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巻ノ参百弐拾七 風祭の谷の姫姉さま の巻

 天正十八年四月十九日(1590年5月22日)の夕刻。日が西の空に大きく傾こうとしているころ、大作と愉快な仲間たちは小田原城から北西へ数キロ離れた山中を当てもなく彷徨っていた。

 いやいやいや、当てならちゃんとある! ありますから!

 大作は誰に言うとでもなく心の中で絶叫する。だが、決して顔には出さない。ただただ余裕のポーカーフェイスを浮かべるのみだ。


「ご安堵下さりませ、御本城様。間もなく風祭の谷が見えて参ります」


 まるで内心の焦りを見透かしたかの様にお絹が優しい声を掛けてきた。

 大作は卑屈な愛想笑いを浮かべると上目遣いでくノ一の顔色を伺う。


「そ、そうですか。もっと遠いのかと覚悟していましたけど思ったよりも近かったですな。心配して損しちゃいましたよ。ところで先日の戦では大事ありませんでしたか? 確か風祭村の手前に絶対防衛戦を構築して激しい戦闘があったって聞いてるんですけど?」

「ああ、あの戦のことなればお味方の大勝利にございました。討ち取った敵から剥ぎ取った武具のお陰で里の者は大いに潤い、皆が御本城様の御恩じゃと申しておりました。真に報謝の念に堪えませぬ」

「そ、そうなんですか。それは良かったですねえ。それはそうとアポ無しで急に押し掛けちゃって良かったんですか? 満室で泊まれませんなんて言われたら困っちゃうんですけど?」

「斯様な憂いは無用にございます。大恩ある御本城様のため、我ら風魔一族が心尽くしの饗を支度しておりますれば」

「でも、お高いんでしょう? カード払いにできますか?」

「???」


 眉根を顰めたお絹は黙って小首が傾げると鋭い視線を向けてきた。

 これはもう駄目かも分からんなあ。冗談が通じない奴の相手をするのは辛いぞ。大作は頭を抱えたくなる。

 だが、くノ一はくノ一でどうやら全く同じことを思っているらしい。何とも形容し難い微妙な表情を浮かべたまま、ほんの僅かに距離を取った。

 刺々しい雰囲気に包まれたまま歩くこと暫し。ほっとしたような顔のお絹が口を開く。


「御本城様、漸く見えて参りました。あちらに見えまするが我ら風魔の里、風祭の谷にございます」

「ほほぉう、アレが噂に名高い風祭の谷にございまするか。何だか風の谷みたいで格好良いですなあ。後でガンシップとか見せてもらっても良いですか?」

「どうぞどうぞ、遠慮のうご覧下さりませ」


 お絹は余裕の笑みを浮かべると大作が放った渾身のギャグを軽くスルーする。

 こいつはスルー検定一級だな。って言うか、早くもマトモに相手をするのが阿呆らしいと呆れられちゃったんだろうか。まあ、それならそれで別に構わないんだけれども。

 そろそろ頭を使うのが面倒臭くなってきた大作は考えるのを止めた。


 その時、歴史が動いた! 道端から現れた村人と思しき子供たちが手を振りながら駆け寄ってきたのだ。


「姫姉さま! よう、お戻りになられました!」

「お早いお帰りでしたな、姫姉さま!」

「姫姉さま、此方のお坊様は何方にございますか?」


 姫姉さまだと? いよいよ風の谷っぽくなってきやがったぞ。

 うだつの上がらない平民出にやっと巡ってきた幸運か? それとも破滅のワナか? 大作は内心でほくそ笑むが決して顔には出さない。

 余裕の笑みを浮かべると少しおどけた口調でくノ一に向かって話しかける。


「お絹殿は姫姉さまと呼ばれておるのですか? あんたも姫様じゃろうが、儂らの姫様とだいぶ違うのう」

「童共の戯れにございますれば、何卒ご勘弁をば下さりませ。私の如きくノ一など北条の姫君様とは比ぶべくもござりませぬ」

「いやいや、ほのかや美唯みたいなチンチクリンのこまっしゃくれたチビッコ姫よりお絹殿の方がよっぽど姫姉さまっぽいですぞ。メーヴェやトリウマとかに乗ったらさぞかし似合うことでしょうな」

