数秒ほど経って徐々に理解が追いついてくると背筋に冷や汗が浮かんできた。
「がぁ~んだな、出鼻を挫かれたぞ。って言うか、もう帰り道だから出鼻でも何でも無いんだけどさ。これ、いったいどうすれバインダ~!」
「言っておくけど『捨てっちまおう。こいつぁ偽モンだぜ!』とかは無しよ。食べ物を粗末にすると地獄に落ちるんですからね!」
「じゃ、じゃあ持って帰るしかないのかなあ。俺たち今日一日、散々に駆けずり回っていったい何をやってたんだろな?」
「そりゃあアレでしょう、アレ。重き荷を背負い、遠き道を行って帰ってきたんじゃないかしら。知らんけど! まあ、足腰の鍛錬にはなったと思うわよ。人生に無駄なことなんて何一つとして無いんですもの。日日是好日ね」
「それはちょっと違うんじゃないのかなあ? あはははは……」
「そうかも知れんわね。そうじゃないかも知らんけど。うふふふふ……」
こうして大作とお園の凸凹夫婦は今日も無為な一日を過ごす。過ごしていたのだが……
そんな姿を遠くから見詰める人影があることに二人は全く気付くことはなかった。




