巻ノ参百拾八 自由な雲のように の巻
天正十八年四月十六日(1590年5月19日)の未明、小田原へと届いた一本の電報によって広い広い小田原城は蜂の巣を突いたような大騒ぎとなった。
一夜明けた四月十七日(1590年5月20日)になってもその混乱は収まるどころか却って輪を掛けた修羅場の様相を呈している。
ちなみに新聞紙を丸めてテルテル坊主の逆さ吊りみたいにしておくと蜂は先住者が居ると思って巣を作るのを諦めるんだそうな。そう言えばアマゾンとかで本物にクリソツ(死語)な蜂の巣を売っているのを見たような気がするぞ。そうそう、話は変わるけど……
「ちょっと、大佐! どうでも良い無駄薀蓄は置いといて今日こそちゃんと話を勧めて頂戴な。佐竹や宇都宮に攻められた壬生様は今頃、さぞやご苦労なさっている筈よ。たぶんだけど」
「たぶんそうなんだろうな。そうじゃないかも知らんけど。だけども壬生はここ小田原から百四十キロも離れてるんだぞ。いまさら慌てたってどうにもならんさ。座して死を待つしか無いんじゃね? それに今日は死ぬには良い日だろ?」
どうせ他人事だ。なるようになれ。半笑いを浮かべた大作は肩の高さで両の手のひらを掲げるとおどけたように小首を傾げる。
真面目に相手をするのが阿呆らしいとでも思ったのだろうか。お園は急に眉を顰めると深いため息を付きながらがっくりと項垂れた。
だが、捨てる神あれば拾う神あり。って言うか、死して屍拾う者なし。静かに障子が開くと紙切れを手にした萌が顔を現した。
「おはよう、大作。良いニュースと悪いニュース。どっちが聞きたい?」
「俺が落としたのは普通の斧だぞ。金や銀の斧じゃ木は切れないからな」
「はいはい、じゃあ悪いニュースからね。新田の北条氏光が率いる五百騎と佐野の佐野氏忠が率いる百五十騎を壬生の救援に向かわせたんだけども途中で消えちゃったわ。煙みたいにヒュ~ドロンってね」
「消えた? それってセルティックウッドの怪みたいにか?」
「規模から言うとノーフォーク連隊集団失踪事件の方が近いかも知れないわね。どうやら集団逃亡したみたいなのよ。まあ、もとから士気が低かったみたいなんだけれども」
吐き捨てるように呟くと萌が紙片を手渡してくる。受け取った大作はチラリと文面に視線を落とす。だが、例に寄って例の如くミミズが這ったような文字はこれっぽっちも意味が分からない。って言うか、これって本当に文字なんだろうか。
「んで、良いニュースの方は? なんじゃらほい?」
「小田氏治に話が付いたわ。小田城攻めの時の借りを返してくれって頼み込んだら千人ほど兵を出して貰えたのよ。小山城を攻めている結城氏を南から牽制してくれるはずよ」
「そ、そうなんだ。あのおっさん意外と義理堅いんだな。まあ、単純に私欲で動いているのかも知らんけどさ。だって国家間に友情なんて存在しないんだもん」
「そうかしら? 私は国家間の友情を信じているわよ。人と人の友情を信じるようにね!」
お前は『ローマの休日』のアン王女かよ! 大作は心の中で激しく突っ込みを入れるが決して顔には出さない。
「まあ、お前らみたいな甘ちゃんはせいぜいお友達ごっこをしてるがいいさ。そんなことよりも……」
「あまちゃん? それって誰なのかしら? もしかしてその女にも懸想していたんじゃないでしょうね?」
突如として頬を膨らませたお園が詰め寄ってくる。大作は両手を掲げて距離を取りながら軽くいなした。
「はいはい。お約束、お約束。とは言え、小田氏治が結城の側面を突いただけじゃ牽制にしかならんぞ。どうにかして壬生城と鹿沼城に対する直接支援を行えるだけの戦力を抽出しなきゃならん。近場で手の空いた部隊はおらんのか? 唐沢山城の北条氏忠なんてどうじゃろな? 確か氏忠って奴は氏直の叔父に当たるんだっけ?」
「あそこはダメね。ダメダメだわ。佐野房綱っていう人が三年も前から豊臣方に付いてコソコソ動いてたのよ。それがここへきて急に旧領奪還に燃えてるみたいね。いま氏忠を唐沢山城から動かしたら佐野家が乗っ取られかねないわ」
マップ上の駒を指し示しながら萌が力説する。その声音は内心の苛立ちを隠そうともしていないようだ。
これはもうダメかも分からんな。大作は早々と諦めの境地に達しそうになる。なったのだが……
いやいやいや、諦めたら試合終了じゃんかよ。何か良い知恵は無いのか? 一発逆転のナイスアイディアは無いんだろうか。無いんだろうなあ。
