巻ノ参百参拾弐 見せろ!身分証を の巻
箱根の山中を当てもなく彷徨っていた大作と愉快な仲間たちの前に突如として現れたのは久所だか公所だかいう鄙びた寒村だった。
そこで暫しの間、無為な時間を過ごした一同は滞在予定を切り上げて村をお暇する。
再び歩き始めた大作たちは無駄話に現を抜かしながら険しい山道を進んで行った。
「ねえねえ、大佐。さっきの村にいた中村様ってお方はいったい何だったのかしらねえ?」
「お絹が言ってただろ。頼朝の旗揚げに合力した由緒ある家だとか何とか。しかしアレだな。こんな山の中にポツンと現れたからちょっとばかしびっくりしたよな。地獄の黙示録ディレクターズカット版に出てきたフランス人入植者みたいだったぞ。この先、あんなんで大丈夫なんじゃろか」
「あれはあれで大事無いんじゃないかしら。知らんけど。だけども、大佐。お米作りがどうでも良いっていうのはいったいどういう了見なの? もしもお米が無かったら私たちはいったい何を食べれば良いって…… 分かった、パンね! そうよ、お米が無ければパンを食べれば良いんだわ!」
はたと気が付いたという風にお園がポンと手を打つ。喜色満面の表情を浮かべてグイグイと詰め寄ってきた。突然のことに慌てた大作は両手を翳して少しだけ距離を取る。
「どうどう。餅付け、お園。さっきも言ったけど日本の食生活は終戦を境に急速に欧米化して行くんだ。それに農業生産性の画期的な向上もあるしな。話は変わるけどイギリスの経済学者アンガス・マディソン博士は西暦1500年の世界GDPを2480億ドルと推定してるらしい。二千何年だったかの世界GDP約88兆ドルと比べると三百五十四倍にもなるんだ。これって要するに……」
「ちょっと待ちなさいな、大佐。その五百年の間に人の数だって随分と増えてるのと違う?」
「鋭いな、お園。1550年の人口は五億人くらいかな? 二十一世紀を七十五億人とすると十五倍にも増えたわけだ。とは言え、それでも一人当たりGDPは二十倍以上も増えてるんだぞ。産業革命とハーバーボッシュ法のコンボが見事に嵌った形だな」
「ふ、ふぅ~ん。まあ、私はパンよりお米の方が美味しいと思うんだけどね。だったら……」
そんな阿呆な話をしながらも大作たちは足の向くまま気の向くままに歩み続ける。
小一時間もしないうちに再び視界が開け、見渡す限りの原っぱが現れた。
「此処は穴部、彼方に見えまするは狩川にございます」
誰も聞いていないというのにドヤ顔を浮かべたお絹が解説役を買って出てくれる。
「知っているのか、お絹?!」
「知っているわよ、大佐。だからそう言ってるじゃないの」
「マジレス禁止。確か狩川っていうのは酒匂川の上流なんだっけ? だったら下ってくる舟でも見つけて乗っけてもらおうよ。ちょっとは楽ができるかも知れんぞ。できんかも知らんけど」
「だけども私たちひい、ふう、みい…… 六人もいるのよ。よっぽど大きな舟じゃないと乗れないんじゃないかしら」
「まあ、その時はその時だな。おっ! 言ってる側から大きい舟が来たぞ! おぉ~い、乗せて下さぁ~い!」
上流からどんぶらこっこどんぶらこっこと大きな桃…… じゃなかった、舟が下ってくる。
しかもラッキーなことに六人くらいなら乗れそうな空きスペースがあるような、無いような。
「これはこれは船頭殿。ご機嫌麗しゅうございます。何ともまあ立派な舟にお乗りですなあ。維持費とか大変なんじゃありませんか? そうでもない? そりゃあ良うございましたなあ。それはそうと大変申し訳ございませんがちょこっと乗せて頂いても宜しゅうございますかな? 故あって是が非でも日没までに小田原に戻らねばならぬのです」
「にちぼつ? 日が沈むまでの意にございますか? 此処からならば緩りと歩いたところでたは易く御座しまし着きましょうに」
