巻ノ参弐百弐拾 大作、大いに怒る の巻
天正十八年四月十七日(1590年5月20日)の日もとっぷりと暮れたころ、大作とお園の二人は性懲りもなく八幡山の天文台を訪れていた。
天気予報によると夕方からは曇りとのことだ。だが、この時代の天気予報の精度など推して知るべし。もしかするともしかして奇跡的に晴れるかも知れん。晴れないかも知らんけど。
とにもかくにも予報が外れるというただ一点に一縷の望みを掛けて望遠鏡の前にスタンバる。スタンバっていたのだが……
仲良し夫婦の切なる思いが天に通じたのだろうか。あるいは単なる偶然の気まぐれなのか。結果的には雲量が三~五というそれほど悪くもない天気だった。お陰で意外なほど星を観測することができる。
とは言え、十七夜の立待月はとてつもなく明るい。まあ、それならそれで月面を観察するっていうのもアリなのか? アリと言えばアリなんだけれども……
「残念ながら真正面から光が当たっているせいで細かいクレーターまでは良く見えないな。その代わりに暗い所は良く見えるぞ。嵐の大洋、雨の海、晴れの海、静かの海、湿りの海、雲の海、エトセトラエトセトラ。みんな違ってみんないい!」
「故郷は遠きにありて思うもの。お月さまがこんなにも大きく見えるっていうのも存外と風情が無いわねえ。そも、海なんて呼ばれてるけど月面に水なんて無いんですから。アッ~! アレってもしかしてコペルニクスクレーターじゃないかしら?」
「そうなんじゃないかな。たぶんだけど。まあ、位置からいってコペルニクスクレーターで間違いなさそうだ。知ってるか? あいつは直径九十三キロ、深さ三千七百六十メートルもあるんだぞ」
「うぅ~ん。クレーター、大きいが故に貴からずよ。そも、お月さまにはもっともっと大きなクレーターだって幾らもあるんだし。月の裏側にあるヘルツシュプルングクレーターなんて直径が五百三十六キロなんですもの。むしろコペルニクスクレーターなんて月面クレータ四天王の面汚し、一番の小物なんじゃないかしら。さて、お月様はもう沢山よ。次はどの星を見ましょうか?」
接眼レンズから目を離したお園が空を見上げてキョロキョロと星を見回す。暫しの逡巡の後、西の空に低く輝いた星を指差しながら大声を上げた。
「鼓星、君に決めた! 大佐、望遠鏡を動かすわよ。手伝って頂戴な」
「はいはい、仰せのままに。見えるか、お園。オリオン座にはベテルギウスとリゲルがあるんだぞ。全天で二十一しかない一等星のうち二つも入ってるんだ。他にも二等星以上の星が七つも入ってるしな。これって凄いことだと思わんか?」
「そうねえ、大したものだわ。だけどもそれって大佐が衒ふことじゃないと思うわよ。それにしても真っ赤な平家星に真っ白な源氏星。どっちも眩いくらいに明るいわねえ」
「リゲルの質量は太陽の二十三倍もあるんだぞ。まだ誕生してから八百万年くらいしか経っていないのに中心核での水素核融合は終わってるらしいな。今はヘリウム中心核が収縮する段階なんだとさ。そのうちに超新星爆発するとも白色矮星になるとも言われてるな。ベテルギウスも生まれて八百万年くらいだけど質量は太陽の十二倍くらいだ。こっちは末期の赤色巨星で遅くとも十万年以内には超新星爆発するみたいだな。ちなみに主系列星時代のベテルギウスは太陽質量の二十倍くらいで表面温度は三万六千度もあったらしいぞ」
「確か源氏星って地球から六百光年も離れているのよねえ。これって私たちが見ている光は平安の御代に源氏星を出立したってことでしょう? なんて気宇壮大なのかしらねえ。胸ときめくわ。私、北条と豊臣の諍いみたいにちっぽけな話なんてどうでも良くなってきたわ」
お園は小さく溜め息をつくとゆっくり振り返ってしみじみと呟いた。