「空軍はどうなんだ? 近接航空支援を行うことはできんのか?」
「それは無理ね。天候も悪いし、そもそも航続距離がまるで足りないわよ」
「それなら水軍は? 伊豆水軍を動かすことができれば……」
「梶原も清水も豊臣方の通商破壊で手一杯よ。あと、補給任務だってあるし。それに壬生は海から五十キロは離れているのよ。いった水軍に何ができるっていうのかしら?」
「だったら、だったらもう……」
大作が不安気に視線を彷徨わせると座敷に集った一同は露骨に目を反らせた。
短い沈黙の後、萌が地図上の駒を手早く動かしながら口を開く。
「ここは思い切って戦線を後退させましょう。利根川を絶対防衛線にするのよ。秋までの食料は備蓄米で十分に足りてるわ。どの道、稲刈りまでには戦を終わらせるつもりなんだし」
「だけども万が一、豊臣が秋になっても降伏しなかったらどうすんだ? 本気で長期戦になったらこっちが不利だぞ。なんせ国力差は五対一くらいなんだ。攻者三倍の法則を考えても数で押し切られるかも知れんだろ。押し切られんかも知らんけどな」
「それは心配のし過ぎってものよ。この時代、二十万を越える大軍への補給を長期に渡って維持できるはずがないわ。二百年後のナポレオンですらできなかったんですもの。もし冬がきたら豊臣は餓えと寒さでお終いよ」
「そ、そうかなあ。朝鮮出兵の時には玄界灘を越えた兵站をギリギリで維持できてなかったっけ? かなり無理があったみたいだけどさ」
売り言葉に買い言葉。何かもっともらしいことを言わねば阿呆だと思われるかも知れん。大作は無い知恵を絞って反論を口にする。
だが、何の根拠もない屁理屈は感情論と言うか詭弁と言うか…… そんな虚しい言葉を萌は右から左へと聞き流した。
それまで黙って大人しく話を聞いていたお園が遠慮がちに口を挟んでくる。
「あのねえ、大佐。できるかなじゃないわ。やるのよ! 取り敢えず壬生義雄様が敵を引き付けてくれている間に栗橋城と関宿城の守りを固めましょう。もし、川を渡ってくる敵がいてもすぐには戦わない方が良いわね。少しおびき寄せてから補給を断つのが良いと思うわ。金山城や館林城も放棄よ。予備戦力を置くのは…… こことここ。それからここかしらね」
「あのさあ…… 金山城はともかく館林城は不味いんじゃね? あそこって確か氏規の城だよな? あのおっさんには散々に無理を言って韮山城を守ってもらってるんだぞ。それなのに留守中の城を勝手に放棄されてたら怒るんじゃないのかなあ。俺だったら絶対に怒っちゃうぞ」
「美濃守様には申しわけないけれど止むを得ないわね。ここで対処を誤れば下総国までもが危ういわ。大事の前の小事よ。美濃守様には泣いて頂きましょう。それじゃあ決を取るわよ。利根川、常陸川から東を一旦放棄する案に賛成のお方は挙手をお願いします。ひい、ふう、みい…… 美唯、あんたは反対なの?」
「み、美唯も手を上げて良いのかしら? だけども美唯はしがない連絡将校なんだけどなあ」
きょとんとした顔の幼女が上目遣いにお園の顔色を伺う。
ここはフォローが必要なのか? 大作は果敢に火中の栗を拾いに行った。
「自分のことをしがないなんて言うなよ…… 別れ際にさよならなんて悲しいこと言うなよ!」
「美唯はそんなこと言っていないわよ、大佐。とにもかくにも美唯。あんただって防衛会議の立派な正式メンバーなんですからね。自らの信じるところに従って一票を投じなさいな」
「だったら、だったら美唯も賛成よ!」
満面の笑みを浮かべた美唯が高々と右手を掲げる。お園は満足げに頷くと再び一同の顔を見回した。
一瞬の後、さほど広くもない座敷に集う全員の視線が大作に集中する。
「大佐はどうするの? 賛成票を入れていないのは大佐だけみたいよ?」
「俺は雲! 俺は俺の意志で動く。ざまあみたかラ王!」
「じゃあ大佐は反対なのね?」
「いやいや、ここは敢えて棄権という選択肢を取らせてもらうよ。賛成しないけれども反対もしない。皆の意見に同調しないことで万一の場合に責任を回避したいんだ」
「そう、良かったわね。じゃあ賛成多数で本案を可決いたします。美唯、直ちに各部隊に命令を伝達しなきゃならないわよ。まずは電報で送り、正式な命令書は後から早馬で届けて頂戴な。ここからは時間との戦いよ。大急ぎで……」
その時、歴史が動いた!