「いや、あの、その…… 歩くと結構しんどそうじゃないですか? 我々はちょっとでも楽をしたいんですよねえ。お願いしますよ、神様、仏様、船頭様」
大作は恥も外聞もなく這いつくばって土下座をする。お園以下の十把一絡げたちも見様見真似で真似をした。
ほんの一瞬だけ船頭の顔に困惑の色が浮かぶ。だが、すぐに人を小馬鹿にしたような薄ら笑いを浮かべると舟を川岸ギリギリに寄せてくれた。
「些か所狭うございますが、お乗りになりたいと申されるのならばご随意になされませ」
初老の船頭は竿を力一杯に踏ん張って舟を安定させると身振りで一同を招き寄せた。
卑屈な笑みを浮かべた大作はぺこぺこと頭を下げながら揉み手をする。
「おお、有難き幸せにございます。船頭殿に良い風が吹きますように。ささ、みんな。乗るなら早くしろ。乗らんのなら帰れ!」
「乗るわよ! 乗りゃ良いんでしょう、乗りゃあ」
「いま乗ろうと思ったのに言うんだもんなぁ~っ!」
「大佐がどうしてもって言うんなら乗ってあげなくもないわよ」
訳の分からんことをほざきながらも女性陣が次々と舟に乗り込む。
船頭と六人を乗せた舟は再び滑るように川を下って行った。どこまでも、どこまでも……
知識チートで戦国無双、ついでにハーレム作りたい(完)
おれたちの冒険はこれからだ! 先生の次回作にご期待ください。
「いやいやいや! まだだ! まだ終わらんよ!」
「どうしたのよ、大佐? 藪から棒に大きな声を出したりして。もしかして寝ぼけてたのかしら」
「そ、そうなのかなあ。そういえば知らないうちに周りの景色が随分と変わってるぞ。ここはいったい何処じゃらほい?」
「舟は酒匂川に入った所にございます。あと半里も川を下れば海へと辿り着きましょう。井細田口へ参るならば此の辺りで舟を降りるが宜しいかと」
例に寄って例の如く、聞いてもいないのにお絹が解説役をしゃしゃり出た。
『お前はカーナビアプリかよ!』
大作は心の中で絶叫するが決して顔には出さない。
「ありがとう、お絹。お前は賢いなあ」
出しゃばり超絶美形くノ一(自称)が嬉しそうに微笑む。
船頭に頼んで舟を川岸に付けてもらう。丘に上がった一同は深々と頭を下げて船頭を見送った。
「此処からならば申未の方へ五町も参れば井細田口にございます。ほれ、あれに見えておりますれば」
「ああ、アレがそうか。前にグライダーの飛行試験をやったのもあの辺りだったっけかなあ?」
総構の北東にある井細田口は甲州街道へと続く重要な防御拠点だ。二十一世紀には何の史跡も残されていないらしい。国道255線がカクっと折れ曲がった所が喰違虎口の痕跡なんだそうな。
現代では暗渠にされてしまった渋取川が外郭の外堀として立派に存在感を放っている。
一行は草ぼうぼうの湿地を歩いて城門へと近付いて行く。大きな木戸が開け放たれているのが目に入った。随分と不用心だなあ。傍では門番らしき足軽が二人、暇そうに屯している。
「何だか知らんけど物凄っごく弛んでるみたいだな。戦時下だっていうのにこんな警備体制で大丈夫なんじゃろか?」
「そう言えば城中の彼方此方で豊臣との和議や開城の噂が流れていたわよ。そのお陰で随分と備えが緩んでいるみたいねえ。小幡信貞ってお方が城内の綱紀粛正の命を下されたとか何とか」
「豊臣との和議だと? そんな阿呆な噂を広めたのは何処のどいつだよ。もしかして豊臣の間者が広めた謀略かも知れんぞ。奴らはそういう卑怯な手ばっか使いやがるからな」
一同の姿を認めた二人の門番は深々とお辞儀をした。ぺこぺこと頭を下げながら大作も素通りしようと……
ちょっと待てよ。こんな時にとっておきのネタがあったっけ。
大作は不意に門番たちの方を振り返ると顎をしゃくった。
「各方、拙僧が誰だか分かっておられますかな?」