「いやいや、滅相もございませぬ。其ればかりは平にご容赦のほどを」


 くノ一は激しく手を振って全否定する。だが、その顔には満更でもないといった表情が浮かんでいる。

 とは言え、本当に意味が分かって言ってるんだろうか。分かっていないんだろうなあ。大作は心の中で嘲り笑うが決して顔には出さない。


 少し進むと今度は反対側の家から妙齢のご婦人が赤ん坊を抱えて顔を覗かせた。

 側まで寄って立ち止まるとお絹がくるりと振り返る。


「御本城様、今年生まれた十重(トエ)の子にございます」

「おお、どれどれ。良い子だ。幼い頃のお絹を思い出す」


 このくノ一とはさっき会ったばかりだ。子供のころのことなんて知る由もない。

 だが、お絹の適応能力は想像を遥かに超えていたらしい。大作のボケを華麗にスルーすると余裕の笑みを浮かべて言葉を返してきた。


「左様にございますか。御本城様、どうかこの子の名付け親になってくださりませ。いつも良い風がこの子に吹きますように」

「引き受けよう。良い名を贈らせてもらうよ」


 この流れで断れる奴がいるだろうか? いや、いまい。反語的表現! 大作は心の中でガッツポーズ(死語)を作る。

 それに普通なら命名権(ネーミングライツ)というのは金を払って名前を付けさせてもらうものだ。それが今回はタダで命名できるというのだ。これを断る道理は無いだろう。


「うぅ~ん、そうですなぁ~…… だったらパズーとかどうですか? 親方の拳骨より堅い頭を持っていそうでしょう?」

「ぱ、ぱずぅ? にございまするか? いや、あの、その…… この子は娘にございます。いま少し麗しい名をお授け下さりとう存じます」

「これって女の子だったんですか! そう言われたら女の子に見えなくもないですかな? んじゃあ…… シータとかどうでしょう? 酒瓶で人の頭をぶん殴りそうな顔をしていますよ」

「し、しいた? まあ、ぱずぅよりは悪くないかも知れませんな。有り難き名を頂戴致しました」


 おばちゃんと赤ちゃんは二人揃って憮然とした表情を浮かべつつ黙って引き下がる。

 これにて一件落着! 大作は心の中で宣言すると哀れな女の子を心の中のシュレッダーに放り込んだ。




 一同が辿り着いたのは周りの家々に比べて少しだけ大きなお屋敷だった。長く伸びた茅葺き屋根の軒先には得体の知れない野菜らしき物がぶら下がっている。軒下に様々な種類の農機具が雑然と並んでいるところなど一見すると普通の農家みたいにしか見えない。

 だが、これはきっと世を忍ぶ仮の姿なんだろう。恐らくは忍者屋敷みたいな物凄い仕掛けが隠されているに違いない。

 大作は期待と不安にドキドキがワクワクしてしょうがない。


「御本城様。斯様なむさ苦しい屋敷にようこそお出で下さりました。何もございませぬが精一杯の饗しを支度してございます。まずは座敷で一休み下さりませ」

「いやいや、出羽守殿。無理を言って押し掛けてきたのは拙僧の方でございます。お気遣いは御無用。って言うか、お気遣いをしなくちゃいけないのはこっちの方ですかな。何ぞお手伝いできることがあらばお申し付け下さりませ。とりあえず…… とりあえずあの辺りが散らかってるみたいですから掃除しても良いですかな? この箒をお借りしますよ」


 勝手知ったる他人の家。いやいや、何一つとして知らないんだけれども。

 とにもかくにもタダ飯を食わせて貰おうという算段なのだ。その分の媚を売っておかねばならん。

 大作は壁に立て掛けてあった竹箒を手に取ると周囲の制止を軽く無視して玄関先を履き清める。それが済んだらお次は玄関の板の間を雑巾がけだ。


 ちなみに雑巾の歴史は鎌倉時代にまで遡るんだそうな。当時の絵図に描かれているくらいだから普通に使用されていたんだろう。ただし、その形状は現代のモップみたいな形をしている。T字形の棒に布を巻いて使っていたんだとか。