お園の言葉を遮るように障子が音もなく静かに開く。隙間から顔を覗かせたのはナントカ丸だった。
「大事なる評定を妨ぐること申し訳次第もございませぬ。御裏方様に火急の知らせがあって罷り越しましてございます。ご無礼の段、平にご容赦賜りたく存じ上げ奉り……」
「能書きはいいから早く用件を話せよ、ナントカ丸。火急の知らせって何じゃらほい?」
「ははあ…… 御裏方様に良い知らせと悪い知らせがございます。何方から先にお聞きになりとうございますか?」
これ以上はないというドヤ顔を浮かべたナントカ丸が顎をしゃくった。
この言い方って流行ってるんだろうか? 流行ってるんだろうなあ。まあ、死ぬほどどうでも良いんだけれど。
お園は暫しの間、小首を傾げて考え込む素振りを見せる。だが、チラリと大作に視線を合わせた後、ゆっくりと言葉を選ぶように口を開いた。
「こういう時って悪い知らせから先に聞いた方が良かったのかしら? 悪い知らせほど早くしろってビル・ゲイツ様も申されてたのよねえ?」
「まあ、一般論から言っても後で良い知らせを聞いた方が気が休まるもんなあ。下がったテンションを上げて終われる方が良いだろ? 先に良い話を聞いちゃうと気が滅入ったままで終わっちゃうんだもん」
「そうは言うけど、大佐。好きな物から先に食べるって考え方もあるわよ」
「って言うか、悪い知らせを先に聞くのは少しでもシンキングタイムを稼ぎたいからじゃないのかなあ。だったらこんな無駄話で時間を浪費するよりも早く話を聞いた方が良いかも知れんぞ。良くないかも知らんけど」
「分かったわ、大佐。じゃあナントカ丸。悪い話から先に聞かせて頂戴な」
お園は不承不承といった表情を浮かべながらもナントカ丸に先を促す。
幼い小姓は姿勢を正すと糞真面目な顔で口を開いた。
「今宵の空は曇り空との見通しにございます」
「へぁ? それが悪い知らせなのか? 何じゃそりゃ。わけが分からないよ……」
「待ちなさいな、大佐。それで? 良い知らせは何なのよ、ナントカ丸。言ってみなさいな。聞いてあげるから」
「畏れながら御裏方様。無理に聞いて頂かなくとも結構でございますぞ。まあ、どうしても知りたいと申されるなら話さぬでもございませぬが」
「あらあら、ナントカ丸。妾だって無理にでも聞きたいってことはないのよ。まあ、ナントカ丸がどうしても話したいっていうんなら聞いてあげぬでもないけれど。うふふふふ……」
「あはははは……」
二人の間にまるで目に見えない火花放電が飛び交っているような、いないような。何とも言えない微妙な緊張感が漂い始める。
先に動いた方が殺られる。そんな剣呑な雰囲気を打払おうと大作は努めて明るい声を上げた。
「まあまあ、二人とも落ち着いて。俺のために争うのは止めてくれないかな?」
「別に大佐のためなんかじゃないわよ!」
「某も御本城様のために言うておるのではございませぬぞ」
「分かった、分かった。ここは一つ俺の顔を立ててくれよ。な? な? な? んで、ナントカ丸。良い知らせって何じゃらほい。言うてみ」
痺れを切らした大作は拝み倒すように頭を下げる。お園とナントカ丸もいい加減、この不毛な争いに飽き飽きしていたんだろう。二人は揃って落ち着きを取り戻したようだ。
ひと呼吸を置いた後、勿体ぶった顔の小姓が口を開いた。
「それでは御裏方様、良い知らせにございます。先月末より試験運用しておりました八幡山の展望台が漸く仕上がりましてございます。直ぐにでもお引渡しできます故、今宵からでも天体観測をして頂けますぞ」
「へぇ、へぇ、へぇ、へぇ! そりゃ良かったな、お園。って言うか、おめでとう!」
大作がお祝いを言うと釣られたかのように皆も祝福の言葉を口にし始める。
サツキ「おめでとう」
メイ「めでたきことにございます」
萌「めでたいわね」
ほのか「おめでとさん」
美唯「おめでとう」
小次郎「にゃぁ~!」
お園が全員の顔を見回しながら破顔する。
「ありがとう!」
『父にありがとう、母にさよなら、そして、全てのチルドレンに、おめでとう』
大作は字幕テロップを脳内で補完する。
だが、唐突にナントカ丸が鋭い突っ込みを入れてきた。
「然れど御裏方様。先ほども申し上げた通り、今宵は生憎の曇り空にございます。折角の望遠鏡も雲を見ることしかできぬとは口惜しい限りにございますな」
座敷に集う一同は背中に冷水を浴びせ掛けられたかのように静まり返った。