「ご、御本城様にあらせられます。な、何ぞご無礼を仕りましたでしょうか?」
「何故に身分証の提示を求めなかったんですかな? もしも拙僧が氏直に変装した間者だったらどうされるおつもりで?」
映画『頭上の敵機』の冒頭で新任の基地司令として空軍基地を訪れた准将がそんなことをやっていたっけ。大作はグレゴリー・ペックに成り切って門番を問い詰める。
だが、二人の足軽はさぱ~り分からんといった風にお互いの顔を見合わせるのみだ。
こいつはフォローが必要なのか? 必要なんだろうなあ。
「身分証っていうのは身の証を立てる物にございます。たとえば…… これなんて如何ですかな? この学生証なら写真も付いてるから本人確認できますでしょう? Suicaまで付いてるから食事もタクシーもこれ一枚で足りちゃうんですよ。凄いでしょ? ね? ね? ね?」
「そ、それは良うございまいしたな。いとも珍しき物をお見せ頂き、恐悦至極に存じまする」
「有難き幸せにございまする。有り難や、有り難や」
二人の門番は口調こそ丁寧だが、その顔には『とっとと何処かへ行ってくれ』と書いてあるかのようだ。
『お呼びでない? お呼びでないね。こりゃまった失礼いたしやしたっ!』
大作は心の中で絶叫すると脱兎の如くその場を後にした。
走ること暫し。門番たちの姿が見えなくなった辺りで大作を歩を緩める。
「どうやら生き残ったのは俺たちだけらしいな……」
「はいはい、そうみたいねえ」
「ねえねえ、大佐。美唯もその身分証っていうのが欲しいわ。私にも作って頂戴な」
「私めだって欲しいわよ」
「私も、私も! 私も欲しいに決まってるわ」
またもやクレクレタコラの無限増殖かよ。大作は心の中で舌打ちするが決して顔には……
その時、歴史が動いた! 突如として現れた大勢の男たちが行く手を塞ぐように道の真ん中に立ちふさがっていたのだ。
あ、頭がどうにかなりそうだ。催眠術とか超スピードとかそんなチャチなもんじゃあ断じてねえ。もっと恐ろしいものの片鱗を味わったような、味わっていないような。
「大佐、ちゃんと前を見て歩かないと危険が危ないわよ」
「そ、そうだよな。前方不注意で追突事故を起こすと過失割合は基本的に百パーなんだもん。とは言え、こんな風に道を塞いでる方も悪いんじゃないのかなあ……」
「御本城様! お姿が見えませぬ故、随分と案じておりましたぞ」
「いったい何処へ参られておられたのでござりましょう。方々お探し致しました」
大作のボヤキを無視するかのように大勢の人垣の中から見るからに偉そうな格好をした二人の中年男性が進み出てきた。
「此方は御馬廻衆の山角主計頭様と鈴木大学助様にございます」
またもや聞いてもいないのにお絹が解説役を買って出てくれる。
大作は心の中で『知っているのか、雷電?!』と突っ込みを入れるが決して顔には出さない。ただただ、曖昧な笑みを浮かべて男たちの顔色を伺うのみだ。
やがて二人の男のうち、少し年上に痺れを切らしたかの様に口を開く。
「宜しゅうござりましょうか、御本城様? 昨日、小田原城に黒田官兵衛殿、並びに織田信雄殿の家臣滝川雄利殿が訪ねて参られました。御本城様が居らぬと申したのでござりますが、お戻りになるまでお待ち申し上げると居座っております。みなが扱いに難儀しております故、急ぎお城へお戻り下さりませ」
「What's? もう来ちゃったんですか? Wikipediaにはその二人が来るのは六月二十四日だって書いてあるんですけど?」
「訪ねて参られたのは先ほど申し上げたお二方に相違ございませぬ」
「さ、左様にござりまするか……」
これってやっぱり京や大坂を焼け野原にした副作用なんだろうか。何だか歴史の歯車が大きく動き始めたような予感がするぞ。
大作は内心の不安を必死に押し殺すと小田原城への帰路を急いだ。