まあ、大作にとっても対豊臣戦なんて本当に些末な問題に過ぎない。って言うか、言われるまで忘れていたくらいの些事なのだ。
「それじゃあ今度はうしかい座でも見るとしようか。α星アークトゥルスはうしかい座で一番明るい星なんだぞ。全天でシリウスとカノープスの次に明るいんだ」
「それって麦星のことよねえ」
「麦星? それって何じゃらホイ。もしかして麦の刈り入れの時期に良く見えるとかそんなのかな?」
「そうなんじゃないかしら。そうじゃないかも知らんけど」
その晩、二人は東の空が白むまでひたすら星の観測を続けた。
ラッキーなことに天気予報は大外れだったらしい。明け方、うお座が東の空低くに昇ってくるころには雲も疎らに浮かんでいるだけだった。
「見えるか、お園。あの白っぽい星がたぶんヴァン・マーネン星だぞ。たぶんだけどな。お前さっきは六百年で稀有壮大とか言ってただろ? だけどもなんとびっくり、あの星は生まれて百億年以上も経ってるんだぞ」
「そうは言っても地球からたったの十四光年しか離れていないんでしょう? 星、古きが故に貴からずよ。私、ただ単に古いだけの星に用は無いわ」
「いや、あの、その…… 白色矮星が見たいって言ったのはお園だよなあ? そのためだけにこんな夜遅く…… って言うか、明け方まで起きてたんじゃなかったっけ? それほど見たく無いんならとっとと寝ればよかったじゃんかよ……」
「戯れよ、大佐。漸く念願が叶って白色矮星を見ることができて私とっても嬉しいわ。かくも見事なる望遠鏡を作ってくれれ有難う。大変な功績よ。大佐は英雄だわ。バンバンバン、カチカチ」
二人は暫しの間、大笑いすると眠い目を擦りながら本丸御殿へ戻って床に就いた。
翌朝、って言うかその日の昼近くになって二人が目を覚ますと小田原城は騒然たる雰囲気に包まれていた。
布団を畳んで寝間着を着替えるが待てど暮せど朝食、って言うか昼食? とにもかくにも一向に食事が配膳されてこない。
理由は見当も付かないが何だかとっても悪い予感がするなあ。大作は漠然とした不安感を無理矢理に抑え込むと伝声管の蓋を開いて呼び鈴を鳴らす。
暫しの沈黙の後、管の中から少しくぐもった声が聞こえてきた。まるでテレビの報道番組とかでプライバシー保護のためにボイスチェンジャーを使って加工した音声みたいだぞ。大作は吹き出しそうになったが空気を読んで我慢する。
「漸うお目を覚まされましたか、御本城様。朝餉、と申しますか昼餉と申しますか…… 膳をお持ち致しましょうや?」
「ああ、その声はナントカ丸か? 済まん済まん、ちょっとだけ寝坊しちまったみたいだな。ルームサービスをお願いするよ。なる早でな」
「畏まりましてございます。然ても御本城様、つい今し方より萌様、サツキ様、メイ様、ほのか様、美唯様らお方々が火急の用件とやらで目通りをお待ちにございます。お通ししても宜しゅうございましょうや?」
「な、なんだってぇ~? どうして起こしてくれなかったんだ? 早く通してくれ」
まるで待ちかねていたかのように障子が開くと切羽詰まった顔の女性陣が雪崩込んでくる。一気に部屋の人口密度が増えたせいで大作は何だか息苦しいような気がしてきた。
「え、えぇ~っと…… 何か重大なトラブルでもあったのかな? 急ぎの用なら別に起こしてくれても良かったんだけどなあ」
「大佐ったら、前に言ったわよ。ノルマンディー上陸戦の時のヒトラーみたいに何があっても絶対に起こすなって」
「あのなあ、美唯。あんなの冗談に決まってるだろ? 決まってない? いや、決まってるような気がするんだけどなあ……」
「そんなこと今はどっちでも良いのよ、大作。それよりも今そこにある危機を何とかしないと北条は滅亡するわ。これが現時点での勢力圏よ」