 現代の雑巾みたいに直に手で持って使うタイプの登場は室町時代を待たねばならない。このような布を当時は浄巾(じょうきん)と呼んでいた。それが訛って雑巾と呼ばれるようになったんだそうな。

 一般庶民にまで普及したのは江戸時代に入ってのことらしい。古い木綿の布を重ね、縦横に縫い合わせるという現代と同じスタイルの登場だ。


「お絹殿、玄関の掃除が終わりました。次は何方をお掃除しましょうか?」

「そ、其れならば…… 座敷の方をお願いできましょうや?」

「畏まりましてございます」


 面倒ごとには極力関わらない。それがくノ一の処世術という奴なんだろうか。お絹は足早にその場から立ち去ってしまう。


 去る物は追わず。ただ消え去るのみ。これが俺のポリシーなんだからしょうがない。

 固く絞った雑巾を手にした大作は卑屈な笑みを浮かべると座敷へ小走りに駆けて行った。




 日がとっぷりと暮れたころ、風魔小太郎の屋敷は隅々までもがピカピカに磨き上げられていた。

 体は草臥れ果て、あちこちの筋肉が痛んでしょうがない。だが、体中を心地良い疲労感と達成感が満たしている。

 座敷の隅っこで小さく体育座りしながら啜る焙じ茶の美味しいさは格別だ。

 生きてるって素晴らしいなあ。半笑いを浮かべた大作は独りごちる。

 暫くすると膳を抱えた数名の女性を従えた風魔小太郎が姿を現した。


「御本城様、大層と骨折りにございましたな。お陰様で屋敷が見間違えるほど清らかになりました。本に有り難きことにございます」

「礼には及びません。仕事ですから。ご厄介になるんですからこれくらいは当然のことです。『働かざるもの食うべからず』って言うでしょう? それに『空腹は最高の調味料』と申しますし」

「さ、左様にございますな。さて、間もなく宴の支度も整いまする。今宵は予てより企てておった京、大坂の火攻めの日でもございます。皆で美味い飯を喰らいながら無線連絡を待つと致しましょう」


 大作を上座へと案内していた風魔小太郎の口から突如として爆弾発言が飛び出した。

 馬の耳に念仏…… じゃなかった、寝耳に水の話に大作は思わず眉根を顰める。


「京、大坂の火攻めですと? 何ですかな、その面白そうなお話は。いま少し詳らかに聞かせては下さりませぬか?」

「何をお戯れを申されまするか、御本城様。この企ては御本城様の命に依る物にございますぞ。今より二月も前に御本城様より直々にご下命を頂いております。ほれ、この様に花押の入りし文も預かっておりますぞ」


 鬼みたいな顔をした忍者軍団の頭領は懐から小さく折りたたんだ紙切れを取り出す。丁寧な手付きで広げると『勝訴!』とでも言いたそうなドヤ顔で眼前に高々と掲げた。


「此度の戦は四百もの相州乱波と五十艘もの軍船を用いた大戦にございます。大坂城や聚楽第、はては御所までも焼き尽くさんとする大いなる企て。其れを御本城様が知らぬでは身を粉にして働いておる者達が……」

「いやいやいや、出羽守殿。知らぬだなんて一言も申してはおりませんぞ。多分、知ってはいたんでしょう。聞いた時には。ただ、それから色々とあって忘れちゃったんじゃないですかね? 菊田一夫は申された。『忘却とは忘れ去ることなり』ってね。何を当たり前のことをとお思いですかな?」

「……」


 さっきまで悪鬼羅刹みたいだった表情が僅かに和らいだような、柔がないような。

 だが、ワンチャンあるとすればこの一点に賭けるしかない。大作は頭をフル回転させると一気呵成に早口で捲し立てる。


「いや、あの、その…… 出羽守殿、ワーキングメモリーって言葉を聞いたことありますよね? 創造的仕事には前頭葉の活性化が大事なんです。レム睡眠中に記憶を整理してるって話があるじゃないですか。アレと同じで拙僧も記憶の整理整頓を……」


 配膳の邪魔にならないよう座敷の端っこに移動した大作と風魔小太郎は脳と記憶の関係について熱く語りあって時間を潰した。


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