横から割り込んできた萌が物騒なセリフを早口でまくし立てた。メイが新聞紙くらいの大きな地図を畳の上に広げる。紙の上には部隊配置や進行方向が乱暴に書き殴られているようだ。
「天正壬生の乱より後で北条方に付いた諸将は悉く敵に寝返っているわ。それどころか大道寺や和田までもが裏切ったお陰で武蔵国は完全に敵の勢力圏に落ちたみたいね。今、川村秀重が使える戦力を何とかして掻き集めて防衛ラインの再構築を……」
その時、歴史が動いた! 萌の言葉を遮るように唐突に障子が開くと紙束を抱えたナントカ丸が息せき切って姿を現す。
「御本城様、一大事にございます! 敵方が彼方此方で陣を越えて攻め進んで参りました。東では酒匂川を渡り浜伝い近づいております。北では穴部と五百羅漢が落とされ、西では早川を超えて惣構にまで辿り着いたような」
「政四郎の攻撃で平穏を取り戻すだろう」
「御本城様…… 政四郎様は……」
フラフラと視線を彷徨わせたナントカ丸は言い難そうに口籠る。
見るに見かねたのだろうか。メイがナントカ丸の手から紙片を受け取ると口を開いた。
「どうやら政四郎様は攻め掛けるだけの兵を集めることができなかったみたいね。政四郎様は未だ敵に攻め掛けてはいないわ」
ここでようやく大作はピ~ンときた。これって例の名場面の再現じゃね? だったら一世一代の名演技を見せてやらねばならんな。
大作は手をプルプルと震わせながらゆっくりとメガネを外す真似をする。今にも爆発しそうな怒気を孕んだ声音で囁くように告げた。
「……今から名前を呼ぶ者は残れ。お園、萌、サツキ、メイ、ほのか、美唯、ナントカ丸」
「それってここにいる皆じゃないの?」
「マジレス禁止! せっかくの名場面なんだから黙って聞いててくれるかな?」
イマイチ納得が行かないという表情を浮かべながらも美唯が黙って頷く。
大作は軽く息を吸い込むと血管がブチ切れそうなテンションで目一杯の絶叫を発した。
「命令しただろうがぁ~! 政四郎に攻撃しろと命令しただろうがぁ~! 一体、どこの誰が、俺の命令に背いたんだ? その結果がこれだぞ! 軍は俺を欺きやがった! 誰も彼もが俺を欺いた、御馬廻衆もだ! 小田原衆は糞ったれ以下の下劣で不届きな臆病者だ! 今すぐ政四郎を逮捕して銃殺しろ!」
「大佐、納得が行かないわ。兵は大佐のために血を流して……」
阿吽の呼吸でお園が合いの手を入れてくれた。これぞ長年連れ添った夫婦の絆って奴なんだろうか。大作はアイコンタクトを取ると軽く頭を下げて謝意を表す。
「お前らみんな卑怯者だ! 意気地なしだ! 敗北主義者どもめ!」
「あのねえ、いくら大佐だからっていい加減に言葉が過ぎるわよ!」
「奴らはみんな揃いも揃ってクズの集まりだ! 恥さらしだ! お前ら侍大将とか呼ばれていい気になってるみたいだけどな! 覚えたのは椀を箸の持ち方だけか? いつもいつも軍は俺の邪魔ばっかりしやがって! 考え付く限りの手段で妨害しやがって! 俺もやっとけば良かったぞ! スターリンみたいに片っ端から粛清しちまえばな! 俺は大学を卒業してない。だって高校生なんだもん。だけども俺は自分一人の手でやってきたんだぞ。全ヨーロッパの征服が目前だったんだ! 裏切り者どもめ…… 始めから俺は騙されて裏切られてたのか? これは重大な背任行為だぞ! だけども裏切り者には必ずや報いがくるんだ。お前らの血で購うんだ。お前らみんな自分の血で溺れ死ねば良いんだ! うわぁ~~~ん……」
黙ったまま俯いているお園、萌、サツキ、メイ、ほのか、美唯、ナントカ丸たちの表情は揃いも揃って絶望感で覆い尽くされている。
それほど広くもない座敷をただ沈黙だけが支配していた。




